69 綿津見島 26
黒い仮面のこめかみから、細かい罅が走った。
同時に、朱と玄、両腕の鱗がパラパラと剥がれ、光の粒になって男の身体のまわりで渦を作る。二色の流れは明度を上げながら、流れる速度を上げていく。布が織られるように、光は複雑な文様を織り上げて、大きな被り布のように為って、その身体を包み込んだ。
あ、と息を飲んだ一同が瞬きをするまもなく、見えざる手がその布を引いた。
溢れた、網膜を焼く様な眩しさに、咄嗟に手で庇を作って眼を保護する。
光は静かに減じて、朱の房が絶妙な位置に散った華やかな髪色の青年が立っていた。右の掌から朱い刀身の剣が滑り出る。掌に柄が収まった瞬間、(鞘はないが)まさに振り抜きざまの一閃だった。蓋も、糸も、棺そのものさえ、まるで霞のように消えた。支えを失った少女が床に向かって落ちるのを、青年は流れるように手に手を重ねて引き起こした。
「エアルヴィーン…エヴィ?」
泉の前で別れたのはつい数日前だというのに、何年も会えなかったような慕わしさがこみ上げた。恐慌に陥らぬよう抑えて、乾いた心が一気に潤って、視界が滲んでいく。
身を屈めて顔を覗き込む。頬に添えてくれた掌が優しい。
「ようやく、呼んでくれたな。」
「----どういう、ことよ!?」
唖然を振り捨てたレオニーナが詰問調で声を上げた。
「あなた、なんで仮面被って、鱗付けて、遊伶の民をやっていたのよ!? わたくしたちをあちこち振り回して、どういうつもりなの!?」
また頓狂な人物が出てきたぞ、と痛みを堪えながら観察していたコドウは、怒り心頭とばかりのレオニーナの声音の底に、安堵の響きも感じ取っている。
絶体絶命を覆せると彼女が判断している人物は、まずは律儀に再会の言葉を述べた。
「《祝福の歌》号の出帆を、ライヴァートとマシェリカとともに見送った日が懐かしい。息災な様子でなによりだ、レオニーナ。」
「再会があるとしたら、わたくしがシャイデに行くよりない思っていたのに、…相変わらず吃驚ばかりね!」
「経緯は長くなるから後ほど説明する。彼は俺であって俺じゃなかった…で、ひとまず納得してくれ。」
たまらず、しがみ付いてきたカノンシェルを仕方ない、と受け入れてあやすように背を叩きながら、青年は応じた。
「可及的に速やかに北の花陸に入るための取引で…約束事だそうだ。」
伝聞の言い方に、察するものがあって女性ふたりの頬は引きつる。
「き、貴様、なんという、なんということを!!」
暫し茫然としていた団長が、我に返って憤怒の声を上げた。
「この不埒ものめが!! 我が尊き研究を踏み躙るとは、万死に値するぞ!」
すわ戦闘かとレオニーナは身構えたが、これに関しては露払いみたいなものだ、と冷めた呟きをして、
「あんたの苦情受付は、あちらがするらしいぞ?」
煙に向く様なその言葉に重ねて、カツン、とひどく重い靴音が鳴った。
物理的に重いのではない。高い存在値というのか、緊張、あるいは圧力を空気に孕ませるだれかがやってくる。
スロープを上がって、姿を現したのは朱金の髪の男。
全員の顔見知りであった。だが、コドウの知る人当たりがよく、するりと懐に入り込む愛嬌ある男ではなく。レオニーナと航海する、きびきびと動き向上心ある船乗りでもなく。試すような目をするが、ふと優しい表情でいる父でもなく。自信たっぷりの、人を惹きつける磁場のような男でもなく。
その総てである…知らない男だった。
見たこともない不思議な服装をして、丁寧に髪を撫でつけたその男は、ひたり、と団長を見据えた。
「☆※★彡♯♭!?」
団長が悲鳴のように何かを叫んだ。発声体系が違うのか、聞き取れない言語だった。
「なんだって?」
凄味のある低音が発された。声に圧力を感じたのか、団長がじりと数歩後ずさる。権高い振舞いがなりを潜め、青ざめた顔に冷や汗が滝のようだ。
カノンシェル、レオニーナとコドウの三人は、何事だと目を離せないが、青年は興味がないらしい。引き継ぎとばかりに、(カノンシェルの手を引いて)コドウの側に移り、手当を始める。
「いえ、申し訳ございません。まさか…まさか貴方が足を運ばれるとは思いもよらず、動転いたしました。」
シンラがどういう階級制度なのか不明だが、とにかく男が上だということははっきり分かった。
「あの、こちらは貴方のお知り合い、なのですか?」
「いまの雇い主とその雇先の取引先と、----身内だ。」
ひんやりと男は言う。
「さて、場所を移そうじゃないか。観客の前では、言い訳もしにくかろう?」
「いえ、あの、しかし、ワタシは大事な実験の調整を、」
「なるほど、実験。」
柔らかだが、明らかに怒っている。
「北の花陸南部においてお前には優先権が与えられている。そういう契約だ。」
「そ、そうですとも! ですから…!」
「ただし、わたしの領域は決して犯さない----そうだな?」
「貴方の領域など、」
は、とコドウの手当てを手伝っている、朱金の髪の少女を見遣った。
「アレは、あなたの創造物でしたか!」
道理で見事な創り、と物を誉めるように言い立てた。
「娘だ。」
「…え?」
にこりと笑って、男は団長の襟元を掴むと、宙に放り投げた。団長は何かに縋るように手を伸ばし、その姿勢のまま、ふ、と空に消えた。
まことに、あっけなく。
「あとは任せる。」
一手ですべてをひっくり返した。
「丸投げというんですよ、それは。」
物理的にも投げた訳だが。
呆れたような吐息を落とした。
「俺の目的は達したわけで、あとはあんたが始末すべき領分では?」
挑戦的に言ったのだが、
「よく言うだろう? 遊山旅は帰るまでが遊山旅だと。」
「は…っ!?」
「また、壊して進めるのは、ひとであるのが決まりだ。」
男は、あっさりと運命を定めた。
「入れ物だけ残っても仕方ない。」
青年は深く深く息を吐ききった。
「承りましょう。」
「それでは明日の昼、下三区の《自鳴琴》という店で待ち合わせよう。」
男はやけに現実的な言葉を残して、非現実的に、忽然と失せた。
頭の中で「変身!!」といつしか唱えながら描写してました(笑)。
次章で「綿津見島」での物語は幕を閉じます。「綿津見編」はもう少し続きますので、どうかお付き合いください。




