上司が私の百合イラストの大ファンだった
【登場人物】
蓮沼里乃:事務員。23歳。百合系のイラストをネット上に公開している。
新津千文:里乃の部署の係長。29歳。隠れ百合好き。
終業時間も迫ってきた頃、私はディスプレイとにらめっこをしていた顔を上げて斜向かいの新津係長に声を掛けた。
「新津係長、頼まれてた案内のプリント出来たのでデータ送りました。確認してもらっていいですか?」
「ありがとう蓮沼さん、今確認するわね」
微笑んで返答した新津係長がカチカチとマウスを操作する。それから一分も経たないうちに安堵の息を吐いた。
「見やすいし分かりやすいし完璧。本当に助かったわ」
「いえいえ、ちょうど他の業務も区切りついてましたし、このくらいは」
「えぇと後は……各部署分を印刷して、エレベーター前と廊下とトイレ前にも貼らなきゃいけないから……」
ぶつぶつと新津係長が頭の中で計算している。それを『大変だなー』と同情を込めて眺めていた。
私が頼まれたのは社内用の行事案内のプリント作成だった。本来ならもっと前に上の人から作成依頼が下りてくるはずだったのにすっかり忘れていたらしく、今日のお昼過ぎに『悪いんだけどなるべく今日中で』と新津係長に言ってきたのだ。
午後からの仕事も抱えていた新津係長の困り顔を見かねて私がお手伝いを申し出た。入社して半年の新人なのもあって通常業務にそこまできついのは回されていない。それにこういうプリントを作るのは苦じゃないというのもあったし。
業務の終了時間が過ぎて周りが少しずつ賑やかになってきた。さて私はどうしようかと考えて、ちょうど印刷を終えて戻ってきた新津係長の元へ近づく。
「もし貼りに行くならお手伝いしますよ?」
「え、本当?」
嬉しそうに表情を輝かせる新津係長に指示されて、手分けしてプリントを掲示しに行った。箇所はそれほど多くないので二人ならすぐに終わる。
「――よし」
最後の一枚を貼り終えて、改めて自分の作ったプリントを見た。
内容としては家族も参加出来る季節の行事案内についてだ。季節感を出す為に見出しに緑を配置したり、去年の写真と合わせてデフォルメした子供や動物のイラストとセリフの吹き出しなんかも使ってみた。我ながら見やすくて良い感じだと思う。
このイラストは私の手描きだ。フリーのを使っても良かったけどそれだと面白くないのと、早く終わり過ぎて逆に手持ち無沙汰になると思ったので自前のタブレットでささっと描いた。さすがにデスクで描いていると目立つのでお手洗いに行ったときに描いたけど。
私は高校の頃から趣味でイラストを描いてネットにアップをしている。一時期はイラストレーターやデザイナーを目指そうかと思ったこともあるくらいだ。結局自分には合わないと思ってやめにしたけど。そういった知識プラス同人誌を作るのを手伝ったりしたこともあるのでこういう案内のプリントの一枚や二枚は作るのは訳無いというわけだ。
当然そのことは会社の同僚たちには内緒にしている。色々つっこまれて聞かれると困ることが多いので。
「蓮沼さんも終わった? もしこの後用事がないなら帰りにどこかで食べていかない? 手伝ってくれたお礼に奢るわよ?」
「ほんとですか? 是非ご一緒させていただきますー」
ラッキー。下心があったわけじゃないけどご飯を奢ってくれるのはありがたい話だ。節約出来るお金は節約するに限る。
新津係長と一緒に会社を出てから駅近くのチェーンの居酒屋に入った。簾で仕切られた二名席のテーブルに着いて備え付けのタブレットから注文を済ませ、届いたドリンクで乾杯をしてから運ばれてくる料理に舌鼓を打った。
「今日は本当に助かったわ。蓮沼さんってああいうの得意なのね」
「そんな得意ってことはないですけど、まぁそれなりには」
「あのイラスト可愛かったけどどこから持ってきたの?」
「あー、えーと……」
あんまり自分のことは話したくない。だけどここで嘘をついて『私もそこ使ってみるわね』なんてなったら一発でバレてしまう。
仕方ない。問題のない範囲で少しだけ話そう。
「自分で、描いたんです」
「え、蓮沼さんがってこと?」
「はい」
「でもそんな様子なかったじゃない」
「さすがに堂々と描いてたらまずいかなと思って、トイレ行ったときに……業務中なのにすみません」
「いやまぁ、プリントお願いしたのは私だし、そんな謝らなくていいわよ。結果としてそのお陰で良いものが出来たんだから」
ありがとうございます、と軽く頭を動かして返事をした。よしよし、我ながら当たり障りのない会話でおさめられたんじゃないだろうか。
しかし新津係長の興味はまだ私の絵から離れなかった。サワーのジョッキをくいっと飲んでからしみじみと呟く。
「蓮沼さん、絵うまいのねぇ。羨ましい」
こう言われたら言葉を返さないわけにはいかない。
「新津係長は描いたりしないんですか?」
「私なんて全然。絵が描けたらいいなって思うけど、今更始めてもうまくなる気がしないし」
「そんなことないですよ。いつ始めたって遅いってことはないです」
「よくそう言われてるけど、無理なものは無理なの。学生時代友達から画伯ってからかわれてたのよ? 犬を描いたら『宇宙人?』なんて言われたこともあったわね」
「それはなんとも……」
逆にその犬の絵を見たい気もするけど。
こういうのに関しては外部からとやかく言うものではない。うまくなりたい、描くのが楽しい。そういう気持ちがなければ向上なんてしないだろう。
「あ、そういえば蓮沼さんはトイレでどうやって描いたの? 何かそういう描くのがあったりする?」
「あぁはい、一応こういうタブレットを持ち歩いてまして」
カバンから薄型タブレットを取り出してみせる。すると新津係長の目の色が変わった。
「えぇっ、すごい! これあれでしょ? 液タブってやつでしょ? これに直接描けるんでしょ?」
「ま、まぁそんな感じのです」
少女のように目をキラキラと輝かせる新津係長に驚きつつも悪い気はしなかった。
「よかったら新津係長も何か描いてみます?」
「む、無理無理! 本当に無理!」
「別に丸でも三角でもいいんですよ」
「う……じ、じゃあ」
タブレットのソフトを起動してからタッチペンと一緒に新津係長に渡す。
「そのままもう描けますから。だいたいの使い方は大丈夫ですか?」
「ペイントは使ったことあるから多分……」
「じゃあ何か分からないことがあったら聞いてください」
「う、うん」
新津係長がタッチペンをゆっくり動かし始める。真剣な顔で描くこと数十秒ほど、ふぅ、と息を吐いて顔をあげた。
「出来たわ」
早い完成だ。タブレットを覗き込むと丸い円に手足の生えたキャラクターが描かれていた。簡素な絵ではあったけどさすがに私でも分かる。
「カービィ、ですか」
「このくらいしかまともに描けそうなのが思いつかなかったのよ」
「いや全然いいですよ。描きやすいし可愛いし良いチョイスだと思います」
「そうそう、誰にでも描けるってのがいいわよね。まるかいて、おまめがふたつ~って子供のころに歌いながら描いてたわ」
しみじみと呟く新津係長を意外な目で眺めた。ゲームのキャラクターなんてまったく興味なさそうな人だと思っていたけど、わりと好きだったりするんだろうか。もしくはたんにゆるキャラみたいな感じで可愛いキャラが好きなのか。
唐突に新津係長がハッとして私を見た。
「あ、カービィの絵描き歌って若い子は分からなかったりする……?」
「いえ、聞いたことはあるんで分かりますよ」
「良かった。最近はちょっとしたことでおばさん扱いされるから怖いのよね」
「新津係長はまだまだ若いじゃないですか」
「そう言ってくれるのは嬉しいんだけど、あともうちょっとで三十になるのよ……時間が停まってくれればいいのにと何度思ったことか」
「私だっていつかは三十歳になりますし、そんなに落ち込まないでください」
「蓮沼さんは考え方が大人ね……私も見習わなくちゃ。はい、これ返すわね」
新津係長からタブレットとタッチペンを返された。
なんとかもうちょっと励ましてあげられないだろうかと考えて、画面の中のカービィと目が合った。私に出来ることなんて最初からこれしかない。
「新津係長、せっかくカービィを描くんだったら表情とかつけてあげてもいいと思いますよ」
新津係長が描いたカービィの隣にタッチペンを走らせる。
「目を棒線にするんじゃなくて楕円にして光を入れたり、手足の向きを変えてみたり、ぐでんってさせてみたり」
躍動感溢れるものからよだれを垂らして寝ているものまで、何体か描いてからカラーパレットを選択する。
「あとは色を塗ると途端に生き生きしたりもするんで……ほら、こんな感じに」
塗り終わったカービィを見せると新津係長の表情に再びきらきらとしたものが宿った。こういう反応は心が若い証拠なんだと思う。
「新津係長ももう一回描いてみませんか?」
こくこくと頷く新津係長にタブレットを渡した。今度は私が色々とアドバイスをしながらカービィを描いていく。いつもは私が業務を教わる立場なのにすっかり逆転してしまった。それでも新津係長は嫌な顔をするどころか心から楽しそうにしていた。こんな風に絵を描いてくれると私も楽しくなる。
気付けば二時間以上経っていた。
カービィだけじゃなく敵キャラもいて賑やかになった画面を見て、新津係長がおずおずと申し出る。
「これ、写真に撮ってもいいかしら?」
「いいですよ。あ、でも会社の人達には内緒にしてもらっていいですか? あんまりその、広まって欲しくはないので」
「分かったわ。約束する」
新津係長が話の分かる人でよかった。
……少し話して思ったんだけど、なんとなくこの人こっち側のような気がする。こっち側、というのはサブカルにどっぷりつかってる、みたいな意味だ。確証があるわけじゃないけど雰囲気でそう思う。例えるならイベントやライブに参加したとき、行く途中で見かけた人が普通の格好をしていてもその参加者かどうか分かるみたいな。言葉にはしづらい感覚。
だからって自分から話題を振るにはリスクが高い。一歩間違えればドン引きされて会社での立場が危うくなってしまうからだ。とりあえず静観しておくのが吉だろう。
「ちょっとお手洗い行ってくるわね。戻ったらお店出ましょうか」
「あ、はいー」
新津係長が席を離れ、私は帰り支度を始めた。タブレットをカバンにしまおうとしてふと思い立つ。
(これアップしよっかな)
新津係長に見つかる恐れもあるけど、膨大なアカウント数を考えれば砂漠に落とした砂金を見つけるようなもの。ハッシュタグだけ外しておけば大丈夫だろう。
色や線がはみ出ていたところを修正してから画像を保存し、そのままツイッターにログインする。
アカウント名はmarino。蓮沼里乃から取った。繋がってる人達はほとんどがネットで出会った人達だ。だからこそ気兼ねなく色々なことを呟ける。
絵心のない友人と協力して描きましたとかでいっか、なんて思いながら呟こうとしたとき新しい呟きが一番上に表示された。
『会社の子に教わって初めて描いちゃいました(*´∇`*) 最近の子は液タブ持ち歩いてるしすごいな~( ⁎ᵕᴗᵕ⁎ )』
瞬間、私の全身が硬直した。
呟いたのはhumiさん。私のイラストのファンで相互フォローの人。いつもいいねやコメントをくれるし私からも気軽に話しかけられる友達みたいな人だ。
その人が呟きと共に写真をあげていた。大きく表示された薄型のタブレットの中にカービィや敵キャラたちが描かれている。
その絵には見覚えがあった。何故なら今まさに私がその画像をあげようとしていたから。
いやいやまさかと思いながら写真をじっくりと見てみるけど、タブレットの形や端に見えるテーブルの色などが悲しいくらいに私の目の前のものと一致している。
(humiさんが……新津係長? え、嘘? 新津係長の名前ってなんだっけ。確か千文だったような……だからhumi? あぁもう確定じゃん! うーわー! どうしよどうしよ!?)
慌てる理由は二つ。一つはhumiさんにかなりお世話になっていること。応援してくれるだけじゃなくツイッターアイコンの作成依頼も受けたし、FANBOXで支援もしてくれてるし、欲しいものリストの商品も結構送ってもらったりした。金額で言うと数万は私に使ってるはずだ。もちろん見知らぬ人だからといっていくらお金を使っても構わないということじゃないけど、知った人だからこそ申し訳ない気持ちが湧いてくる。
そして肝心のもう一つ――。
(私が描いてるイラストってほとんどが百合系なんですけどぉー!)
可愛い女の子たちのあれやこれや。だから私は会社の人に話したくなかったんだ。
こっち側どころかまさしく同族。私の仲間を見抜く能力は本物だったらしい。それが良いことかどうかは別として。
深く深く溜息をついてから、とりあえずhumiさんの呟きにいいねはしておいた。
気付かれてさえいなければ問題ない。私はそう結論付けた。会社で普通に会話する分にはバレる恐れなんてないんだから、むしろ気にし過ぎたほうがボロが出てしまう。
(だからって気にならないってことじゃないんだよなー……)
ネットの中の新津係長は口調もキャラも全然違うしテンション高いし私へのリスペクトも半端ない。
『二人の指の絡ませ方が最高に尊かったです~( *´꒳`*)♡ 』
上司にこんなコメントをされてどう反応しろと言うのか。恥ずかしいというか見てはいけないものを見ているようで私の方が気まずくなってしまう。
(まぁ直接顔を合わさなければバレることはないと思うけど――あ)
顔を合わせる可能性が、ある。来週の日曜日に百合オンリーのイベントに参加をするんだった。しかも今回はサークル側で初参加。今までのイラストに描き下ろしを足した画集を頒布する予定だ。いきなり単独で参加するのが不安だったので知り合いのサークルのスペースにお邪魔させてもらうことになっている。
(新津係長も来るのかな……?)
イベント参加の告知はだいぶ前にしたけど、そのときは特に何も言ってなかったと思う。日にちが近づかなければ行けるかどうか分からなかったりするし、改めて来週の告知をしてみようか。
私がサンプル画像と共にイベントの告知をツイートすると、さっそくhumiさんからコメントがついた。
『その日行けそうなので絶対行きますね~』
……当日はウィッグとマスクが必須になった。新津係長が来るタイミングで席を外すという手もあるけど、お世話になっているのに挨拶をしないというのは人としてありえない。
(まぁ風邪気味ってことで声を変えたりぼそぼそ喋ったりしてなんとかするしかないか)
はぁ、と憂鬱な気分で息を吐く。その息が絶句に変わったのはイベント二日前のことだった。
「――え!?」
一緒に参加するサークルの人からの突然の連絡。急性腸炎で入院してイベントに行けなくなった、代わりの人が見つからなかったからそっちで見つけて欲しい、治ったらお詫びする等々が本当に申し訳無さそうな文体で送られてきた。
突発的な病気はしょうがない。しょうがないのは分かってるけど、どうしよう……。頒布予定の本はすでに会場に宅配してあるし量がそこまで多くないので前日搬入は私ひとりでもなんとかなる。でも当日ずっとひとりというのが困る。お金の管理、在庫の確認、トイレに行く際の見張り……ただでさえ初めてのサークル参加なのにきちんと出来るのだろうか。
知り合いに片っ端から声を掛ければ誰かしらは来てくれると思うけど、まったく知らない人とずっと一緒にいるのはしんどい。遠方住みの人も多いし近くに住んでいて面識があってそれでいて当日空いている人なんて……。
いた。ばっちり当てはまる人がひとり。でもその人にお願いするということは、私の正体がバレる可能性が高まるということ。そのかわり、人間的にも仕事的にも頼りになることが確定している。
背に腹は替えられない。大事の前の小事。さんざん悩んだあげく、私はその人にメッセージを送った。
日曜日。イベント当日の早朝にサークル用の入場口の前に行くと見覚えのある女性がスマホを見ては周囲を交互にきょろきょろと見回していた。
私は彼女に近寄って控えめに声を掛ける。
「あの、humiさん、ですか?」
「あ、は、はい! えっと、marinoさんですか?」
「はい。今日は急に無理を言ってすみませんでした」
「ぜ、全然いいんですよ! 特にやることもなかったので!」
朝だというのにhumiさん、いや新津係長のテンションが高い。傍から見ても憧れの人に会えて嬉しいオーラがよく分かる。
(けど私には気付いてないみたい)
明るめの茶色のウィッグの前髪で目を隠し、伊達メガネをかけ、マスクをした私の変装を見破るのは家族でも難しいだろう。
ふと新津係長が眉をひそめる。
「声がつらそうですけど、もしかしてmarinoさんも体調悪いんですか?」
「あ、少し風邪気味で……」
「無理しないでください。きつかったら救護室とかに行っててもいいんですよ。私が責任をもってスペースにいますので」
「だ、大丈夫です。痛いのは喉だけなので」
普段会社で新人の面倒を見ているからかさすがの気遣いだ。それは設営を終えて開場してからも変わらなかった。
基本的に本の受け渡しの応対は新津係長が買って出てくれたし、合間合間に私の体調を尋ね、熱の有無や喉の乾きを気にしてくれた。お昼過ぎになって少し落ち着いてきたから回りたい他のサークルがあれば、と声を掛けても頑として席を離れようとしなかった。
「この本が一番の目当てだったので他は別にいいんですよ」
そう言って私があげた画集を嬉しそうに両手で持ち上げた。
「あの、じゃあ描いて欲しいキャラとかありますか? スケブでよければ、humiさんに差し上げます」
「い、いいんですか!? えぇっと、じゃあ……」
画集のページをぱらぱらとめくり、あるイラストを指さした。二人の女子高生が仲良く通学しているイラスト。笑顔で談笑をしながら、懸け橋のように指先だけで手を繋いでいる。
「このイラスト、すごく好きなんです。こんなちょっとの触れ合いなのにお互いの気持ちがしっかり伝わってきて、眺めてるだけで心が洗われるような感じがして。あぁ私もこんな恋愛したかったなぁ――なんて言ったらおばさんっぽいかもしれませんけど」
「そんなことは……」
「あ、でもこれじゃ二人になっちゃいますよね。えーと、じゃあ右側、いや左側の子にします」
「二人とも描きますよ。無理言って来てもらたんですからそのくらいは」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
「でもペンで描くのであんまり期待はしないでください」
「あ、もう全然何でも大丈夫です!」
めちゃめちゃ喜んでる。それどころかペンを動かすのを横で見ながら「はわぁ……」と恍惚の吐息を漏らしている。人が来るとちゃんと応対に移ってくれはしたけど、気になってしょうがなかった。
三十分ほど掛けて絵は完成した。向かい合ってはにかみながら指を絡ませる二人のバストアップのイラスト。
それを見るなり新津係長が口元を手で覆った。
「はぁぁぁぁぁぁ、尊い! 無理! 語彙力!」
お手本のような反応。あの新津係長と同一人物だと思えない。
最後にサインを書いて渡そうとすると待ったをされた。
「転売防止のために『humiさんへ』って分かりやすく書いておいてください」
こういうとこはやっぱり新津係長だなと思う。どんなときでも締めるところはきっちり締める。
「はぁぁ、家に帰ったらラミネートして家宝にします~」
すぐに顔が緩みきってしまったけど。
夕方の四時になり、イベント終了を告げるアナウンスが会場に響いた。
ありがたいことに用意した本は私のも来れなかったサークルの人のも全てなくなった。私のは数をあまり刷らなかったというのもあるが、それでも素直に嬉しい。
撤収作業を済ませてから新津係長と一緒に会場を後にして駅へと向かう。
「今日はありがとうございました。humiさんが来てくれて本当に助かりました」
「全然たいしたことしてませんよ」
「そんなことないです。最後のお金の精算だって全部やってもらいましたし、一日ずっとお世話になりっぱなしです」
私は財布から一万円札を取り出した。
「あの、これ今日手伝っていただいたお礼に」
「い、いいです! しまってください!」
「でも」
「お金の為にやったんじゃないですから! 純粋にmarinoさんが困ってるならお手伝いしてあげたいって思っただけです! それにお礼ならもういただきました」
自分のカバンをぽんと叩く新津係長。おそらく私の画集とスケブのイラストのことを言っているのだろう。
切り取ったスケブのページをパンフレットで挟み、クリアファイル四枚を使って折り曲がらないように丁重にしまっていたのを思い出した。あれが今日のお礼として十分なのかは私には何とも言えないが、本人がいいと言っているならこれ以上はやめておこう。むしろ困らすことになってしまう。
さて。
イベントが無事終わってまだ夜も遅くなってない。本来ならこのまま晩ごはんでも、となるんだけど新津係長の前でマスクを外すわけにはいかない。
「あ、あの、この後なんですけど……」
私が断りを入れる前に新津係長が遮った。
「今日はもう帰りましょう。本当なら完売のお祝いも兼ねて晩ごはんをご馳走したいところなんですけど、marinoさんの体調も思わしくないですし、家でゆっくり休みましょう」
「……ありがとうございます」
この人はネットであろうとリアルであろうといつも優しい。だからこそ私も困っている新津係長を助けようとプリント作成を申し出たんだ。
ふっと笑ってから私は言葉を続ける。
「でも次にご飯をご一緒するときは私にご馳走させてください。私がもらうばっかりじゃ釣り合わないですよ」
「いつも素敵なイラストを見せてもらってる分、私の方が得してるので問題ないです」
「それとこれとは違いますよ」
「労力には正当な対価を、っていうのが昨今のクリエイター事情だと認識してます。この労力っていうのは描いた時間や手間だけじゃなく、それまでの年月もってことですよね」
あるときピカソはファンからせがまれて30秒ほどで描いた絵に100万ドルと価格をつけたという。驚くファンから『たった30秒しか掛かってないのに』と言われて答えたのが、『30年と30秒です』。
技術というのは目に見えないからこそ他人からは判りづらい。その部分をきちんと理解してくれるのは本当にありがたいことだと思う。
新津係長が照れくさそうに頬をかいた。
「なんて偉そうに言ってますけど、結局私がmarinoさんに奢ってあげたいだけなんですよ。創作なんて無縁の私には、こんな形でしか応援することが出来ないので」
「ほんとにありがとうございます」
感謝の言葉しか出ない。私だって好きなアーティストや漫画家、絵師さんを応援することはある。それが自分に向けられたときの喜びというのは他の何物にも代え難い。
駅に到着してから二人とも電車に乗り込んだ。途中の駅まで一緒なようだ。まぁこの前ご飯を食べたときに新津係長の最寄り駅を聞いたのでそれは知っていたんだけど。
電車の中では百合漫画の話題で盛り上がった。あのときの行動が良い、表情が良い、あの子の気持ちに共感する等々、会話が尽きることはなかった。
「あ、私この駅です」
気が付くと私が乗り換える駅に電車が到着した。開いたドアから乗客たちがホームへぞろぞろと出ていく。遅れていては取り残されてしまう。
「今日はお疲れ様でした。体調に気を付けてゆっくり休んでください」
ささっと別れの言葉を口にしてくれた新津係長に、私も早口で返す。
「ありがとうございます。新津係長もお体にお気を付けて。それじゃお先に失礼しま――」
一瞬時間が停まったような気がした。
目の前には『え?』と表情を固めた新津係長。私の口角も上がりかけたまま動かなくなる。
何も言わずにくるりと背を向けて電車を降りた。振り返る勇気はない。大勢の人たちと階段を登りながらただただ『やってしまったぁぁ……!』と頭を抱える自分がいた。
まだ悲観するには早い。
口を滑らせてしまったけど誰かまでは分かってない可能性がある。見た目が全然違うし、絵を描いているからといって蓮沼里乃=marinoとはならないはずだ。現にツイッターにもラインにも新津係長からのコンタクトはない。きっと会社の誰か分からずに悩んでいるんだろう。そうに決まってる。
「お、おはよう、蓮沼さん。た、体調とか、大丈夫……?」
あ、これ完全にバレてますね。
会社で会った新津係長の態度は分かりやすかった。業務の合間合間に私の方を窺っては何か言いたそうな雰囲気を出している。
ここで自分から名乗りに行くのは個人的に無い。
正体を隠していたヒーローがいてそれがバレるとき、ヒーロー自らが『実は私は○○だったのだ!』と言うのと、ヒーローを追いかけていた一人が『ま、まさかあなたが○○だったなんて!?』と言うの、どっちがいいかという話だ。私は後者がいい。というよりどんな顔して『実はmarinoって私だったんですよえへへ』なんて言えばいいのか。
それにこのまま互いに確認せずにグレーゾーンで事なかれすることも考えられる。私が知られたくなかったのと同じく向こうだって私に知られたくなかったはずだ。
よし、新津係長が知らぬ存ぜぬを貫く限り私もお地蔵さんでいるとしよう。
お昼休みに昼食を済ませ自分のデスクに戻ってきたとき、マウスの下に紙が挟まっているのに気が付いた。
(ん? これ……前に私が作った行事案内に描いた動物、と吹き出し?)
案内文などは無く、その動物と吹き出しの周りに沿って綺麗に切り抜かれている。
その吹き出しの中に手書きでこう書かれていた。
『marinoさん?』
バッと顔をあげると斜向かいの席の新津係長と目が合った。しかしそれも一瞬だけ。すぐに新津係長は顔を伏せてパソコンを操作する振りを始めた。ちらちらと目だけでこっちを窺っているが。
いやもう、私の気持ちとしては『直接聞いてこいよ!』ですよ。
回りくどいし他の人に見られる可能性もあるし、動物が可愛らしく喋ってる感じで聞いてこられてるのもちょっともやっとする。
なので無視することにした。聞きたいことがあるなら直接どうぞとばかりにどすんと椅子に腰を降ろす。
しかし残念ながら新津係長の行動はそれだけで終わらなかった。
「蓮沼さん、これ会議室に届けてくれない?」
「あ、はい」
新津係長に呼ばれて書類を取りにいくと、一番上にクリップで小さな紙が留めてあった。今度は私が描いた子供の絵だ。
『怒ってる?』
怒ってない! そういうことじゃない!
「…………」
クリップから紙を引き抜いてポケットに乱暴に入れてからその場を離れた。
その後もちょくちょくタイミングを見計らって私に絵を(というよりその吹き出しの中の言葉を)見せてきた。
『全然知らなかったの』
『誰にも言わないから』
『困ったことがあるなら何でも言って』
困ってるのは今の状況だよ!
定時になるまでなんとか耐え、みんなが帰宅の準備を始めると真っ先に新津係長の席まで歩いていった。
「あの、新津係長」
「な、なに?」
「先日の件で確認したいことがあるのでこの後お時間いただけますか?」
「ひゃ、ひゃい」
なんで呂律回ってないの?
知った人と会わないように会社を出てから駅とは反対方向に進んだ。人気のない適当な路地に入ってから新津係長の方に向き直る。
「私にどういう反応を求めてるんですか? 会社ではmarinoの名前を出さないで欲しいんですけど。あと聞くなら直接聞いてください。まどろっこしいです」
「やっぱり蓮沼さんがmarinoさんだったのね……」
ひとり納得する新津係長に『そこからかい!』と胸中で突っ込みを入れる。じゃなきゃ私の態度もおかしかったでしょうが。
「……とにかく、新津係長も普通にしといてください。私も普通に接するので」
「む、無理よ」
「はい?」
「だ、だって、あのmarinoさんがうちの会社にいるなんて……正直どうやって話せばいいか分からないの!」
「今まで通りでいいじゃないですか! 私はあなたの部下で新入社員ですよ!?」
「でもmarinoさんじゃない!」
ダメだ。有能な係長がただのミーハーな乙女になってしまってる。
「昨日のイベントのときはまだまともだったのに」
「あれは初対面だったしあんまり変な態度とってたら迷惑かけちゃうと思ったの」
「それを会社でも思ってください」
「思ってるわよ! 思ってるけど無理なの! もしかしたらこれまでに失礼なこと言ったりしてないかとか不快になるようなことさせてないかとか心配になることが山ほどあるのよ!」
「もしそうならちゃんと報告しますよ……」
なんかもう疲れてきた。そういえばこういうの小学校のときに見たことある。女子がある男子に告白した後、意識し過ぎたのかその男子が不意に近づくたびにきゃあきゃあ叫んじゃって、男子の方はきょとんと見返すっていう。
まさしく私は今置いていかれてる気分だ。
「てっきり百合好きとかが知られて恥ずかしがってるのかと思ったら……はぁ」
「……え」
私の呟きに新津係長が目を開いた。息をすっと吸い込んでから両手で顔を覆い、建物に頭をごんとぶつける。
「あぁぁぁぁ――――」
恥ずかしがるのが遅すぎる。それだけ嬉しさとか困惑が勝っていたのかもしれない。
だけど趣味嗜好が筒抜けなのはこっちも同じだ。ひとりだけ被害者ぶられるのは納得がいかない。
私は大きく溜息をついてから上司の背中に声を掛ける。
「新津係長、そろそろ行きましょうよ」
「……どこへ?」
「昨日の約束、忘れたんですか? 奢ってくれるんですよね?」
「…………」
「応援してくれるって言ったじゃないですか」
「…………」
「また今度イラスト描いてあげますから」
「――marinoさん、今日は何を食べたい気分ですか?」
「いやもう別に驚きませんけど……」
報酬を提示したとたん恥を捨て去りおった。物事のプライオリティがはっきりしていることで。日頃私達に仕事の優先順位を教えているだけはある。
「食べるお店は新津係長にお任せしますから、その敬語をやめてください」
「私にmarinoって呼び捨てさせるつもり!?」
「そこは蓮沼さんでいいじゃないですか……」
「ダメよ! 蓮沼さんは会社での呼び方なんだから公私混同しないようにしないと!」
「公私混同……?」
深く考えるのはやめにして妥協案を述べる。
「じゃあ下の名前で呼んでください。里乃ならほとんど同じですよね。そのかわり私も千文さんって呼ばせてもらいますから」
「…………り、里乃、さん」
「ガチで照れるのやめてください」
「だ、だって、あのmarinoさんの本名を呼ばせてもらってるのよ!? こんなに光栄なことってある!?」
「蓮沼だって本名です!」
「名字と名前じゃ重さが違うの!」
「あーはいはい、じゃあさっさと食べに行きますよー。千文さんが決めないんだったら叙々苑の游玄亭にしますからねー」
「里乃さんが食べたいんだったらそこでもいいわよ」
「食べません! その『推しにお布施する金銭感覚』どうにかしてください」
「いいじゃない。里乃さんに美味しいものを食べてもらうかわりに、ね?」
「……意味深な言い方してますけどイラストのことですよね?」
「そうよ。他に何かある?」
「知りません!」
浮かんだ想像を振り払い繁華街に踏み出していく。
最初こそ上司が私のファンだなんて悪い冗談だと思ったけど、いざ全部が明らかになってしまえばなんてことはない。ただ気兼ね無く趣味の話が出来る友人が増えただけ。職場にそんな友達がいるなんて最高じゃないか。
まぁ向こうがそう思ってくれるかどうかはこれから次第なんだろうけど。
一週間ほど経ったある日の夜、私は仕事終わりに新津係長の家にやってきていた。
「ほ、本当に私の部屋入るの?」
「ここまで来といて今更ですよ」
「だって、いざ本人に見せるとなったら恥ずかしいじゃない」
「ほんとに恥ずかしいと思ってたんならわざわざ見せびらかすように呟かないでしょー」
昨日のことだ。新津係長がツイッターに『できた~٩(ˊᗜˋ*)و 』と自分の部屋の写真をあげた。部屋の壁には私のイラストを拡大したものがたくさん飾られていた。もちろん私が描いたスケブのイラストも。
そんなの私も実際に見たくなるじゃないか。むしろ著作権は私にあるんだから私が見るのは正当な権利である、と主張して無理矢理お邪魔したわけだ。
「私は里乃さんに見せびらかしたかったんじゃなくて、他の里乃さんファンに見せびらかしたかったの!」
「いいから早くカギ開けてください」
「うー……」
「千文さん、そろそろ新しいアイコン画像とか欲しくないですか?」
「ささ、早くあがっちゃって。虫が寄ってきちゃう」
ほんとこの人は扱いやすいなぁ。むしろわざとなんじゃないかって思えてくる。
「おじゃましまーす」
新津係長に続いて中に入る。入ってすぐの台所を抜けていく途中で冷蔵庫に貼られたメモに気が付いた。
「これって……」
前に私が描いたデフォルメの動物。吹き出しの中に少なくなってるもの、買わなきゃいけないものが箇条書きされている。
新津係長がこちらを振り返った。
「あぁそれいいでしょ? 世界にここだけのmarinoさんメモ帳」
「いやその……普通のメモかホワイトボード使う方が効率よくないですか?」
「この絵があるからいいんじゃない。それに会社で印刷してるから安上がりよ」
「怒られても知りませんからね」
呆れながら部屋に入り、私は立ち止まった。
写真で見た通り壁にイラストが飾られている。それが左右の壁にずらりと、全部額縁に入れられた状態で。綺麗に並んでいるせいか個展のようだ。自分の作品ではあるけど、思わず見惚れてしまった。
「ど、どうかしら?」
「……よくこんな手間なことしましたね」
「好きな絵に囲まれて生活するのって結構いいものよ」
好きな、と言われて少しだけ胸の奥が揺れた気がした。
自分の作品を褒められるのはいつだって嬉しい。ましてやここまで全力で愛を表現してくれているのだからその嬉しさも段違いだ。
……胸の奥が揺れた理由は本当にそれだけなんだろうか。
「里乃さん、何か飲む? コーヒーかお茶なら用意出来るけど」
「あ、じゃあコーヒーを」
「はい、ちょっと待っててね」
新津係長が台所へ行きヤカンに水を入れ始める。
それをぼんやり目で追っていた私はいたずらを思いついた。コンロのつまみを回している新津係長の隣へ行き、空いている左手の指先にそっと触れる。
新津係長が不思議そうに私の方を見た。
「ん?」
私はそのまま指を鉤状にしてから新津係長の指に引っかけた。
「里乃さん、なにしてるの?」
「千文さん言ってたじゃないですか。こういう恋愛がしたかったって」
「た、確かに言ったけど、いきなりこんなことして誤解されたらどうするの?」
「誤解じゃなかったらどうします?」
「えっ!?」
「嘘ですけど」
「はぁぁぁ……」
気が抜けたように息を吐く新津係長。でも私はまだ指を離さない。
「……里乃さん?」
「イラストの参考ですよ。自分で実際にした方が色々と分かるじゃないですか」
「そ、そういうこと。でもお湯が沸いたらコーヒー淹れるからさすがに離れてね」
「分かりました。じゃあお湯が沸くまで」
いい大人が二人、コンロの前に立って指を繋いだままヤカンが鳴るのを待っている。
一見すると何やってんのと言われそうだけど、私にとってはこれだけでドキドキものだ。私が描いた少女たちもきっと同じだったんだろう。隣にいるこの人はどう感じているんだろうか。
焦る必要はない。イラストだって一瞬で完成するわけじゃないんだ。ひとつずつ線を引いて重ねて色を塗って、それを何度も繰り返してようやく満足のいくものが出来上がる。
だから私達もちょっとずつ進んでいけばいい。
ま、いざとなったらまたイラストを餌に釣り上げてみるとしよう。
終
お待たせいたしました。
上司がどうのこうのが多いのはそういうのが好きだからなんでしょうね(他人事)
自粛の日々が続いていますが、私の作品で少しでも気分が紛れれば幸いです。
題材にしない限りはコロナとは無縁の世界を書くつもりでいます。
本筋と関係はないんですが、星のカービィが4月27日で28周年になったそうです。
小さいころよく遊んでたなぁと思い返しながら書きました。今でもカービィは好きです。