1 夕影の都
≪夏至の伝承歌≫
「満天の五十年」はご存知だろう。
《海皇》セディルリーヴの『双異翼の柱』の開放から数えられ、伝説ではない世界地図を初めて作成ったパールラティの没年をして区切られる一時代である。
全花陸、というものが認識されはじめた時代だ。
世界は、散らばった花びらに似た五つの花陸から構成る。内海を囲んで近接するノーデ・サーディ・エルデの三花陸こそ古くから歴史を交えてきたものの、『双異翼の柱』で隔てられ永く幻の大陸であったシャイデが(逆もまた然り)現実の一部となったのも、「一つは荒れ狂う風に千切られ、一つは渦巻く昏き波間へと、三つはなすすべもなく寄り添った。」と謳う創世神話で、花陸が水没したと疑いもなかったシンラが発見されたのも、この期間のことだ。
海洋の世紀、大航海時代の黎明。
造船技術、航海術は著しい飛躍を遂げた。人も物も、五花陸を巡って、それ以前とは比較にならぬ程、動き始めた。
激動する時代ほど、綺羅星たる存在を生み出すものだが、「満天」と称されるほどにこの時代、幾多の鮮やかで二つとない色合いの星が世空を飾った。そして最も大きく世界が広がったシャイデ花陸の空はひときわ華やかである。
【白氷妃の擾乱】からシャイデを解放した『遠海』の輝ける剣ライヴァート、天智なる盾(または神眼の)エアルヴィーン、『白舞』の白き御手マシェリカ、暁の獅子レオン。そして、果て無きパールラティ、幾千のシェリダン。
その、いずれ劣らぬ、華々しい星々の傍らで、そっと瞬く煌めきがある。
かの人は二つ名を冠されはしなかった。だが、その星を記さずに、どの綺羅星のサーガを語ることができようか。
1
やわらかな橙色の光が、少しずつ影を長く伸ばしていく。風もなく、雲も僅かに散るだけの穏やかな夕暮れだ。
割れて、ところどころしか残っていない石畳に足を取られぬようにか、うつむき加減に人々は行きかう。
その中で、一つの歩みが止まって流れを遮った。ふいの動きに後ろを歩いていた職人風の男は蹈鞴を踏み、舌打ちを響かせた。
「気をつけ――ッ」
と睨み上げたが、言葉の最後はひきつれて飲み込まれた。
裾の擦り切れた重いマントの下で、がちゃりと重い鋼の音がした、使いこんだ長靴に鋼を仕込んだ革の手甲を身につけた兵士は、肩越しに振り返った。
「悪かった。」
穏やかな声だ。
「――あ、ああ、・・・、」
【凪原なぎはら】に占領された一年余りの、兵士や傭兵の理不尽で過剰な暴力は身に染みて、なかなか消えていかない。一瞬の後は分からない血と悲鳴の記憶だ。怯えを纏って男は後ずさる。十歩ほど遠ざかって、じんわりと額に浮いた汗を手の甲で拭い、ほっと息をついた。
困ったように首を傾け、自らを大きく迂回するように流れて始めた人波に会釈を送りながら道の端へと身を移していくのを、怖いものをみる横目で確認する。
まだ若い。崩れた石垣に手を置いて、ふっと頬を緩めた横顔は二十半ばくらいか。刹那、遠い記憶が目の底で揺れた。自分たちの遊びの輪に入りたそうに門の陰に立っていた子ども・・・。
「――あんた、坊ちゃん!?」
思わず上げた声に、目を瞠って振り向いた表情には幼い頃の面影が浮かび上がった。誘いの声をかけた時、真ん丸にした瞳。名前は出てこないが、間違いない。驚きが恐怖を吹き散らす。
「そこの家にお袋さんと住んでいたろ?」
慌てて駆け寄って、もう一度間近で見上げた。日に焼けた肌と、少年期よりシャープな頬や顎のライン。ひょろりと薄かった少年は、背筋の伸びた、機能的な体つきになって、能く体を使っていることが窺われた。
ぱちぱちと瞬きながら記憶を手繰って、
「――建具師の・・・?」
「そうっ、親父がっ、そうっ!! ・・あ、いまはおれもそうだけどっ」
「大隊長。」
にこ、と笑みが開いた。これも懐かしい呼びかけだ。子どもの頃といえば騎士団「ごっこ」とか都護府とごふ「ごっこ」は人気だった。男はこの界隈では餓鬼大将格だったから、そんな「役職」を務めていた。対して、当時、五つか六つ年下だった彼は、いわゆる「ままっ子」扱いで、また家庭のことも絡んでの「坊ちゃん」だ。
男の家は路地裏の集合住宅だが、彼の家は表通りの『邸宅』だった(いまは見る影もなく荒れ果ててしまったが、当時の表通りには煉瓦色で統一された瀟洒な町並みが続いていた)。
「懐かしいなあ! 元気そうで、まあ無事で、」
「ままっ子」のうちに男は徒弟に入る年齢になったから、一緒に遊んだ時間は長くない。また階級クラスが違った。ほんのまれに遠くから見かけるくらいで、彼の母親が亡くなったと風の噂に聞いた時には、家は無人になり、消息は途絶えた。
「大隊長も息災そうだ。」
「まあ、生きていられただけでも有り難いというか、」
差し出された手をぶんぶんと握り合う。
「このへんも見る影ないだろ。随分やられちまったよ。建物も・・・人も。でも王様も即位して、都内の修復で仕事もあるし、治安も落ち着いてきたから、まず何とかやってるよ。おまえこそよく無事で。」
噂どおりなら彼は『狩り』の標的だったろうし、このいでたちならば軍属であったに違いない。
「運に随分と助けられてね、」
片方の肩をすくめて、軽く笑った。何気ない仕草だが、妙な迫力を感じて男は相手をもう一度見直した。暗色の実用一辺倒の形で使い込まれたものだが、上質の品でよく手入れされている。
「・・・おまえ、偉くなってそうだなあ、」
「いいもんじゃないぞ。殺人者だと言って回っているようなものだ。」
苦笑を孕んで、疲れたように響いた。どきりとする。もしかして、精神を病んでの帰都なのだろうか。
惨い、戦だったのだ。占領・封鎖された王都の日々も過酷だったが、当初わずか数人で抵抗(解放)戦を始めた天旋軍の行軍の可烈さは想像に余る。
終戦後の高揚の時期を過ぎて、「帰還兵」が引き起こすトラブルは珍しい話ではなくなっていた。
「いや! 今の王様や四方よも公爵が戦ってくれなかったら、おれたちは【凪原】の忌々しい界魔に食い尽くされちまってた。奴らを十人殺してくれたのなら、【遠海とおみ】の民は百人救われたんだ。」
敵国への憎悪と英雄たちへの賛辞の込められた極論だが、意図は伝わったようで大丈夫というように口元が緩む。
「戦ったことは誇りを持って受け止めている。ただ、・・・ま、愚痴だ。」
穏やかに言った彼は、ところで、というように首を傾けた。
「久方ぶりの王都なんだが、」
「夕飯か!? 二本向こうの裏通りなんだが、鶏と茄子の煮込みがちょい辛でうまいぞ。サクレ産に手が出せるような客層じゃないが、葡萄酒も手ごろなのがあるし、麦酒はいいのがある。」
「それは心惹かれる話だが、夕食は友人から招かれているんだ。でも、・・・そうだな、麦酒の一杯くらい飲んでいっても問題はないだろう。大隊長、せっかくの再会だ。ご家族の問題がなければ、お付き合い願えないか?」
早とちりに赤面したが、さらりとそう続けてきた彼に救われた心地になって、勢いよく頷いていた。
「今日は仕事が早く上がったんでね。・・もう、陽も落ちてしまうし、寄り道しても問題はないさ。案内するよ。」
人波に戻り、歩き出した。その通りの誰はどうしているとか、あの店はこうなったとか、男には世界の殆どを占める情報でも、十数年離れたきりの下町まちだ。彼にはどうでもいい内容だろうに、記憶力の良さを示す適切な相槌を打ってくれる。それに気をよくした男は五分ガクほどの道のりずっと喋り続けた。
「賑わってるな。」
カウンターから木杯ジョッキを受け取って、立ち飲み用の高いテーブルに陣取った。
「ささやかな命の洗濯ってヤツだ。」
入ってくる客が、とにかく多いが,店の奥にはテーブルには人影は見えない。この時間に来店するのは、仕事帰りの一杯を味わって帰宅する習慣の者たちなのだ。馴染みらしい挨拶がそこここで聞かれる。男も同様で、あちこちから声がかかるが、連れが見慣れない、そして帯剣した兵士だと気づいて、ぎょっとしたように目を瞠る。「幼なじみ、幼なじみ」と指差して笑えば、いきなり気を弛めて,ずけずけと顔を覗き込んでくる。下町らしい垣根の低さだが、偉くなったらしい彼が、不機嫌になるのではないかと初めはひやっとしたが、平然と、むしろ会話が続くように振り返している姿に、じき忘れてしまった。
「・・・来る前に妙な噂も耳にしていたが、穏やかなもんだ。」
すっかり囲まれた喧騒の合間に、ぼそりと漏れた呟きを拾った。
「噂?」
「ああ、まあ、この雰囲気では根も葉もないことなんだろうなと。」
途端に、ふっと静まった周囲を驚いたように見渡した。
「それって、あれ、だろ?」
「あれ?」
「ああ、・・・なあ?」
「まあ・・・だよなあ。」
何か悪いものが引き寄せられるとばかりに言いよどむ様に、彼は困ったように首を傾けた。
「実は深刻なのか?」
「いや、何てーか薄気味悪くてさあ。」
「家まで間に合わなかったら、とにかく屋根のあるところに入りたいよなあ。」
「だな。」
「――影が齧られる、と聞いたが、」
人差し指を歯に見立てて、ガリガリというジェスチャーに、男たちは顔を見合わせる。
「そう、聞いてる。」
「夕日の中に影が伸びるだろ。で、闇が深くなって形が崩れていって、消えるな、ってあたりで、おやっと思って目を凝らすと、不自然にへこんでいて、」
「うん、慌てて灯りの中に飛び込むと戻っていくらしいんだが、」
「後から、そこが怪我を負ったり、病気になったりするらしいつー。」
「最初は転んだとか、頭痛が続くとかたわいのないハナシだったんだが、」
「折ったとか、枕も上がらない熱が続くとか、どんどん重い話が伝わってきてさ。」
「今日はあっちの辻だったとか、昨日は三本先の通り沿いとか、場所もばらばら、そもそも、ほんとなのかどうかも分からないけどさ」
「ウワサが一人歩きしているのかもしれないとも思うけれど、」
薄気味悪ぃ、とおのおの唇を歪めた。
行き交う人が足早なのも、俯いて歩を進めるのも、黄昏時に店が混むのも、この「風聞」によるものだ。
「都護府は動いているのか?」
「はじめは流言飛語に惑わされるなってカンジだったけど、ウワサ長引いてるし、それで怪我したとか具合悪くしてるとか少なからず訴えがあるんじゃねぇ? 最近はこの時間に見回りしてる都廻りも見るから、ちょっとは気にしてんじゃねぇの?」
「占領前より良くなったものの一つは、都廻りの態度だよな。さすが、シュレザ-ン将軍の統制だぜ。」
時を見計らったようにというべきなのか、彼が都護府の現長官の話題に軽く目を細めた瞬間、入り口の扉を破る勢いで駆け込んできた者がいた。
ギシ、とひどく重いものが乗ったように床が――建物がきしんだ。
この話の流れだ。若い男の真っ青な顔色を通り越し、室内の灯火を受けて壁に長く伸びた影に視線が集まる。そして。
「齧られてるぞ・・・!!」
複数の口から、悲鳴のような声が迸った。
血臭もしなければ、当然傷も見えない。なのに、その影は―――。
左の肩先から下が、ない。まるで刃物でそぎ落としたような輪郭は、灯火を吸うようにして、ゆっくり質量を増し、右側と同じまろみを帯びていく・・・。
立ち竦む一同の中で、彼だけが呼吸一つの間に、開け放したままの戸から飛び出していった。その背中に我に返り、崩れるように床に座り込んだ「被害者」に駆け寄る者、意味のない大声で誰にともなく喚き立てる者、戸口から表の様子を窺おうという者・・・と、凍りついた店内は沸騰するような興奮の坩堝となる。
しかし、
「・・・なん、なんだ?」
戸口に鈴なりになった一同は、上がりかけた血液が逆に一気に下降する心地を味わった。縋るものを求めた手は、柱に壁に、あるいは互いの手へ伸びる。
寄せてくる藍色の波に洗われて、長く伸びた影がひそやかに輪郭を崩していく。そんな時間。
路地裏の小路には奇妙な立像が林立していた。
次の一歩を踏み出そうとした足を浮かせたまま、半身振り返ったところで、重い荷物を持ち直そうと腰をかがめて、物思いにふけっていたのか俯いて――その時、道を歩いていた人々はまるで時を止められたように動かない。
そして・・・果たして影が、少ない。欠けているというより、少ない。半分、あるいはほとんど――これでは齧られてというより、
「喰われて、る・・・、」
誰かが、喘ぐ様に言った。
険しい顔で彼は一瞬店を振り向いた。彼らの後ろ、店内から洩れてくる灯が彼の影を前方へ濃く伸ばしている。
「そこから出るな。」
よく通る、否を許さない声だ。
彼は夕闇の中にゆっくり踏み込んだ。影はぶれて、伸ばす方向を変える。
「お、いッ、」
彼の影に、何かがまとわりついた、のは目の錯覚ではない。左肩のあたり、輪郭が奇妙に歪む。驚愕と警告の入り混じった悲鳴に似た声の中、立ち止まった彼は己が影を凝視し、――抜剣した。逆手に持ち替え、石畳に・・・自分の影の中へ剣を突き刺す。
・・・劇的な変化は何も起こらなかった。両手を柄に副え、呼吸ひとつ、ふたつ、みっつ。ゆっくり、引き抜いた。同時に、糸の切れた操り人形のように、人々が崩れ落ちた。
「! なにをしている!」
またもや時を見計らったように都護府都廻り役が現れたのは、この瞬間である。
2
「だから、そいつは何もしてないんだってば。」
一時間後、都護府の詰所に舞台は移っていた。簡単にいえば、彼は都廻り役に連行され、男は(無理やり)同行して、ここにいる。
「それは、こっちが判断することだ。いい加減、帰れ。セトム。」
「いいや、帰らない。冤罪というヤツが、いままさに作られようとしているんだ。」
「いやいや、そいつが抜刀していたのは紛れもない事実だろうが。」
「それは、彼が『影齧り』を何とかしようとしていたからだと言ってるだろうが。」
「『影齧り』ねぇ。」
「たいへんだったんだぞ。こう、影がへんに切れて。像みたい固まってて。ああ、だから見てないヤツはっ。」
「奇怪な状態だったらしいことは推測できる。『影齧り』なんて眉唾の、集団ヒステリーみたいなもんかと思ってたが・・・、」
「ヒステリー!? ンなわけがあるかって! こいつがいなかったら、あの連中は影を喰っただけでは飽き足らずに地上に這い上がってきた化け物に骨まで食い尽くされていたかも知れないんだぞ!?」
「想像、たくましくしすぎだろ・・・」
「事実だ!」
「・・・いや、だから、どうしてそいつが阻んだと思えるんだ?」
「そうでしかないだろうが。彼が剣を地面に突き立てたら収まったんだ!」
「――そーか、」
「なんだ、その信じられませんてゆー調子は、」
埒があかないと深々と溜息をついて、役人は視線の先を切り替えた。当事者のはずだが、男――セトムの勢いにすっかり蚊帳の外というか、ふたりのやりとりに爆笑を耐える顔つきだ。
「とりあえず、《《あんたが》》帯剣許可書を出してくれれば収まる話なんだがね。」
にこやかといってよい表情と彼の身なりを見直して、役人はげんなりした気分になった。重厚な造りにはほど遠いとはいえ、都護府の一室で、任意とはいえ連行された身の上である。
「残念ながら、ない袖はふれないんだ。」
身体検査はしなかったが、彼はさっさと鋼を仕込んだ革の手甲と、懐や長靴に仕込んでいた単刀数本を卓上に並べ、脱いだマントを椅子の背にかけた。長剣はあの場から役人に預けたままだ。
上着の下からのぞく胴着は、布や毛糸を編んで刺繍などの飾りを施した最近の流行ではなく、薄革仕立てで本来の軽鎧の性格を持ったものだ。
「在は暁? それともラジェ?」
終戦から一年半。職務中の軍人ならともかく、軽備とはいえ軍装を整えて街歩きをしようというまっとうな王都民はいない。商隊警護の傭兵か暁所属の兵たち――王都へ旅してくる者ならば、ともかく。
三段論法である。
「許可書の件はご存知だったかな?」
「ああ。導入るという話は。」
導入るではなく。
「宿舎に伝言を持たせますか? 隊でまとめて下ろしていると考えますが。」
暁の兵団は旧玄公の焼け跡を整備して宿舎にしている。
「不携帯の罰はどれほどに定めていたかな?」
彼の口から出たのは、その答えではなかった。
「武器の没収と処払いが原則ですが、身元引受人がいる場合は罰金で済む場合もありますし、逆に人に危害、ものの損壊につながった場合は下は杖罰から適応になります。」
彼は帯剣許可書不携帯の上、抜剣をした事実はあるが、その現場で起こっていた大量失神と結びつく物証はない。許可書持参がてらの身元引受人が現れれば、即釈放で構わない。と続けてみれば、恩人になんだーと喚く外野が出たが、それに対応する余裕は次の彼の言葉で失われた。
「温情ある申し出だが、問題が幾つか。まず一点、玄に連絡しても私に許可書は出せないだろう。二点目、私はそれに記名する意志がない。」
卓上に置かれた調書をコツンと指で叩いて、彼はなんでもないことのように言った。
「・・・それでは執行妨害で入牢してもらわねばなりませんよ。」
身元を明かしたくないということだろうが、そういう人間は屈辱にも耐えられないものだ。どんなご大層な身分か知らないが、我が侭ばかりは通らないと軽く脅かした・・・つもりだった。
「二日くらいかな? 武器も没収でいいし、罰金も手持ちで払えるだろう。処払いも受け入れる。まさか永久にはならない・・・と思うが?」
「まあ、許可書と身元証明が整えば・・・半年くらいかと。」
どういう展開だ、と目を白黒させるのを尻目に、すべて解決とばかりに笑った。
「ではよろしく。」
「あれはなんだ、」
(無理やり)牢に案内させていった背を見送って、役人は男を振り向いた。
「だから、坊ちゃんだよ。表通りの、ほら門扉に蔦薔薇が絡んでいた屋敷の、」
「綺族の妾と子どもが住んでたっていう話は聞いたことがある。」
だから一緒に遊んだろ、と言いかけ、この幼なじみが自分より1年ほど年上だったことに思い至る。
「入れ違いかあ!」
「で? 名前は?」
「・・・坊ちゃん?」
冷たい瞳に、
「子どもの記憶に頼るなよ! 都護府で調べりゃいいじゃないか。過去の台帳とか。」
「んなもの、【凪原】ら持ち出されて、都護府が焼かれた時に灰になってるさ。」
そもそも綺族の妾宅が登録されていたとも考えにくいが。
「どうすんだ? 本当に二日も入牢とくのかよ?」
遵法もいいが、(許可書の件はうっかりだと思うが)彼が剣を抜いてくれたからこそ、あの恐怖から救われたと信じているセトムは不満げに唇を尖らせている。身分は職人と下級士族だが、幼なじみゆえの遠慮のなさである。
「不審人物だ。」
自棄気味に言い返し、本当に堅物、とぶつぶつ言うのは無視し役人は「坊ちゃん」を案内していったのとは違う場廻り(都廻り役に付いて様々働く者たちのこと)を呼びつける。卓上に残された長剣を持ち上げて、きつく眉を寄せた。
自分が帯びているものも(収入の範囲で)吟味し気に入って購ったものだが、これは格が全く違う。実用本位で飾気もないが、ただ手にしただけで何かが伝わってくるような・・・名匠の業物とはきっとこういう品をいうのだろう。
場廻りのような軽輩では門前払いの可能性もあることは承知の上だ。朱玄公爵直属の隊である。しかし、人手不足の昨今、今夜の夜番の都廻り役は自分ともう一人だけで、行きだけでたっぷり一時間はかかる王都の逆側にある旧・玄邸へ赴く判断は下せなかった。そもそも、そこまでする事件でもない。それでも遣いを出すのは、保身の意識が掠めたからだ。
大切な坊ちゃんを行方知れずに《《してくれて》》――と、自らの所行を棚に上げる権力者の気質を憂う。
照会に応じないなら、責任は向こうだ。
これは役人気質だな、とうんざりしながら、暁の宿舎への使いを命じるのだ。
持込を許可されたマントにくるまって、彼は寝台に横になっていた。
重大事件であれば、地区統府へと移送されるから、喧嘩や酔客、かっぱらいなどの軽微な者たちを収容する詰所の牢の数は少なく、雑居房として使われるのが普通だが、彼は一人だった。配慮かと思ったが、隣とその奥にも人の気配はないから、単に今日は空いている日なのだろう。
明らかに眠っている規則的な呼吸は、男が格子に近づくとぴたりと止まった。むくりと起き上がり、こちらに目を据えた。
「帰らなかったのか? もう結構な時間だと思うが。」
心配そうに言うのに、袋を掲げてみせ、格子の前に座り込む。
「【赤い木の実】亭に戻って様子見てきた、で、差し入れ。」
肉や卵、野菜を挟んだパン、数種類のチーズ、水筒には蜜柑の果汁。彼は嬉しそうに目を瞠った。
「助かる。少し摘んだぐらいだったから、かなり空腹で、しょうがないから寝てようかという具合だった。」
その言葉は本当だったようで、相伴するつもりでかなりの量を持ち込んだのだが、二十分もせずにあらかたをふたりは食べきっていた。
「うん、幸せだな。」
格子の中で、笑顔でそんなことをいうのだ。
「だって、あんた、綺族さまで、暁の幹部なんだろ? こんな下町の安食堂のメシで、そんな褒められても、」
「いや、実際おいしいし。旨いと感じるのは重要だぞ。たまに夜会とか行かされるが、冷め切って乾燥してるし、食べる余裕なんぞほぼ与えられないし、豪華な飾り物だな、あれは。材料の質は比べられないが、食べてもらうという気持ちがたくさん入っている料理は旨いよ。」
「店主に、伝えておく。」
「大隊長にも、気をつかってもらって感謝する。おいしかった。」
深く頭を下げられて、口から出たのは次の台詞だ。
「――-あんた、本当に綺族か?」
綺族にあんた呼ばわりもどうかなのだが、つい口走った。
「うーん、そんな暮らしはしてこなかったし、[暁]では傭兵時代となにが変わるのかという・・それが問題だとも言われるが。まあ王都に来た時は適当に合わせるのも義務かと思ってやってみてはいるんだが、」
「傭兵・・・してたのか?」
てっきり父方に引き取られて、士官から騎士の流れかと思っていた。
「ああ、母が亡くなってすぐからラジェで護衛の仕事をしていた。」
傭兵。ラジェ。なるほど、男は頷いた。その経歴ゆえの[暁]所属なのだ。
「なあ、聞いていい?」
あくびをかみ殺した彼は、好奇心いっぱいという目をした幼なじみに苦笑いする。
「朱玄公爵はどんな人か、か?」
[暁]所属の避けて通れない道なのだろう。やれやれ、という感じで質問を先取りした。
「どうして、みんなそんなに聞きたいのかねぇ。」
「そりあ、救国の、いや救世の英雄の一人で、時の人で、ミステリアスでドラマティックで、」
「吟遊歌の聴きすぎ、辻芝居の見すぎだ。」
針小棒大に近い新作が溢れるように披露され、人気の歌人や一座は満員御礼が当たり前の昨今だ。[本人]と近いとなれば、隠された真実はないものか、と目を輝かせる。しかし、「真実」が求められているのかというとそうでもなく、「欲しい」のは、滅国を何とか免れた国民の気持ちを浮揚させる役割を果たす、誇らしい「英雄」の「像」だ。だから、いまのところ誇張に目をつぶって、というか、むしろ政府関係者がうっかりと「ネタ」を卸すことも多い。
「吟遊詩人のような語り口はできんぞ。見たままつーか、」
「いや,それが聞きたいんだって。伝説を直接知っているヤツの話なんて,すごすぎるだろ?!」
「伝説・・」
口の中で何やらぼやきつつも,
「――寝ちまったら、ごめんな。」
期待の籠った目に諦めたように息を吐き、ころ、と寝台に横になった彼は、寝物語に話してくれるらしい。差し入れの礼のつもりかも知れない。男ももう今夜はここにお世話になってしまおう、と思っていたから、近くの備品棚を漁って毛布を拝借してきて、格子の前で丸まった。
「で、公爵の何を聞きたいんだ?」
「うーん、そうだなあ・・・あ、ほら四方・・・朱玄公爵の正体とか、まわりは本当に全然気づかなかったのかなあって。傭兵で身分がないからって、危険なこととか、面倒なこととか引き受けさせられたり、酷いこと言われたり、蔑ろにされたりして、おれだったら、いらっとして言っちゃうね。『わたしをだれだと思っている。』ってさ。『宝剣事件』のころには、国王様とかは分かってた? 疑ってたみたいな? カンジだったらしいとかいうけど。」
「正体、ねえ。」
笑い混じりなのは、芝居における大仰な演出を思い浮かべているのだろうか。
「――そうだな、せっかく都護府だし、シュレザ-ン将軍たちが出ていらっしゃる話にしようか。」
記憶を整理しているのか、暫くの間を空けて、彼は話を始めた。
「シュレザ-ン将軍が参陣されたのは、天旋軍の呼称が定着し噂を聞きつけた義勇兵が集い出し、千の単位で兵を数え始めた頃・・・アステの野に陣を敷き、サクレの奪還の前哨戦と位置づけた会戦の準備を進めている最中だった・・・。」