これまでの歴史(改定版)
今までフィーリングで書いてきたので、私にとって、まして皆さんにとっても凄く分かりにくい状態を招いていたので、脳内の歴史を書き出しました。
この世界はパリコミューンによってフランスに与えられた共産主義がより色濃く残った事を除いては1900年まではほとんど史実通りの歴史を歩んだ。欧州での産業革命、両アメリカ、アフリカ大陸アジアの欧米による植民地化。そして極東における挑戦者の登場。その全てが見知ったものである。ところが、青年トルコ人革命が発生しなかった。日露戦争の結果は、確かに有色人種による欧州への反抗の一歩ではあったが、しかし日本の体制ではなく人種の差異にばかり注目した。結果的にオスマン帝国の専制は減衰することを知らず、むしろアラブ人への弾圧を強めた。この例からもわかる通り、欧米においては史実をはるかにしのいで黄禍論が汎アジア的に拡大した。欧米は異民族を排斥することを理念に国家が動いた。
この点オーストリアハンガリー二重帝国では、その政治の中枢がドイツ人とアジア系であるマジャール人の二大体制であったために、国内のスラブ系住民による民族運動が過激化した。その上西欧の白人からの
「スラブ系人はアジア人である」という見方も過熱し、もはや一国家の手に負えるものではなかった。
よって1910年3月に、セルビアの支持を受けたクロアチアによる武装蜂起が発生。またこれを受けて旧ポーランド、スロバキアとチェコの一部地域、またトランシルバニアの一部においても独立を求める平和的、または実力行使を伴う政府批判が勃発、4月にはこれは完全に内戦となった。ドイツはこれを救うために軍隊を派兵したが、もはやただの紛争の域を超えた戦争にまで発展していたバルカン独立戦争は、5月にロシアの仲介を受けて、独墺がバルカンと和解する形で終結。トランシルバニアはルーマニアへの編入、スロバキアは独立し、旧ポーランド領はロシアへ編入、南スラブはそれぞれ完全に独立(のちにユーゴスラビアとして合併)と、内容は事実上の全面降伏であった。オーストリアはこの敗戦を受けてアウスグライヒを撤回。ハンガリーを同盟国という形で独立させた、最終的なオーストリア帝国の領土はオーストリア全域とチェコのみとなった。
ドイツ帝国は見てくれの強固な同盟国すら失い、完全な孤立を経験した。その現状を打破するために、協商各国と海外植民地の一切を放棄する代わりに、同じく協商関係を結ぶことを提案した。戦わずして敗戦を選んだドイツ帝国は、ヴィルヘルム二世にその一切の責任を押し付ける形でテオバルト・ホルヴェーク宰相によって革命になり、共和制へと移行した。
ドイツとの融和にかなった英仏露は、共通の敵がいなくなったことを受けて急速に対立を深めることになる。特に、英露、英仏は関係が非常に悪化する。
バルカン独立戦争は、1911年2月に飛び火する形でバルカン戦争を起こした。後顧の憂いが消え去ったロシア帝国はこれを主導した。イギリスが介入の姿勢を示したが、戦争には発展せず。わずか4か月でこのバルカン戦争は終結した。ボスポラス海峡を隔てて、つまりヨーロッパに位置するすべての領土がバルカン諸国に分配された。(第二次バルカン戦争が発生するのは言わずもがな。)
1912年にロシアは、直接的に航海へ出られる不凍港を求めて、ペルシャを保護国ではなく直轄領化を試みた。しかし当然、インド・パキスタン全域を支配するイギリスが反発した、これを機にロシアとイギリスは、しばらくペルシャを巡って競争を行うことになった。
ペルシャを巡った勢力争いは、意外な形で集結することとなる。それこそ第三次バルカン戦争とロシアにおける革命である。第三次バルカン戦争は、バルカン半島全域が強いロシアによる影響を受けている事に反発して起きた戦争であり、ブルガリアにトルコもバルカン連合側として参戦した。しかも血の日曜日事件から常にロシアは、その政情不安を抱え続けてきた。ストルイピンによる強い独裁的内政によって一時的な安定を見せていたが、独墺との競争に勝利したはずがイギリスとの競争に国を投じている状況に加え、日本への対抗意識から組織農業を意識していた国民に対して、むしろ農奴解放と言うのは民権意識などより「現代」的であったが当時にしては異端になってしまい、1911年9月に暗殺されたのちも禍根が残り続けてしまった。後任のココツェフによる金本位制はドイツからの輸入超過によって不景気をもたらし、1912年の10月25日(グレゴリオ歴11月7日)にペトログラードを中心にストライキ・デモが発生した。血の日曜日を避けるために、ネヴァ川やモイカ川を渡ってやってくる民衆を、軍は押さえ付けずにいた。しかしながら民衆は血の日曜日の仕返しとばかりにアレクサンドル宮殿に飛びつき、ニコライ2世は呆気なく崩御した。正確にはこの時、重傷を妻アレクサンドラと共に負い、そして、ラスプーチンが主治医に任命された事による敗血症がより直接的な原因である。いずれにせよこの件でロシアは急速に求心力を失い、またこの動きに合わせレーニンが帰還し、社会主義運動が全国的に広がった。
「無賠償、無併合、民族自決」を標語に、ロシア帝国の残党と赤軍がロシア各地で内戦を繰り広げることとなった。史実では第一次世界大戦による大規模ショックを背景にロシア臨時政府が誕生してからソヴィエト=ロシアに移行したが、この世界では圧倒的な外力が足らず、内戦はより大規模・長期的なものとなった。
これを見る大日本帝国や、欧米列国はこれを絶好の介入の機会と捉え、まずシベリアの全面獲得への野望をあらわにした。日本はまず、邦人保護を目的に北樺太を占領、また外満州へもアイヌ人やニブフ人、シベリア人など「アイヌ同胞の保護」を目的として占領した。アメリカはアラスカから極東シベリアを目指して軍を進軍させ、日本との協力や白軍との関係確立を元に支配を確立した。ドイツ・オーストリアとバルカン諸国はそれぞれ白軍と赤軍を支持し、ドイツ・オーストリア軍とバルカン連合軍でのロシアにおいて幾度となく戦闘が発生した。1912年の10月25日にサンクトベテルブルク、27日にレーニンの指示のもとロシア全土で民衆が蜂起したが、やはり依然として白軍は強大で、また民衆との関係が良好な地域も多々あった。これによって1915年になってもロシア内戦は止まるところを知らぬとばかりに各地で戦闘を繰り広げた。サンクトベテルブルクではニコライ2世を慕う軍人も多く、白軍の抵抗拠点は主にここに、赤軍の中心地はモスクワに置かれた。極東では、長引く占領状態にパルチザンが燃化し、尼港事件が発生、しかしながら武装民衆の人数も少なく、また白軍による協力から民間人への被害はほとんどなかった。ロシア革命は結局、1917年に白軍の勝利で決着し、レーニンとその他主要赤軍幹部ら27名は断頭台に送られ、レーニンは絞首刑。その他筆頭幹部4名も同じく絞首刑に処され、23名は銃殺刑となった。なお全てモスクワで民衆に公開されて行われ、さらに絞首刑によってできた死体5体はロシア中に晒された上、じっくりロースト、または燻製にされて、ニコライ2世らの飼っていた犬と猫に食わされた。この時の犬、ジョイの食いっぷりから、憎ましい相手を屈辱的に貶す事を極僅かな文脈ではJOYと言う様になった(単なる皮肉の延長の口実であるとすることもある)いずれにせよロシア内戦は赤軍の敗北が世界各国に知らしめられた、バルカンとの関係は主従ではなく同盟関係へと落ち着いた。対照的にドイツに対する対応は、ドイツが莫大な資金援助とその軍隊を用いた為、リトアニア全域に加えて、ロッツ県、マゾヴィーン県、ポトラヒエン県がドイツへ、またドイツによる圧力から西ガリツィア、南マゾフシェなど旧オーストリア領はオーストリアに返還された。
極東においては、まずカムチャツカやチュクチ自治管区などを日米が共同占領していた状態に対して、札幌合意によってロシアへと返還、アメリカへはチュクチ自治区の港湾の使用許可、また日本に対しては現地への投資権の付与が為された。沿海州と北樺太を領有宣言していた日本だが、これはウラジオストク会談によって、まず沿海州での利権移譲が認められた。北樺太はロシアへの返還が目されていたが、立地が極東であるためにロシア本国からの連絡が全く遅く、しかも日露戦争での敗戦からロシア人が樺太から別の地域に対しての移住が進んでおり、住民投票こそ実施しなかったが、日本への合併を望む声は無視できなかった。よって、ウラジオストク会談の半年後に北樺太は日本への最終的な合併が成立した。第三次バルカン戦争から始まったロシア内戦は、ドイツの再台頭とオーストリアの焼き直しを支援し、芽生えつつあった民族自決の概念を粉砕し、またロシアの弱体化を招いた。
民族自決の概念もウィルソンの大統領も起こらず、国際連盟は発足し得なかった上に、如何なる軍縮条約も発行されなかった。日英同盟は破棄されることなく存続し、世界は英仏冷戦の気を呈した。
1919年3月8日 ロシア内戦から2年後。澳伊間で南チロルを巡った国境紛争が生じた。墺伊間での紛争は、やはり未回収のイタリアを大義名分としたイタリアの先制攻撃に由来する。チロルにて駐屯していたイタリア王国軍による越境行為だ。イタリア王国の記録によれば、アルピーニをアルプスで訓練していた所、山脈の地形を上手く把握できておらず偶発的に一時軍事国境線を越えた事実はあるが、そこがそうであることは鉄条網すらないことからわかりづらく、しかもオーストリアは警告すらせずぶっ放してきたので、アルピーニは自衛を目的として反撃をしたとされている。が、オーストリアの記録によれば、アルピーニは少なくとも旅団規模で控えていた上に、そのすぐ後ろにはイタリアの偵察機が飛んでおり、しかも警備拠点に向けて山を滑り降りていたので布告のない開戦とみなして発砲を開始したとされている。実際警告がなかったのは確かなようだが、そもそもイタリアによる軍事侵攻とみなしており、またみなしうる状況であった。いずれにせよこの日から墺伊での国境紛争が起こったのである。初動でこそイタリアは3月15日までに南チロルの2割強の面積を支配したが、その翌日には航空優勢が逆転し、首都や主要基地から遠いイタリアの兵站は貧弱で、翌月4月18日には南チロルを完全に奪回され、チロル休戦協定を元に国境紛争は終了した。
1919年とは本来ならば2000万人は死んだ悲劇の第一次世界対戦が終了した年であるが、バルカンの独立、また中央同盟と協商陣営の対立の解消、オーストリア・ハンガリー帝国およびオスマン帝国の崩壊が訪れ、300万人程度の死者で世界の構造が一変し、イタリアは帝国の残りカスに負けた。
1921年8月12日 アメリカ合衆国
ウォール街で株価の歴史的大暴落が発生した。株価も人の命もブラックフライデーである。史実と違ってこの時代には既に国際化した経済動体を見せており、特に重工業は米独がその鎬を削りあっており、また露米で世界の食糧庫を担いつつあり、とにかく大規模戦争が無かったので経済的な隔たりがないまま進行した世界であった。であるからして当然アメリカ資本は世界に分散しており、また世界の資本がアメリカに投資されている状態でもあった。しかしこの日、株価大暴落こそあったが素早い公的資金の注入から銀行の連続倒産は避けられた…ものの、デフレがアメリカで急速に進行し、しかもアメリカに投資していた世界の大企業らも煽りを受けた。翌月からはアメリカの物価だけが異様に下がったことで、ただでさえズタボロなロシアの経済に農業面から打撃を与え、ロシアによるドイツからの輸入が滞り、世界における重工業の生産が2割低減した。この小規模ながらも決して見逃せない損失を、資本の撤退で賄おうとした世界各国の動きによってただでさえ増加したアメリカでの失業率は増加を見せ、そしてまた月を経て10月、おそらくこの月にはアメリカ全土での失業率は2割弱にまで達した。根本的な消費の回復を達成できずにただ資金を浪費したアメリカ政府は、もはや事態を収拾できず、債務を膨らませ、かといって対外債務を得ることも能わず、税もまともに集まらず、ゆっくりとその行政を崩壊させていった。
この時大日本帝国は大戦特需を経験していない都合上、海外との資本関係は少なかった。ブロック経済による衰退ではなく、供給体制の破壊により訪れたスタグフレーションの世界の中で、帝国は初動こそ苦しかったが、軽工業は一定の需要があったし、日本工業の黎明期と世界需要の復活がほとんど被ったので作れば作るほど売れる天国のような状況に置かれたので、それはもう何もかも作りまくったのである。結果来年の1922年には勿論帝国以外にも生産を増やした国はごまんとあったためにそれで所謂「恐慌特需」は終わりを迎えた。が、結局生産は増え続け、次第に供給が過多に傾きつつあった。これを受け農商務大臣の荒井健太郎は加藤友三郎に直接「帝国の今後を鑑みるに、民間の消費の拡大が急務である」と前置きをした上で「満州権益、殊更満州鉄道による重工業の需要を直接拡大することは、大いに帝国に貢献するであろう。」と伝えた。
要約すると、日露戦争での結果が全世界で重く受け止められ、「黄色人種の勃興」を印象付けた。これによってバルカンはその全土が民族自決によって独立、中央同盟国はあっさり崩壊したが、ドイツはほぼ健在に共和政へ、オーストリアはハンガリーと袂を分つが共同体は継続、またチェコは変わらず領土とする。またオスマンは露土戦争によってトルコへ変態した。この後はロシアが地中海からの脱出を求めてペルシャを目指し、イギリスと対立を深めた。この世界情勢を踏まえて第二次バルカン戦争ののち、民族自決を妨げるロシアの支配から逃れるために1912年第三次バルカン戦争が勃発。同時にロシアでは政情不安と不景気から革命が発生。1917年に白軍が勝利するまで国土を荒廃させ続けた。このロシア革命の失敗は、民族自決を否定し、またロシアのグレートゲームからの離脱を表現した。ロシアは赤軍を退けた独墺日米への「御礼」として、まずドイツやオーストリアには、ポーランド分割で各国の領土であった土地を割譲し、またリトアニアをドイツに譲渡した。極東においては、アメリカとは土地の利権の共通、日本とは沿海州の利権譲渡と、北樺太の割譲をした。これらの件によって、一次対戦を経験せずに、また歴史の道程は約3年早まった。
恐らくこれからも暫くは既存の話の更新を行うと思います。もし要望や評価などありましたらご気軽にどうぞ。
ちなみに赤軍幹部の末路が個人的に好きです