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【5:ロザリー・ヴェルデの初恋】

 午前中ずっと寝ていたおかげか、午後になったらだいぶ体調も良くなったので、ロザリーはリンにお願いをしてみることにした。

「ここ数日寝たきりで、退屈だったから……本が読みたいの」

「ご希望の本があれば、書斎からお持ちいたしますが」

 予想していた返事に、ロザリーはしばし葛藤した。できることなら、あまりワガママを言ってリンの手を煩わせたくない。

 だが、ロザリーは自分で本棚から本を選びたかったのだ。

 そうすることで、自分が何に興味を持っていたかが分かれば、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない。

「自分で選びたいの……ダメかしら?」

「かしこまりました」

 リンは思いの他あっさり了承すると、ロザリーに手を貸して立ち上がるのを助けてくれた。まだ走り回ったりはできないが、ゆっくりと歩くぶんには問題ないだろう。

 リンが告げた書斎の場所は、ロザリーが借りている部屋のすぐ近くだった。

「珍しいわね、書斎って普通は客室の近くには作らないでしょうに」

 ロザリーが思わず呟くと、リンが足を止めてロザリーを見る。

「あれは客室ではありません」

「……え?」

「ロザリー様の部屋です」

 それは単純に「ロザリーが使っている部屋」ということではなく、最初からロザリーのために用意された部屋であることを意味しているのだろう。

 ロザリーはルイスの婚約者だ。いずれ、彼の妻になるのなら、部屋を用意してあるのは不自然なことではない。

(……それなのに、何故こんなにも胃が重いのかしら)

 ルイス・ミラーはいつだってロザリーに対し、好意的で親切だ。

 それなのに、彼の好意に触れるたびに、ロザリーは酷く気が重くなる。

(……私は、あの人の好意に見合うような人間じゃない)

 苦い気持ちに顔をしかめて、ロザリーは再び足を動かした。

 書斎までの距離は近いけれど、それでも数日寝たきりだった体には、なかなか辛い。

 ふぅふぅと息を吐きながら書斎の前まで辿り着けば、リンがポケットから書斎の鍵を取り出した。鍵は凝った細工が施されており、持ち手の部分には魔法陣が刻まれている。

 リンが鍵穴に鍵を差し込むと、扉が一瞬淡い水色に発光した。

「書斎には貴重な魔術書が保管してあります故、侵入防止の結界が張られております」

「今更だけど、そんな場所に私が入って大丈夫なの?」

「問題ありません」

 そう言って、リンはロザリーの手に書斎の鍵を乗せる。

 精霊のリンは人よりも体温が低いらしく、彼女が握りしめていた鍵は人肌の温もりを感じさせることもないまま、ロザリーの手に渡った。

「ルイス殿はロザリー様が書斎に興味を示すであろうことを察しておられました。ロザリー様が書斎に行きたいと仰られたら、この鍵をお渡しするよう仰せつかっております」

「この鍵、使い終わったらあなたに返せばいいの?」

「いいえ、それはロザリー様の鍵です」

 部屋だけでなく、書斎までも。ロザリーが喜ぶようにと、なにからなにまで先回りして用意されているのが、どうにも居心地悪くて仕方ない。

 どうしたってロザリーは、ルイスから与えられるものが、自分のものだと思えないのだ。

 綺麗な部屋も、書斎の鍵も……彼の甘い言葉も。

「なお、この結界の中は、精霊のわたくしには少々居心地が悪いので……わたくしは廊下で待機させていただきます。持ち出したい本が決まりましたら、室内の卓上にあるベルを鳴らしてください」

「分かったわ、色々とありがとう」

 ロザリーはリンに丁寧に礼を述べて、書斎へと足を踏み入れる。扉を潜り抜ける瞬間、肌の上を見えない何かが撫でるような感覚があった。これが結界の魔力なのだろう。

 ちらりと手の中の鍵を見れば、実に複雑で緻密な魔法陣が刻まれている。この鍵だけで家が建つような価値がある代物だ。そう認識すると、手の中の鍵がますます重く感じる。

 書斎は古い本特有の埃や黴の匂いはしない。代わりに虫よけのハーブの匂いがする。

 結界で人や精霊を弾くことはできても、持ち込まれた本に付着していた小さな虫までは排除しきれないというのが、なんだかおかしい。


『お前は、目の付け所がいいな。そうだよ、完璧な結界なんてない。いくらでも抜け道があるんだ』


 ふと、頭の中で誰かの声がした。

 まだ声変わりをしたばかりの少年の声には素直な感嘆が込められていて、それがロザリーは……

(……嬉しかった、のよ。誰かに褒められたことなんて、なかったから)

 今のはきっと、忘れていた自分の記憶だ。

 いつ、どこで、誰にもらった言葉かは思い出せない。

 だけど、かつて自分はその言葉を貰って、それを嬉しいと感じたのだ……心から。

「ロザリー様?」

 棒立ちになっていたロザリーに、リンが声をかける。

 ロザリーはリンを心配させぬよう「大丈夫よ」と笑って、書斎の扉をそっと閉めた。

 そうして鍵をポケットに押し込んで、書斎をぐるりと見回す。

 一般庶民が想定する書斎の倍ほど広い書斎だが、さほど驚きを覚えないのは、おそらくロザリーが本に囲まれた環境で育ったからだろう。父が七賢人なら、魔道書に囲まれて暮らしていてもおかしくはない。

 書斎の奥には本棚が六列ほど並び、手前には美しい飴色の文机とチェア。それとは別に、文机のそばに長椅子が設置されていた。

 あのお上品なルイス・ミラーでも、ソファに寝そべって本を読んだりすることがあるのだろうか。

 そんな他愛ないことを考えながら、ロザリーは本棚を一つ一つ眺めて歩く。

 本は魔法に関する物がほとんどだったが、とにかく幅広い。

 魔法とは、魔術、錬金術、召喚術、占星術、呪術など、それら全てをひっくるめた総称なのだが、大抵の者はその中の一つに特化する。中には魔術師と錬金術師の両方を兼任する者もいるが、当然に膨大な知識が必要になるのだ。

 そして、ルイス・ミラーの蔵書はとにかく魔法に関するあらゆる分野に及んでいる。

(もし、ここにある本を全て読んでいるのだとしたら……大したものだわ)

 一つずつ本棚を見て歩いていたロザリーは、最後の本棚の前で足を止める。最後の本棚には薄い教本がきちんと整理して並べられていた。

 妙に心惹かれて本を手に取れば、本の表紙には梟の紋章が描かれているのが分かる。

(……私は、これを知っている……)

 それは国内最高峰の魔術師育成機関ミネルヴァの教本だ。

 パラパラとページをめくれば、びっしりと細かな書きこみがされている。この教本の持ち主は大層勉強熱心だったのだろう。

 教本の内容にも書き込みにも、ロザリーは覚えがあった。線で囲われている重要な文は一字一句違わず、暗唱することもできる。

(私は、きっとミネルヴァの生徒だったんだわ)

 例え魔力が少なく才能が無かったとしても、ロザリーは七賢人の娘だ。

 成長過程で潜在魔力が成長することを見込まれて、入学を許可された可能性は大いにあり得る。


『七賢人なんぞになりたがる奴の気がしれないな。貴族に媚び売ってまでなりたいか? あんなモン』


 また、書斎に入った時に思い出したのと同じ少年の声が、頭の奥で蘇る。

 この思い出を手放してはいけないと、ロザリーは必死で意識を集中し、記憶を手繰り寄せた。

 あの時、私はなんて言った? 彼に、なんと返した?


『でも、周りはみんな、期待してるわ』

『周りの奴らの期待に縛られる必要なんてないだろ。自分の期待だけ裏切らなければ、それでいい』


 そうだ、あの人は素っ気なくそう言って、ロザリーの前を歩いていた。

 あの人が着ているミネルヴァの制服はいつも砂や泥で汚れていたし、ブーツは穴が空いたのを何度も直して使っているからボロボロだ。

 それなのに、あの人はいつだって自信に満ちていた。

 七賢人の娘として期待されているのに、周囲の期待に応えられず、背中を丸めて俯いているロザリーとは正反対だ。


『……私は自分で自分に期待なんて、できないわ』


 ロザリーがボソリと呟けば、あの人はくるりとロザリーを振り向いて、あかぎれだらけの指をロザリーの額に押し付ける。

 そうして、パサパサの短い髪を風に揺らして、不敵に笑った。


『なら言ってやる。お前は七賢人の娘とか関係なしに、すごい女だ。この俺が認めるんだ、間違いない』


 目の前の光景が霞み、夢と現実の境目が曖昧になる。

 ポロリと左目から零れ落ちた雫は、手元の教本の表紙に染みを作った。

「やだ、いけない……」

 ロザリーは寝間着の袖で涙の染みをサッと拭い、自分の目元に指先で触れる。

 頭の中に蘇った微かな記憶と少年の声を何度も反芻すれば、胸にじわりと温かく切ない感情が込み上げてきた。

 全ては思い出せずとも、その感情は誤魔化せない。

(……あぁ、私は……彼が好きだったんだわ)

 自分を甘やかしてくれる婚約者のルイス・ミラーではなく、名前も顔も思い出せない、あの少年が。

 ロザリーは本棚にもたれながら、ゆっくりと息を吐く。そうやって心を落ち着かせてから、ロザリーはミネルヴァの教本を胸に抱いて、文机の前の椅子に座る。

 文机の上には小さなベルが置かれていた。これを鳴らせば、リンが声をかけてくれるだろう。

 だが、ロザリーの目はベルではなく、その横に置かれた小さな水晶玉に釘付けになる。

 天鵞絨の台座に乗せられた両手で覆えるほどの大きさの水晶玉だ。台座には横長のメモリが上下に並んでいる。メモリはどちらも最小値が0、最大値が300だ。

「……これ…………魔力計……」

 魔力計とはその名の通り、使用者の魔力量を測ることができる道具である。

 水晶玉の上に手を置くだけで、最大魔力容量と現在の魔力量が一目で分かるという便利な道具だ。

 一般的な魔術師の魔力量は、凡そ100から150程度だと言われている。

 七賢人になるには最大魔力容量が150以上あることが条件で、200を超えたら天才。250以上は化け物級、300までいったら伝説級だ。現存する魔術師の中で300を超える者は存在しないと言われている。

 そして見習いの場合、最低ラインは50からだ。

「…………」

 ロザリーはコクリと唾を飲み、水晶に指先で触れた。水晶が淡く輝いて反応する。

 正確な測定には、左右いずれかの手のひらで包み込むようにして水晶に触れなくてはいけない。

 それなのに、ロザリーは水晶に触れることが怖くて仕方がなかった。

(……そうだわ、私は過去にもこの恐怖を味わっている)

 いつだって、怖かった。苦い現実を突きつけられることが。

 それでも、今度こそはと淡い期待を胸に抱いては、水晶に手を乗せたのだ。

 ロザリーの手のひらが水晶を包み込む。水晶が淡く輝き、メモリの数字が緩やかに上昇する。


 ──現在魔力値29、最大魔力容量29


 見習いの最低ラインにも届かない、みじめな数字だ。

「…………はは」

 ロザリーは暗く笑って、まだ淡い光の残滓を宿す水晶を見下ろす。やがて水晶の輝きが収まると、透明な水晶にはロザリーの顔が球体の形に歪んで写った。

(そういえば、記憶を失ってから、自分の顔をちゃんと見てなかった)

 ロザリーは卓上のベルを手に取り、軽く鳴らした。

 チリンと澄んだ音は決して大きな音ではなかったが、一度空気を震わせただけでリンが書斎の扉をノックする。

「本はお決まりになりましたか」

「……えぇ」

 ロザリーはミネルヴァの教本を抱えて書斎を出ると、リンの手を借りて再びベッドに戻る。

 ベッドに腰かけたロザリーは、リンを見上げて一つ頼みごとをした。

「……鏡を、借りてもいいかしら?」

「どうぞ」

 リンは近くのドレッサーから手鏡を取り出すと、サッとロザリーに差し出す。

 ロザリーが手鏡を覗きこむと、そこにはチョコレートブラウンの髪に茶の瞳の地味な女が映っていた。

 ふた目と見られぬほど醜いわけではないが華やかさも愛嬌も無い、冴えない顔の女が鏡の向こう側からぼぅっとこちらを見つめている。

 ロザリー・ヴェルデは、魔法の才能も無ければ特に美人でもない、冴えない女だ。

 そんなロザリーをルイスが婚約者に望んだ理由など、決まっている。

「……あの人は、七賢人になりたいのね」

「ルイス殿ですか?」

 ロザリーがコクリと頷けば、リンは無表情のまま淡々と答えた。

「近々、ロザリー様のお父上である〈治水の魔術師〉殿が、七賢人の座を引退する予定だと伺っております。ルイス殿はその後釜の座を狙っておられるのだとか」

 リンの言葉は、ロザリーの疑惑を確信へと変えた。

 ルイス・ミラーは七賢人の座に就くために、才能も無く、冴えない容姿のロザリーと婚約をしたのだ。

 ロザリーの父の推薦を手に入れるために。

(でも、私が好きなのは……)

 顔も名前も思い出せない、あの少年。

 汚れた制服とブーツ。パサパサの髪。あかぎれだらけの指。貴族に媚びを売るのが嫌いで、いつも自信に満ちていた。率直で飾り気のない物言いが、ロザリーには何より好ましかった。

 記憶の中の少年の顔や名前を思い出そうとすれば、ズキズキと頭の奥が痛みだす。それでも、ロザリーは膝の上に置いたミネルヴァの教本に手を添え、何度も何度もあの少年の声を反芻した。


(……彼に、会いたい)


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