かへり見すれば 4
「エヴィ!」
高い位置から見ていたカノンシェルが警告の叫びを上げ、気配を察した青年も跳び退って距離を取った。
ぶくぶく、と腹心の身体が瞬く間に膨らんで、背丈もぐんと伸びて、見上げるほどになる。
筋肉質な、四角張った体躯の----それは巨人だ。
もじゃもじゃと髪が巻き、耳から顎を濃いひげが覆った。剥き出しになった手足は鱗のようなものが張り付いて、金属質な光沢を放つ。
普通なら失神するか、恐慌を起こして喚き散らして逃げ出そうとするところを、吐息一つ。
「そこで待っているように。」
カノンシェルには言い置いて、
「老伯は・・・ご存じではなかったようですね。」
かっと目を見開き、突然変容した腹心の姿を見上げているのだから、そういうことだ。
「短絡的すぎる。」
呆れたように言われて、巨人は明らかに気分を害したようであった。言葉が通じることを確認できた青年は老伯をそっと押しやって、青年は巨人を正面にした。
「----もう、戻れんだろうに。ただ、その忠義心は本物なんだろう。」
憐れむ様に呟いた。
武装については言及しなかったから、腹心も細身剣を持ち込んでいたが、いまのサイズでは引き抜けないだろうそれは裂けた剣帯にひっかかって、巨体が身じろぐたびに床と擦れて耳障りな音を立てている。
つまり、丸太のようになった腕での撲殺一択ということだ。
巨体に見合わぬ、かつ人間の速度ではない速度で殴り掛かってきた巨人から青年は身をかわす。風圧で、空気がうねるような音を立てた。
「い、いかん。やめよ、」
呆然としていた老伯が、我に返って制止の声を上げた。
「この方を傷つけてはならぬ!!」
主人の言葉は聞こえているのか、それとももうこれしかない、と思い切っているのか。重い拳の連撃が、青年に向かう。巧みに跳び退っているが、じりじりと壁際に追いやられていく。
「老伯。----終わりにさせてもらいます。」
もう下がれない壁際なのに、わざわざ断ってくるところは、律儀な性格の賜物かも知れない。
逃れられない位置に追い込んだことに、巨人は尖った歯を剥き出しにして、にっと満足そうな笑いを浮かべた。腹心の姿であった時の、品も知性も、もう感じることはできない。
最後とばかりに、容赦なく拳が振り下ろされる!
人が蚊を潰すような、そんな有様になる! と、観客がいたのなら目を瞑ったに違いない。しかし、カノンシェルも老伯も、そこを案ずることはなかった。
振り下ろしたはずの掌が、受け止められたことに、表情が読み取りずらくなっているが、巨人はぽかんとして腕のしたに見える青年を見下ろした。
朱い、剣。
変哲もない栗色の髪が、朱色の房を散りばめた豪奢な金の髪に変じさせた青年は、特に気張った様子もなく、その剣で拳を受け止めていた。いや、正確には拳は剣に触れていない。剣が放つ、光のような何かによって止められている。
ぐうぅうぅ、と歯の隙間から、混乱したような呻きが押し出された。
分厚い瞼の下の瞳を真っすぐに見上げて、青年は柄を握る手に力を入れる。朱が、金色の光を塗したようなきらめきを含んで膨れ上がって、その視界を灼いた。
「…死ん、で、」
服はずたずたになっているから、ほぼ全裸の状態で床に転がっている腹心の姿を、ガレシ老伯は食い入るように見た。駆け寄りたいという様子だが、足が動かぬ様子だ。
黒く焦げたように変色して、血は出ていないものの抉れた状態になっている脇腹と両の太ももから、ずるりと抜け出してきた青黒いモノの上に、青年は朱い剣をかざした。ナメクジに塩をふったように、それラは収縮して、カランと乾いた音を立てて床に転がった。砕いて流す代わりに、慎重に摘まみ上げ、ちょっと見ないような光沢のあるポーチに仕舞った。
「息はある。」
青年の答えだ。
「生存の可能性は分からない。あなたの孫と同じで。」
「!?」
「異物は排除したが、この者は変態が度を過ぎたし、ティバレスは元が弱すぎる。それでも、人とは思えぬ姿で死にたくない、というのが彼の願いだった。」
うなだれた老伯は崩れるように、しかし確かな意志をもって青年の前に跪いた。
「お初にお目にかかります。スチュアード・ガレシでございます。」
「エアルヴィーン・朱玄だ。真実の陛下の代理は、成人前の妻ではなくわたしである。」
老伯は、名乗りに肩を震わせ、深く深く頭を下げる。
「罪はもうお分かりだろうか。今回の件は小領地単独の企みではない。我が家を思う余りとはいえ、他国の干渉もあり得ると承知のうえ、侵略を誘因する行為を行ったと断じる。よって、スチュアード・ガレシに申し付ける。」
「は、」
「ガレシの封を解く。もとガレシ伯スチュアードは、白公内に即刻移送とする。被害者でもあるガレシ子爵ティバレスには、彼の住居として別棟の使用を認め一定額の年金を与えるが、ガレシ領は暫し国の預かりとし、今回の件について徹底的な調査、裁定を行うものとする。」
ガレシ老伯----いや、もと伯は言葉もなく、ただ頭を垂れて、ぶるぶると震えている。怒りなのか、嘆きなのか、遠く見るカノンシェルはその心中を思う。
許されざることをした----運命を捻じ曲げるようと画策したひとは、自分も同じではないか。契約した悪魔が、小物か大物か、失敗か成功の違いあれど。
後悔は微塵も覚えない。けれど、青年が生きる運命は、誰かの破滅であるのかも知れないと、ふと考えて、しまった。
青年がいなければ、ガレシに裁き手は現れた、のだろうか?
青年が踵を返す。引き上げるぞ、と言う代わりに、手を伸べてくる姿に短い段を駆け下りた。
高貴なる二人が静かに退場し、入れ替わりにカルローグが部下を連れて、蹲ったままの老元伯と倒れ伏した腹心の「処置」のために姿を現した。
「朱公のお力になりたかった!」
ぶつぶつ、と老元伯は床に言葉を溢している。
「儂だって、シュレザーンのように朱公の役に立てたはず。成り上がりの奴より早く、儂の方が朱公の御傍近くにいたというのに。片田舎の領地に引き戻されて、縛り付けられて。今度こそ、遅れをとってはならないのに。」
ああ、やはり錯乱しているのだと、カルローグは思った。
いつから。
きっと、もう長く。
だから、この顛末なのだ。
「やはりスチュアードは役に立つ、と朱公は再たわしを傍に戻して、やはりお前にいてもらわなくてはと申される。」
老人の中で、「朱公」は、現代ではなく伝説の将として名を残したその曽祖父と、いまの青年が入り乱れている。(幾多の逸話を持つ、恐ろしく魅力的な人物であったらしい。)
朱公に対しての、若き日の執着----人生の泡沫。心残り。それが、凝った。
人生の屈託というものが「動機」は、若い彼らではまだ推し量れないが----入り口で立ち止まった青年がこちらを見ているのに気付いた。
ご心配なく、と太く笑ってみせれば、任せた、と笑みと共にひら、と手が振られる。自分だけ向いた、その一連。
なるほど。と、不意に腑に落ちた。
「…彼の一番になりたいなどという身の程知らずな願いは持たないが、」
独り言だ----そのつもりだった。
「誰かよりも、たくさん彼との時間が自分に積もるのは悪くない、ものだ。」
朱公の血脈恐るべし、と笑い話として胸に収める、はずだった。
「…異花陸の血を持つ騎士よ。」
蹲った老人は降ってきた騎士の言葉を、周囲に散らしでもするように、くつくつと肩を揺らした。
「儂のようになるな、と老婆心ながら忠告しよう。」
虚ろながら妙に熱っぽく血走った目で騎士を見上げた。
「早くそのきれいな言葉を裏切ってしまえ。儂のようにならぬために。」
同じ奈落の底に引きずり込もうとばかりの、呪いに満ちたその声を、カルローグは随分と長く忘れることはなかった。




