75 かへり見すれば 3
「あなたには会ってみたい、いや会わねばならぬとずっと思っていた。」
断罪者とは思えぬ静かな語り口だ。
「あなたがオレノを固めていたおかげで、この土地の人々は戦禍に巻き込まれず、土地も人も健やかだ。そして、ここが健やかであるから、わたしたちは傷深い場所に注力することができている。五侯国も、歴戦の伯を前に、おいそれと手を出しては来ない。」
スチュアード・ガレシ伯爵----ガレシ老伯は、かの戦役時、主を喪った白公領の南西部を含むオレノ高原地域に、『凪原』を侵攻を許さず守り切った人物として地元の評判が高いが、オレノ以外からは、避難民を受け入れず、援軍も、いかなる支援も出さず、自領と傘下のために、むしろ利敵に等しい行為を行った反逆者だと訴えられている。
「あなたが王都への召喚に応じないことも、五侯国への牽制になっていたから、わたしたちはそれを利用してしまった。独立した健やかなガレシを取り込めるかも知れない、という調略に注力してもらえば、ボロボロの白公領には手が回らないだろう、と踏んだ。その分、わたしたちには他に回す余力ができる。」
老伯は、杖の柄を固く握ったまま、ゆっくりと目を上げた。階段を下りきり、自分と同じ高さに立った青年を見上げた。青年の顔を真正面からじっと見、まずは何かに引っかかりを覚えて、眉根を寄せた。奥から、じわじわと記憶が染み出して、絵を浮かび上がらせていく。
「あなたには、まず感謝を伝えたいと思っていた。また、悉く先達を喪ったわたしたちにとって、可不可はさておき、あなたの実践は数少ないロールモデルとして着目するに足り得た。会うことはできないでいたけれど、心強い師のように、感じていた。」
まさか、と自分が記憶の底から拾い上げた絵を、青年の面に広げて老伯は口を動かした。
「後回しにした。それはわたしたちの未熟な甘えであり、自戒すべきこととして、あなたに詫びる。」
青年は静かに礼を取った。ゆっくり顔を上げた時、表情は一変した。
「だが、罪は罪だ。ガレシ伯。」
「まさかティバレスさまの件でございますか?」
気色ばんだ様子で腹心が応じた。
「あれは事故、想定外です。治療師たちがヘマをしただけで、閣下はティバレスさまを何とか健康な身にしようと為さった。家族を思う気持ちを罪と言われるのか!?」
青年は老伯を見た。慄いた目で青年を見返した老伯は、しわがれた声を発した。
「…やめよ、」
「閣下!?」
「やめよ。…どうぞ、先を。」
「あれは、ティバレスではなかった。」
「----はい、」
「ティバレスを名乗った別人だった。」
「はい。」
「閣下!? なぜ首肯されるのです!? ティバレスさま、その方でございました! 替え玉でも、代役を立ててもおりません!」
「身体は、な。」
遠くから、退出させられた人々がたてるざわめきが聞こえてくる。それを少し気にしたように、遠く視線を投げた。
「ティバレスではない、精神が、ティバレスの身体を遣っていた。彼の身体を救うために、施された手術のせいだ。健康な体が優先れば、血が残せる、と、それがあなたの罪だ。」
「妻もなくし、ままごとのような孫夫婦の生活と、老いをひしひしと感じながら、ガレシを存続させる術を思い悩んでいた折に、この話が持ち込まれました。テダンにおける成功例も見、ガレシの未来のため、賭けることとしました。----勝てる気がしたのですが、賭け事などしたことのない身の勘なぞあてになりませんな。すっかり外しました。」
告解、なのだろうか。いや、
「同じ国に生まれようと、どんな友誼を深めようと、裏切る者は裏切る。ですが、血は決して裏切らない----裏切りようがない。貴方様こそ、そう思われませんか?」
爛々とくぼんだ目を輝かせて、老伯は言を継ぐ。
「貴方様のことを聞き及んで、ガレシも正しく血を繋いでいかねばと決意しました。貴方様には正しき血統の者が不足している。どことも知れぬ出の傭兵、敵国人、成り上がりの騎士や下級貴族、十把一絡げの平民、異花陸の混血、母方の血こそ尊いが所詮は浮浪者の父をもつ娘も、一夜の情けで生まれた余り者も、貴方様には相応しくない。あの方の側に儂が在ったように、ガレシの血筋こそが、朱公閣下の側には必要なのです。」
滔々たる老執----彼にとっての真実を語る。
「----遅くなった。」
詫びるように青年は呟き、カノンシェルは、そっと息を吐く。篭絡。洗脳。丸め込む。教唆。妻を亡くした孤独な老人は、更にこの地で並ぶものなき地位ゆえに孤高で、付け込むのは難しくなかったに違いない。
「俺だって、ただ生まれただけだ。そして、俺の周囲に在るのは『遠海』を創ろうという想いをもって集まった者たちだ。どこから来ようと、どんな生まれ育ちだろうが、その心こそが俺たちを繋ぐ。」
青年も何度か首を振りながら、熱に浮かされたような老伯を痛ましく見たが、言葉を濁すことはしなかった。
「語るに落ちた。何のために外側を被って、『遠海』に入ってくるというのか。その心が我等に繋がるというなら、皮なぞいるまい。」
「…コドウさんが言っていた、持ち出された《調》の技術ね…」
カノンシェルが呟きは、台詞の隙間に挟まって、思わぬ響きを持った。
「単なる密輸入のためという、単純なものではなく悪辣な転用の研究が行われているということのようだ。人間に、異界の成分を注いで融合し、調える。テダンは----五侯国が、何に取りつかれているか理解できたのは、飛ばされた甲斐があったというべきか。」
「けがの功名?」
「少々大怪我だったが。」
少女の緊張を解すつもりか、軽口をきいてから青年は視線を老伯から腹心に移した。
「ガレシ…オレノの懐柔は前哨戦のつもりか----動くな、」
抜剣はしていない。鞘ごと剣帯から引き抜いて胸もとに突き付けた。鞘ごとの一撃でも十分なダメージを与えることができる。殺す気はない。つまり。
「テダンとの窓口はお前だ。語ってもらうぞ。」
腹心は無感動に胸元の剣を見下ろした。
唇が、ゆっくりゆっくり、端をつりあげて、半月のような笑みの形に為っていく。目も。にたり、とした、薄気味の悪い表情。
罪を問われている者が浮かべる表情ではない。
あと二話で「綿津見編」を終える予定です。




