【4:ルイス・ミラーの優雅な出仕】
ルイスの屋敷に滞在した最初の三日間、ロザリーは高熱を出して寝こんだ。
ヒビの入った右肩と肋骨が、熱を持って神経を苛むように痛む。心臓の鼓動に合わせて傷がズクズクと疼くように痛み、そこから連鎖するように頭痛と目眩が交互にやってくる。
痛みのあまり思考が麻痺して、寝ているのか気絶しているのか分からないまま意識を失い、また意識を取り戻すと傷が痛み。三日間は殆ど意識が朦朧としていたのだが、それでも四日目にはだいぶ熱も下がり、五日目には体を起こしてまともな食事が出来るぐらいには回復した。
ありがたいことに、軍医のハウザーも何度か診察に訪れ、怪我の手当てや薬の処方をしてくれた。
軍医として多忙の身だろうに、本当に申し訳ない。ロザリーが申し訳なさそうに謝ると、ハウザーは「君と私の仲だ、気にすることはないさ」と陽気に笑いながら言った。
ルイスが言うには、ハウザーはロザリーのことを気に入っていて、孫のように可愛がってくれていたのだという。
尚更、何一つ思い出せないことが申し訳なくて縮こまるロザリーに、ハウザーは「焦ることはないよ」と穏やかに言ってくれた。
そんなこんなで、ロザリーは事故の日から六日目の朝を迎えた。
失われた記憶は、未だ何一つとして戻っていない。
* * *
「ロザリー、食事をお持ちしました」
六日目の朝、ロザリーの部屋を訪れたルイスは両手に銀色の盆を持っていた。盆の上には食事の皿や水差しなどが乗せられている。
いかにも上流階級らしい振る舞いの似合うこの男は、案外マメで献身的だ。日中は王宮で魔法兵団の団長として忙しく働いているのに、朝と晩は必ずロザリーの部屋に顔を出して、看病をしてくれる。
ロザリーとしては、ありがたい気持ち半分、居た堪れない気持ちが半分である。何故なら……
「はい、あーん」
ルイスはスープをスプーンですくって、ロザリーの口元に差し出した。そのとろけるように美しい笑顔は、なるほど舞台の上で見るならさぞ優美だっただろうけれど、朝食の席で見るには些かくどい。
(……胸焼けしそうな笑顔だわ)
失礼極まりない感想を胸の内にしまい、ロザリーは苦笑を返した。
「……左手で食べるから、大丈夫よ」
「それでは食べづらいでしょう? 遠慮など不要です。私達は婚約者なのですから」
やけに「婚約者」の一言を強調されているような気がするのは、ロザリーの気にしすぎだろうか。
唇をへの字に曲げて唸っていると、ルイスはスプーンを皿に戻して、ロザリーの口元に指で触れた。そうして親指の腹で唇をなぞって、ニコリと微笑む。
「この可愛い唇を、私に開いてはくれませんか?」
「……いや、今、なんで触ったの? ねぇ?」
「私が触りたかったからです。いけませんか?」
婚約者だから問題無いでしょう、という強い圧を感じるのは、やはり気のせいじゃない気がする。
これ以上ごねていたら、次は何をされるか分からないので、ロザリーは大人しく口を開けた。
ルイスはクスクスと楽しそうに笑いながら、スプーンでスープを掬って、ロザリーの口元に運ぶ。
スープは野菜が細かく刻まれていて食べやすいし、素朴な味付けが疲弊した体に優しい。
(……それなのに、隣にこの人がいるというだけで、なんか胃もたれしそう)
やたらと顔の良い男が、自分への好意を隠そうとせず、愛しげな目で見つめているというのは……なんというか、非常に居心地が悪いのだ。
やがてたっぷりと時間をかけて食事を終えると、ルイスは懐中時計で時間を確かめて、名残惜しそうな顔をした。
「そろそろ時間のようですね」
「……食事の世話をしてもらっておいて、こんなこと言うのもなんだけど……魔法兵団の団長が、こんなにゆっくりしていていいの?」
ロザリーが訝しげな目を向ければ、ルイスはパチンと茶目っ気たっぷりのウインクをした。
「問題ありませんよ、私を誰だと思っているのですか?」
いや、誰? という言葉をロザリーは飲み込み、記憶喪失の自分が知り得る限りの情報を頭に並べた。
ルイス・ミラー。ロザリーの婚約者で、王国魔法兵団団長。
(……魔法兵団の団長だと、何か優遇されているとか?)
いやいや、寧ろ人の上に立つ人間だからこそ、誰よりも早く職場に向かわなくてはいけないはずだ。
ロザリーが眉をひそめていると、ルイスは卓上のベルを鳴らした。すかさず扉がノックされ、リンが姿を現す。
「お呼びですか」
「ロザリーの食事が終わりました。私は出仕するので、片付けを頼みます」
「かしこまりました」
ルイスはリンに片付けの指示を出すと、ロザリーの左手を握って顔を覗きこむ。
「それでは、いってまいります」
「……いってらっしゃい」
ありきたりな見送りの言葉なのに、声に出すことに妙な抵抗があるのは何故だろう。
だが、どこかぎこちない「いってらっしゃい」の言葉に、ルイスは嬉しそうに顔を綻ばせ、ロザリーの頬にキスをした。
「いってきます、ロザリー」
そう言ってルイスは窓を開け、
……あろうことか、窓枠に足をかけて窓の外に飛び降りた。
「ちょっ!?」
ロザリーはギョッとして身を乗り出したが、肋の痛みに呻き声をあげてベッドに沈む。
うぉう、と苦しげな声で痙攣するロザリーを、黙々と食器を片付けていたリンがちらりと見た。
「問題ありません、あちらをご覧ください」
リンは「あちら」と言って、窓の外を示した。
窓の外に広がる冬晴れの青空には、鳥よりも大きな人影が見える。ルイスだ。彼はローブとマントをはためかせながら城の方へと飛んでいく。
「リディル王国名物『優雅に空を飛んで出仕する魔法兵団団長殿』です。目撃すると、その日は良いことが起こるとか起こらないとか」
「……名物なの?」
「今、適当に考えました」
「…………」
ロザリーは無言で窓の外とリンを交互に見る。
どうしよう、突っ込みどころが多すぎて、どこから突っ込んでいいか分からない。
「……あの人、いつも空を飛んで移動してるわけ?」
「流石に普段、城に出仕する際は馬車を使っておられますが、ここ最近はもっぱら空中移動です。きっと風と一体化することの喜びに目覚めたのでしょう」
風の魔術の中でも、物を浮かす術は極めて高いコントロール力が求められる。極端な話、強風で建物を吹き飛ばすより、花瓶を割らずに持ち上げることの方が遥かに困難なのだ。
まして、術師の体を浮かせて自在に空を飛び回るとなると、術師本人のバランス感覚が問われる。運動音痴の魔術師には絶対にできない芸当だ。上級魔術師でも、飛行の術が使える者はそう多くない。
それをあんなに容易くやってのけるのは、流石は魔法兵団団長と言ったところだが、それにしたって窓から飛び降りるのは心臓に悪いからやめてほしい。
(……まぁ、きっと、移動時間を節約しているのは、私のためなんでしょうけど)
なにせ障害物の無い空を真っ直ぐに飛んでいくのだ。馬車で移動するより早いに決まっている。
そこまでして、彼はロザリーと過ごす時間を捻出してくれているのだ。魔法兵団団長という多忙な身でありながら。
(……そこまでしてくれなくていいのに)
罪悪感にロザリーが顔をしかめていると、食器を片付けていたリンが「ロザリー様」と声をかける。
「朝食のスープの野菜、大きさは丁度良かったでしょうか?」
「……? え、えぇ」
微妙にズレた質問だ。ロザリーは首を傾げた。普通は野菜の大きさより、スープの味を気にするところではないだろうか?
改めて思い出すと、スープの野菜はどれも恐ろしく正確に、大きさを揃えて刻まれていた。
「とても食べやすくて美味しかったわ。ご馳走様」
「恐れ入ります。野菜を刻んだのは私ですが、味付けに関してはルイス殿が監修されております故」
「……あの人が?」
ルイスは見るからに上流階級の人間という風情である。正直、炊事場に立ったことがあるのかすら疑わしい。
……なにより、あの煌びやかな顔にエプロン。どうしよう、すごく似合わない。
ロザリーが渋面で唸っていると、リンはなんでもないことのようにさらりと言う。
「わたくしには、味覚がありませぬ故」
「……えっ?」
リンの衝撃的な告白に、ロザリーの中にある医師としての知識が咄嗟に反応する。
(味覚障害には幾つか原因が考えられるけれど、場合によっては食事の改善で治療が見込めるはず……)
食事の見直しを提言するべきだろうか、いや、まずはきちんと診察をしてから……と考えていると、リンはやはり表情一つ変えずに言葉を続けた。
「精霊は種族によって味覚の有無が異なりますが、大抵の風の精霊は味覚を持ちません」
「………………うん?」
ロザリーは言われた言葉の意味を噛み砕いて咀嚼して飲み込むのに、数秒を必要とした。
彼女は今、なんと言った?
「……精霊?」
「精霊です」
「……誰が?」
「わたくしが」
「……私の知る限り、人の姿になれる精霊って、かなりの高位精霊だったと思うのだけど」
「お褒めに与り光栄です」
──ルイス・ミラーは、あろうことか風の高位精霊をメイドとしてこき使っている。
ロザリーの中にある「ルイス・ミラーに関する情報」がまた一つ増えた瞬間であった。
今になって、ロザリーは気づく。
リンはロザリーのことは「ロザリー様」と呼ぶのに、何故か屋敷の主人であるルイスのことは「ルイス殿」と呼ぶのだ。屋敷の主人とメイドのやりとりとしては、まず有り得ないことである。
「……あなたとルイスって、どういう関係?」
「とりあえず、色気はありません」
「あぁ、うん、それは見れば分かるから」
ついでに言うと、信頼関係もあまり無さそうである。一周回って、なんで同じ屋敷に住んでいるのか気になるぐらいには。
「実はわたくし、精霊の身でありながら、人間に恋をいたしまして」
「う、うん?」
「その方と添い遂げるべく人間に化けるすべを手に入れたのですが、わたくしは人間社会の常識に、あまりにも疎い」
確かに常識あるメイドは、昼に帰宅した屋敷の主人を門前払いにしたりはしないだろう。よその屋敷でやったら、間違いなくクビである。
「そこで、わたくしはルイス殿と契約をし、彼の元で人間としての暮らしを学ぶことにしたのです。ルイス殿は高位精霊を従えることができて、魔術師としての名に箔がつく。わたくしは人間の暮らしを学べる。互いに利益のある契約です」
確かに、高位精霊を従わせることができたら、間違いなく魔術師としての経歴に箔がつくだろう。だが……
(この屋敷に他の使用人がいない理由が、ようやく分かったわ)
くだんの高位精霊がこんなにもポンコツだとバレたら……周囲の落胆は想像に難くない。
ロザリーは深く長い息を吐くと、ちらりとリンを見た。
「ちなみに、これは完全に好奇心で訊くのだけど……あなたが恋した人間は、どこのどなた?」
「ルイス殿の姉弟子にあたる方です」
「…………、…………ちょっと待って」
精霊は基本的に無性である。男性の姿や女性の姿をしていることもあるが、それはあくまで地上の生き物の形を模しているだけで、基本的に性別という概念は無い。
つまり、変化をしようと思えば、男にでも女にでもなれるのである。
ロザリーは目の前に佇むリンの姿を改めて見直した。
すらりと華奢な体に、人形のように美しく整った顔。ルイスと並んでも見劣りしない絶世の美女……女性である。
(なんでその姿に変化しちゃったの? ……と訊いたら失礼かしら……失礼よね、多分……)
これ以上この話題に突っ込むのはやめておこう、とロザリーは結論づけた。