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【3:リィンズベルフィードの主張】

「ロザリー、馬車の手配が終わるまで、しばし寝ていてください」

 ルイスはロザリーにそう告げると、老医師のハウザーに目配せをして部屋を出た。察しの良いハウザーはロザリーが目を閉じたのを確認して、ルイスを追うように廊下を出る。

 廊下でハウザーを待っていたルイスは、人目を気にするようにさっと周囲に視線を走らせた。廊下の端の方では、吹き飛ばされた彼の弟子が目を回している。

 ルイスは短く呪文を唱えて消音の簡易結界を張った。これで二人の会話は誰かに聞かれる心配は無い。

「ハウザー先生、話を合わせてくださり、ありがとうございます」

 ルイスは品の良い笑みを浮かべて、丁寧に頭を下げる。

 ハウザーは温厚そうな顔に少しだけ苦い表情を浮かべて、口髭を弄った。

「……ロザリー君の転落事件は、もしかして……『選抜』と関係が?」

「まだ不明です。ですが、しばらくの間、ロザリーは『階段から落ちた』ということで口裏を合わせてください」

「……それは、ロザリー君のためかね? それとも……」

 君のためかね? という言葉を口にするのを躊躇っていると、ルイスは整った顔に美しい笑みを浮かべて答える。

「勿論、彼女のためですよ。記憶を失っている彼女を、不安がらせてはいけないでしょう?」

 いかにも婚約者のことを思いやっているかのような答えを、ハウザーは苦い気持ちで受け入れる。

 ハウザー自身、ロザリーに本当の事故の原因を伝えるべきか否か、判断に迷っていたからだ。

 ハウザーが無言で口髭を弄り続けていると、ルイスはパチンと指を鳴らした。途端に、二人を覆っていた消音の結界が消える。

 ……内緒話はここまで、ということか。

「それでは、馬車の手配をしてまいりますが……くれぐれも、ロザリーを一人にしないようにしてください。人手が必要なら、そこで寝転がっている、うちの馬鹿弟子を使って構いませんので」

 そう言って彼は細い顎をしゃくり、目を回している弟子に冷たい一瞥を投げかける。

 流石にそれは厳しすぎないかね、とハウザーが嗜めるように言えば、ルイスは鼻で笑って肩を竦めた。

「どうやらうちの馬鹿弟子は、訓練室に大穴開けて、庭にクレーターを作る程度には、魔力も体力も有り余っているらしいので。存分にこき使ってやってください。えぇ」

 どうやら魔法兵団の団長殿は元気が良すぎる弟子に手を焼いているらしい。



 * * *



 目の前にある馬車を見上げ、ロザリーは溜息を吐いた。

(……立派な馬車だわ)

 ルイスが手配した馬車は、王室御用達とまではいかないが、それでも充分に広さのある馬車だった。

 座席には、どこから集めてきたのかというほどクッションがふんだんに敷き詰められている。

 おかげで座り心地は良いけれど、少しばかりバランスがとりづらい。今のロザリーは、上半身を起こすことはできるが、その体勢のまま姿勢良く座るのは困難なのだ。

 そこでルイスがロザリーの横に座り、傾きそうになるロザリーの体を支えてくれた。

 ロザリーが遠慮がちにルイスの体にもたれれば、ルイスはニコリと微笑んでロザリーの手を握る。

 今のロザリーは病人に着せる質素なワンピースの上から、毛織りのストールを羽織っている。ルイスが用意させたストールは上物で温かいけれど、リディル王国の冬の寒さはストール一枚で凌げるものではない。

 ロザリーの指先が冷えていることに気付いたルイスは、マントを外してロザリーにかけてやると、空中で指先を動かして何やら詠唱を始めた。そうして仕上げにパチンと指を鳴らせば、馬車の隙間から入り込んでいた冷気がピタリとおさまる。

「……今の、結界?」

「えぇ、冷気を遮断するだけの簡単なものですが」

 結界を張る魔術自体はそれほど難しいものではない。それこそ魔法学校でも一番最初に教える、基礎の一つである。

 ただ、結界の規模、強度、持続時間は当然術者の力量に比例するし、緻密な条件を付与すれば難易度は飛躍的に上がる。なにより杖無しで扱うなら、熟練の腕前が必要になる……と、そこまで考えてロザリーはふと気がついた。

「あなた、杖は?」

 魔術師組合に正式に認定された魔術師は必ず杖を持っている筈である。まして、魔法兵団団長ともなれば、杖はトレードマークと言っても良いだろう。

 だが、ロザリーは目覚めてから一度も、彼が杖を握るところを見ていない。グレンを吹き飛ばす時も、彼は杖を使っていなかった。

「杖ですか? あぁ、執務室に置いてきました。貴女を支えるのに、杖など邪魔になるだけでしょう?」

 ……魔術師が、あっさりトレードマークを置いてきて良いのだろうか。

(まぁ、杖無しでこれだけ術が使えているのなら、確かに必要はないのかもしれないけど……)

 ルイスが杖に執着しないという事実に、何故かロザリーの胸はモヤモヤした。

(……私、苛々してる? ……なんで? 記憶を失う前は杖職人だったとか? ……いや、軍医だった)

 それからしばらく、ルイスはロザリーにあれこれ話しかけてきたが、ロザリーの返事はどこかぼんやりとしたものだった。

 自分の中にある知識を一つずつ再確認することに没頭していたロザリーにとって、ルイスの甘い睦言は優先順位の低いものでしかなかったからだ。



 * * *



 ルイスの屋敷は閑静な高級住宅街の一角にある、比較的新しい屋敷だった。

 馬車を降りたルイスは、ロザリーに手を貸しながら言う。

「小さい屋敷でしょう? 独り身なので、大きいだけの屋敷を建てるのも無駄だと思ったものですから。正直、これでも部屋を持て余しているぐらいなんですよ」

 小さいとは言うけれど、それでも周囲の屋敷と並べても何ら遜色の無い綺麗な屋敷だ。無駄な装飾が少なく、全体的に品良くまとまっている感じが、いかにも彼らしかった。

「……ご家族の方は?」

 いくら婚約者と言えど、いきなりこんな怪我人を連れて帰ったりしたら驚かないだろうか。

 不安に思っていると、ルイスはさらりと「家族はいません」と答えた。

「天涯孤独の身ですので」

「……不躾なことを訊いて、ごめんなさい」

 申し訳なさそうに謝れば、ルイスは穏やかに微笑んで首を横に振った。

「いいえ、貴女が私に興味を持ってくれて嬉しいですよ」

 ロザリーは俄かに苦笑した。正直、ルイスに興味を持ったわけではない。ただ、家族がいるなら迷惑にならないだろうかと気を遣っただけだ。

 それなのに、こんな些細なやりとりですらルイスは嬉しそうにしているものだから、ますますロザリーは居た堪れない。

 ルイスはごくごく自然な仕草でロザリーをエスコートしてくれた。ロザリーがよろめいた時に支えてくれる腕は、思いのほかしっかりしている。

 細身で女性的な美しさを持つ彼に対し、非力な魔術師という勝手なイメージを抱いていたことを、ロザリーは密かに反省した。

 門から屋敷までの距離はそれほど離れておらず、目に見える範囲で使用人の姿は無い。大きな屋敷だと、馬車が止まったらすぐに使用人が出てくるものだが、この屋敷はそれほど使用人が多くはないのだろう。

 ロザリーとしては、大勢に出迎えられるのは非常に居たたまれないので、この方がありがたかった。まして今は、寝間着同然の格好なのだ。

「静かな屋敷ね」

「私は王宮内で寝泊りすることが多いので、普段はあまりこちらに帰ってこないのですよ。だから、使用人は一人しかいないんです」

 そこで言葉を切り、ルイスは少しだけ苦々しげな顔で呟く。

「それも……まぁ、見習以下の駄メイドなのですが……」

 何やら不穏な単語が聞こえたような気がするのは、気のせいだろうか。

 やがてドアまで辿り着くと、ルイスは慣れた仕草でノッカーを叩いた。

「リン、いますか? 私です、扉を開けてください」

 リンというのは、さっき言っていた唯一の使用人のことだろう。

 さほど間を置かず、扉の向こう側から若い女の声が聞こえた。



「この屋敷の主は、このような早い時間に帰宅するほど暇人ではありません。よって、貴方をこの屋敷の主の名を騙った偽物と判断しました。すみやかに敷地内から撤退しなければ、武力をもって排除いたします」



 まさかの武力排除宣言に、ロザリーの思考が数秒ほど停止する。

 ルイスは深々と溜息を吐くと、目の前の扉を睨みつけた。

「黙りなさい馬鹿メイド。扉ごと吹っ飛ばされたくなければ、すぐに解錠なさい」

「その物騒かつ非常識な発言、この屋敷の主、ルイス=ミラー殿と同一人物とみなしました。解錠いたします」

 ギギィ、と重い音を立てて扉が開く。

 二人を出迎えたのは、二十代半ば程度のメイドだった。

 長い金髪をきっちりと編みこみ、露出の無いメイド服を一部の隙も無く完璧に着こなしている、絵に描いたようなクールビューティだ。

 女性にしては比較的背の高いロザリーより、更に頭一つ分背が高い。ルイスとほぼ同じか、もしかしたら彼よりも長身かもしれない。

 そのクールビューティは、ルイスとロザリーを交互に見ると、美しい顔に一切の表情を浮かべず、淡々と言い放った。

「日が暮れる前から若い女性をお持ち帰りですか。お盛んですね」

「彼女の怪我が見えていないのですか、アホメイド」

「怪我をして心身ともに弱り果てた女性を連れ込むとは流石はルイス殿。外道でいらっしゃる」

 とても屋敷の主人と使用人が交わす会話とは思えない。

 呆れているロザリーの視線に気づいたのか、ルイスは誤魔化すように咳払いをした。

「リン、彼女は私の婚約者のロザリーです。怪我の療養のために、しばらくこの屋敷で暮らすことになりました。くれぐれも失礼の無いように」

 リンと呼ばれたメイドは無駄の無い動きでロザリーに向き直り、静かにスカートの裾をつまんで一礼した。

「わたくし、この屋敷の『メイド長』のリィンズベルフィードと申します。どうぞ、リンとお呼び下さい」

 メイド長の一言に、やけに力がこもっている自己紹介である。

 ルイスが頭痛を堪えるように、額に手を当てて呻いた。

「お前はいつからメイド長に昇格したのです?」

「この屋敷に他の使用人がいない以上、私がメイド長です。メイド長……良い響きです」

「駄メイド風情が寝ぼけたことを」

 ルイスは苦々しげに吐き捨てたが、すぐにその苦々しげな顔を引っ込めると、品の良い笑みをロザリーに向けた。いっそ感心するような早技である。

「ロザリー、玄関は冷えますし、どうぞ中へ。我が家と思ってゆるりとお寛ぎくださいね」

「…………どうも」

 ルイスとリンの、とても主従とは思えないような会話に面食らっていたロザリーは、そう答えるのが精一杯だった。



 * * *



 屋敷の中は装飾こそ控えめだが、殺風景にならない程度に品良く調度品が揃えられていた。

 ロザリーが案内された客室も、装飾性よりも実用性に重点が置かれている。それでも一般家庭の客室と比べれば、段違いに豪華ではあるのだけど。

 ロザリーがベッドに横になると、ルイスはベッドサイドに椅子を持ってきて腰掛けた。

 できれば一人で静かに寝かせてほしいところだが、彼がいるのなら折角だし、今のうちに気になることを訊いておくのも良いかもしれない。

「あなたに訊きたいことがあるの」

「はい、なんでしょうか?」

 どことなく期待に満ちた目で身を乗り出すルイスに、ロザリーは告げた。


「私は貴族ではないけれど、それなりに裕福な家の娘で、兄弟姉妹のいずれかがいる。また、身内に優秀な魔術師がいる」


 ロザリーが痛む肋骨を押さえながら、そこまで一息に告げると、ルイスは驚いたように目を丸くした。

 そんな彼をベッドの上から見上げて、ロザリーは軽く首を傾ける。

「あっているかしら?」

「……そう思った理由は? まさか、記憶が戻って……」

 ルイスは俄かに動揺した様子を見せた。彼の反応を見る限り、ロザリーの言ったことは、当たらずとも遠からずといったところなのだろう。

 だがそれにしても気になるのはルイスの反応だ。

 もし、婚約者の記憶が戻ったら大袈裟に喜んでも良さそうなところだが、どういうわけか彼は険しい顔をしている。

 ルイスがそんな顔をする理由は分からないが、とりあえずロザリーは自分の推理を語って聞かせることにした。

「まず第一に、ハウザー先生は私が軍医だと言っていたわ。私が貴族の娘だったら軍医になることは、まずないでしょう」

 貴族の娘の中でも、女官として王宮に勤める者はいるが、軍医になる者は稀だ。貴族の子女である可能性は排除して良いだろう。

「ただ、私の家が困窮していたかというとそうでもない。私の下着、上物のモスリンだったから」

 ロザリーが事故にあった時に着ていた服は着替えさせられているが、下着は取り替えていない筈だ。

 困窮している人間だったら、下着に金をかけたりはしない。だから、ロザリーは自分が中上流家庭の家の人間だと推理した。

 だが、この推理にどういうわけかルイスは、しょっぱい顔をする。

「……ロザリー、あのですね、仮にもあなた婚約者の前で…………まだ見たこともないのに……」

「……?」

「いえ、なんでもないです。続けてください」

 ルイスは何かを諦めたような顔で首を横に振る。

 はて、自分は何か気に触るようなことを言っただろうか、と不思議に思いつつ、ロザリーは言葉を続けた。

「私の記憶喪失だけど、どうやら専門知識の類は忘れていないみたいなの」

 ロザリーの記憶喪失は、あくまで人間関係に限定されているようだった。

 例えば、ロザリーの中には医師としての知識がある。手術の手順も思い出せる。だが、それをどこで誰に学んだかが思い出せない。

 「知識」はあるが、それに付随する「思い出」が失われている状態だ。

 だから、帰りの馬車の中でロザリーは自分がどの分野の専門知識をどの程度知っているか、一つずつ確認していた。

 その結果分かったことは……

「私には魔術に関する知識と、医学に関する知識があった。どちらもかじった程度ではなく、それなりの機関で専門的に学んだ知識でしょうね……ただ、魔術に関する知識があるのに、私は魔術師にはならなかった」

 恐らく、才能が無かったのだろう。魔術師になるには、まず何よりも一定量の魔力を持っていることが条件となる。そして、ロザリーには魔術師になるだけの魔力は無い。

「才能が無いのに、魔法を学ぶ機関に通っていたということは、身内に優秀な魔術師がいて、その後継に望まれていた可能性が高い。けれど、私には才能が無かった。だから医学の分野に転向した」

「……兄弟姉妹がいる、というのは?」

「私の両親はカズルに住んでるとハウザー先生は言ってたわ。カズルはここから馬車で二日はかかる。私が一人娘なら、大抵の親は実家から離れた場所で軍医なんてやらせないでしょう。だから、私には兄弟姉妹のいずれかがいて、両親の後継者として決まっている。私は才能が無かったから、両親に見放されたと考えるのが妥当だわ」

 淡々と自分の推理を語って聞かせれば、ルイスは苦い顔で笑った。

 その表情を見て理解する。

(……あぁ、私が両親に見放されているのは、本当なのね)

 不思議とそれほどショックは無かった。

 悲しむべきところなのだろうと分かってはいるのだが、なにぶん両親の顔を思い出せないと、悲しみに実感が伴わない。

 ルイスがふぅっと息を吐く。

「……概ね正解とだけ、申し上げておきましょう。ただ二点、訂正しなくてはいけませんね。まず第一に、貴女のお父上は爵位をお持ちです」

「え?」

 爵位がある、ということはロザリーは貴族の娘ということになる。

 だが、自分が貴族の娘であることにロザリーはどうにも違和感があった。自分の中に社交界の作法に関する知識が殆どないのだ。

 なによりロザリーはこのルイスの屋敷を見た時に、ひどくホッとした。

 清潔で綺麗な屋敷だが、腰が引けるほどの大豪邸ではない、という事実に。

 だから、きっと自分は貴族ではないが、そこそこ裕福な家の生まれなのだろうとロザリーは思っていた。

(私が、貴族の娘?)

 違和感にロザリーが唸っていると、ルイスはあっさりと答えを提示した。

「魔法伯、と言えば分かりますか?」

「……!」

 その一言で、ロザリーは自分が置かれていた環境を一気に理解した。



 リディル王国では、高い魔力を持ち、優れた魔法技術で国に貢献した者に「七賢人」という位が与えられる。いわば国内魔術師のトップとも言うべき存在だ。

 七賢人になった者には「魔法伯」という特別な爵位が与えられ、ある程度内政に関与することもできる。

 この魔法伯という爵位は、伯爵に相当する者だが、領地は与えられず、また基本的に一代限りしか名乗ることができない。いわゆる「土地無し貴族」というやつだ。

 だから、領地からの税収はないし、子ども達は爵位を継承することはできない。

(……なるほど、それなら私が軍医になったことも頷けるわ)

 通常の伯爵家令嬢と違い、ロザリーは父が七賢人の座を降りたら伯爵令嬢を名乗ることはできない。

 だからこそ、ロザリーは職を得る必要があったのだ。軍医になることを親が認めたのも、そのためだろう。

「貴女のお父上は〈治水の魔術師〉と呼ばれている方で、水の魔術のエキスパートです。国内の治水・浄水事業の分野に大きく貢献した功績が認められ、七賢人に選ばれました」

「……まさかと思うけど、あなたも七賢人?」

「いいえ、違いますよ。今はまだ……ね」

 含みのある言い方は、いずれは七賢人の座に就くつもりということだろうか。魔法兵団の団長クラスなら、まぁ不思議ではないだろう。ルイスはそれだけ優秀な人間なのだ。

(……私とは、全然違う)

 父が、王国の魔術師の頂点に立つ者の一人だったというのなら、さぞロザリーに失望したことだろう。

 魔力の量や質は高確率で遺伝すると言われている。故に、魔術の名家は魔術師としての名を、一族の中で最も優秀な者が代々継承していき、魔法伯の地位を維持しているのだ。

 もし、ロザリーが父に匹敵するだけの才能があれば〈治水の魔術師〉の名を継承して、魔法伯の地位を維持することができたかもしれない。

「それと、二つ目の訂正を」

 ルイスは気落ちするロザリーの顔を覗きこみ、優しい笑みを浮かべた。

「あなたは、お父上に見捨てられてなんていません。あなたのお父上……〈治水の魔術師〉殿は少々気難しく口下手なお方ですが、間違いなくあなたのことを大事にしておられます」

 ロザリーはその言葉をどうにもすんなりと受け入れることができなかった。

 きっと、ルイスはロザリーが気落ちしていることを察して、ロザリーを励ますようなことを言ってくれたのだ。

 ふぅっと息を吐くと、頭の奥がギシギシと軋むように痛んだ。

 ロザリーはその痛みを表情に出さず、ただ目を閉じる。

「ごめんなさい、疲れたからもう寝るわ……人がいると眠れないの。一人にしてもらえる?」

 返事の代わりに瞼に柔らかな何かが触れた。

 手袋をした手が、ロザリーの頬にかかる髪をさっとはらう。

「おやすみなさい、ロザリー」

 優しく労るような声がロザリーにそう告げた。

 やがて彼の足音は少しずつ遠ざかっていき、パタンと扉が閉ざされる。

 そうして室内が完全に沈黙したのを確かめてから、ロザリーは目を閉じたまま口を開いた。


「……私はロザリー・ヴェルデ、二十五歳、軍医、七賢人が一人〈治水の魔術師〉の娘で、魔法兵団団長ルイス・ミラーの婚約者……」


 目覚めてから知り得た自分に関する情報を、ロザリーは一つずつ声に出して呟く。

 ……そうすることで、自分に言い聞かせるかのように。

 それでもロザリーはどうしても「私は父に愛されている」と口にすることができなかった。どうしても、自信がなかったのだ。

 ふとロザリーは、帰りの馬車の出来事を思い出す。

 杖に頓着しないルイスに、ロザリーは腹を立てた。あの時は何故、自分があんなにも苛々しているのかと不思議だったが、今なら分かる気がする。

 杖は魔術師試験に合格した者しか貰えない、一人前の魔術師の証……それはきっと、かつてロザリーが諦めた物だ。


(私はきっと……彼に嫉妬したんだわ)



 * * *



 ロザリーの部屋を出たルイスは、廊下の掃除をしているリンを呼び止めると、銀貨を数枚取り出してリンに握らせる。

「これでロザリーの着替えを用意なさい」

 リンは銀貨とルイスの顔を交互に見ると、美しい顔に一切の表情を浮かべずに言った。

「下着は上物のモスリンですね」

「盗み聞きとは、いい身分だな駄メイド」

 ルイスが笑顔のまま舌打ちをして低く呻けば、リンはやはり顔色一つ変えずにしれっと答えた。

「メイドとは目敏く耳聡いものです故」

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