74 かへり見すれば 2
親戚や旧知の者に囲まれて、無言で杖の柄を握りしめていた老伯は近づいてくる白公領守備隊副長も無感動な目で迎えた。四方公爵の印章を盾に、ティバレスとナナアを保護して、ガレシを離れたと聞いていたが、
「…戻ってまいったのか。」
「御令孫夫妻は恙なく、」
「…ふん、」
報告は結構、と手を振って下がらせようとしたが、カルローグは老伯を見据えた。
「先ぶれでまかり越しました。」
「ほお、白公領の留守居役でも参ったか。」
留守居役も綺族で伯位だが、本来なら家督を継ぐはずもなかった系譜の、若輩者だとあからさまに軽んじた物言いである。
「いいえ。」
深く頭を下げたのは、老伯への敬意ではなく、その名を告げる人へのものだ。
「カノンシェル王女殿下がお入りになります!」
高らかな声は合図である。
もっとも上座の、家の主か上位の賓客だけを通す扉が厳かに開かれた。先ぶれの騎士たちが左右に立って道を守り、貴人を迎え入れる。
突然のことに、棒立ちになっていた人々が慌てて膝を屈めて頭を下げた。
『遠海』王太子が公式の場に姿を見せたのは『遠海』現国王が正式な即位式を終え、彼女の立太子と四方公爵との婚姻が発表された祝宴が最期だ。その後の消息は公表されておらず、王宮内の離宮で世継ぎ教育を受けているとも、成人までとある天院で鎮魂の祈りを捧げる生活を選ばれたとも、海賊姫の船に乗って異花陸に遊学しているとも、言われている。行方の定かではないその人が、突然、ガレシ領に現れたその不可思議に、ただただ戸惑う。
軽やかな衣擦れの音と迷いのない靴音。エスコートの騎士の重い長靴の音と、顔を上げたい誘惑を許さない圧に気圧されつつ、目の前を過ぎていく気配を追う。
老伯が譲った上座にてその貴人は言葉を発した。
「『遠海』国王ライヴァートの東宮、カノンシェルより、いまこの場に集う人々に祝福を。」
十代半ばを過ぎた皇太子らしい、少女の声だ。人々はより深く頭を垂れて、祝福を受ける。
「此度、ライヴァート陛下の名代としてまかり越した。ガレシ伯スチュアード、これに。」
「…この老体に、なんの御用でございましょうや。」
「人払いを命じる。」
宴もたけなわという大広間である。この場でそれを為すということは----水を打ったように静まり返って、次いで驚愕のどよめきと共に、思わず顔を上げようとする。それはごく自然な身体反応であったが、ガンと鞘を床に打ち付ける音が、まったく巧みに先を制した。
「顔を上げること、断じてまかりならぬ!」
その声はカルローグのものだ。
「我が家の、大事な祝いの夜会でございますが…いま、どうしても、全員を退出させよ? 」
孫----曾孫のような少女である。老伯はいなそうとする雰囲気を醸したが、
「では、王太子に退出れと申すのか?」
おかしそうに王女は言った。退く気はない。十代半ばとは思えぬ、腹の据わり方だ。
「なんの祝いか知らぬが、中止めよ、申しておるのではない。人払いをせよ、と申しておるのだ。のち、再び開こうというのならいうのなら、それは構わぬことよ。」
堂々たる物言いは、さすがクロムダート王の孫娘ということか。血は争えぬと。
「疾くせよ。」
引き波のように、参加者たちは大広間から退出していった。召使たちが小ホールとの間の仕切りを立てていく。その影も見えなくなって、ある程度の(行幸が想定される)家格以上の家には設えられている玉座で、つんと澄ましていた王女が、傍らの騎士を見上げてから、ふぅと息をついた。
「…もう大丈夫?」
先までの、権高い女性はどこかに去って、ふんわりした響きの声である。
「ああ、ご苦労様。」
「いかがでしたか? 高貴な、人が従わずにいられないような女性に成ってましたか?」
「ああ、よくできていた。----が、打ち合わせと人品の方向がずれた、かな?」
困ったように首を傾げた。
「カルローグも肝を冷やしたろう。よく合わせた。あとで労ってやるといい。」
「はい! レオン様を思い浮かべて演りました!」
「うん、何か合点はいったけれど。君の評判的には、どうかな? 王太子の伝説の人払い、とでも語り継がれそうだ。」
どうにかしなければね、と思案顔だが、姫君は涼しい表情だ。
「平気です。この辺では春の嵐でも、王都に吹くのはそよ風程度、むしろ心地よきものと。」
一地方領主館の、私的な夜会だ。地方小領主とその係累ばかりの参加者で、中央に直接繋がりを持つ者はいないに等しい。王都に届くのは、風のうわさだ。
「消息を匂わせておくにいいかと思ったのだが…頼もしくなってきたものだ、」
と、騎士は舞台裏を織り交ぜて感心しきりだが、やり取りを見ていた老伯と、老伯が残した(それを許された)腹心は、訝しさを増していた。
「----カノンシェル王女殿下?」
なりすましか、と疑いの色を見取ったのだろう。
「ええ。サクレ大公クロムダートの一子、リーシェリーヌの娘カノンシェルですわ。確かに。」
改めて正式な名乗りをして少女は穏やかに微笑んだ。
「印章を見せましょうか?」
「い、いえ。俄かにご様子が変わられたので、驚いてしまいまして。失礼申し上げました。」
腹心は慌てて取り繕う。
「すまない。」
口を開いたのは騎士だ。
「こちらの事情とはいえ、小細工をしすぎたことを詫びる。」
騎士? 違う。誰かに傅く、そんな雰囲気は霧散している。コツコツ、と玉座から降りてくる青年が放つ存在感に圧倒されて、知らず後ずさっていた。
「わたしはあなたに会いにオレノに来た、ガレシ伯スチュアード、」




