【20:ロザリー・ヴェルデの追憶】
ロザリーは七賢人の娘ということもあり、ミネルヴァに入学した当初は注目されていたが、魔力量の少なさ故にすぐに周囲は彼女に見向きしなくなった。
七賢人には魔法伯という爵位が与えられるため、ロザリーは伯爵令嬢という位置づけになる。だが、社交界と無縁のロザリーは貴族階級の人間とは話が合わなかったし、平民出身の生徒は伯爵令嬢には話しかけづらいと敬遠する。
だから、ロザリーはいつも一人だったが、そのことに不満はなかった。
一人で静かに黙々と勉強をしているのが、ロザリーの性に合っていたのだ。
他に趣味もなく、ただ黙々と勉強を続けたおかげで、座学の成績は良かった。だが、実技はどうしたって、他の者には追いつかない。
幼少期、父がロザリーの魔術修行を見てくれたことがある。
だが、父はいつまでたっても魔術を発動させることのできないロザリーを見て、失望の溜息を吐いた。
「そんなことも、できないのか」
父は長々と説教したりはせず、たった一言そう言い捨てて、それっきりロザリーの魔術の練習を見てくれることはなくなった。
あの短い一言は、もうずっと長いことロザリーの胸に刺さったまま、抜けないでいる。
だから、ロザリーは必死になって勉強した。沢山勉強をして立派な魔術師になれば、父をがっかりさせずに済むと思って。
だが、どんなに勉強ができても、術の一つもろくに使えないのではお話にならない。
魔術師には、おおまかに分けて二つのタイプがいる。実践タイプと研究者タイプだ。
前者は魔法戦を得意とする者が多く、魔法兵団に入団したり、或いはフリーの魔術師として生計を立てたりする。
後者は主に魔術式の開発や、付加魔術を使った魔道具作りなど、研究が主となる。
ロザリーは後者を目指すつもりだが、魔術研究者になるには最低でも初級魔術師資格が必要だ。正直、ロザリーの魔力では初級魔術師になることすら難しい。
それでもロザリーは、魔術に携わる道を外れることが恐ろしかった。
ロザリーは七賢人〈治水の魔術師〉バードランド・ヴェルデの娘だから。だから、自分には魔術の道しかないのだと言い聞かせ、彼女は勉強に明け暮れていた。
「隣、いいか」
ボソッと低い声で話しかけられ、図書室で勉強していたロザリーは教本から顔を持ち上げた。
ロザリーのすぐそばに佇んでいるのは、クラスメイトのルイス・ミラー。
教師が舌を巻くほどの才能を持ちながら、素行が悪いことでも有名な少年だ。
先輩相手に殴り合いをしたとか、魔法戦でクラスメイトを全員ねじ伏せたとか、寮に酒を持ち込んでいるとか。とにかく悪い噂が絶えない。
だが、ロザリーに声をかけたルイスは手に教本を持っていた。ただ勉強をしに来ただけらしい。
空いている席はロザリーの隣以外にもあったが、周囲の者はルイスのことを恐ろしいものを見るような目で見ている。中には露骨に敵意を剥き出しにしている者もいた。
あれではさぞ居心地が悪かろうと、ロザリーは自分の隣の椅子を引く。
どうぞ、と告げれば、ルイスは短く礼を言って椅子に座った。足を広げた、いかにも男の子らしい粗野な座り方が、小柄で華奢な容姿に不釣り合いで少し面白い。
ルイスが読んでいるのは、基礎教養科目の教本だった。
ミネルヴァは魔術教育の専門機関だが、一般的な教養科目も必須となっている。内容は主に算術や隣国の言語、国の歴史などで、ロザリーは初等学校時代に一通り学んでいた。
基本的に貴族の子や、初等学校のある町の出身者なら、基礎教養科目はさほど苦労はしない。だが、ルイス・ミラーは鼻の頭に皺を寄せて、歴代国王の名前を睨みつけていた。
「……歴代国王全員、同じ名前に改名しちまえ、クソが」
ルイスがボソリとそう呟くのが聞こえて、ロザリーは思わずふきだした。
しまった、と顔を上げれば、ルイスは机に頬杖をついて、ロザリーを見ている。
ロザリーは仕方なく、司書に注意されない程度の小声で言った。
「……不敬罪で捕まるわよ」
「くだらねぇ政策ぶちまけるより、よっぽど国民に感謝されるぜ。あぁ、我々の国王様はなんて覚えやすい名前なのでしょう、ってな」
北国訛りの言葉で吐き捨てるルイスに、ロザリーは口を手で覆い、笑いを隠す。
ルイス・ミラーは魔術の分野においては天才児だが、一般教養の分野においては壊滅的な成績だったと聞く。なんでも故郷は貧しい寒村で、一般教養を学ぶ学校の類が無かったらしい。
「歴代国王の政策については、分かりやすく一覧にした本があるわ」
ロザリーは立ち上がり、本棚から目当ての本を手に取ると、ルイスに差し出す。
「これを読むと、整理しやすいと思う」
ルイスは長い睫毛をパチパチと上下させてロザリーを見上げていた。
もしかして余計なことをしただろうか、とロザリーが戸惑っていると、ルイスはロザリーの手から本を受け取る。
そうして彼は、もごもごと口の中で小さく礼を言った。
その日から、ロザリーとルイスの交流が始まった。
最初の内はルイスがロザリーに授業の分からない部分を聞く、という程度のものだったが、雑談も交わすようになれば彼の人柄も見えてくる。
ルイス・ミラーは売られた喧嘩は絶対に買うし、勝負事は絶対に勝たねば気が済まない負けず嫌いで、だからこそ誰よりも勤勉で努力家だった。
後に、この国の第一王子であるライオネルが編入してくると、ライオネルはルイスの率直さを気に入り、ロザリーも交えて三人で勉強をするようになった。
魔術式を前に「分からん」と頭を抱えるライオネルに、ルイスが口を出し、ロザリーがそれをフォローをし……そうやって過ごす時間は、ロザリーにとって何よりも得難い大切な時間だった。
ルイスは世辞の類が嫌いで、いつも率直な物言いをする人だ。だからこそ、そんな彼が飾らない言葉で褒めてくれると、ロザリーは柄でもなく舞い上がったりもした。
「お前は七賢人の娘とか関係なしに、すごい女だ。この俺が認めるんだ、間違いない」
ルイスのその言葉が背中を押してくれたから、ロザリーは魔術師としての道を断念し、新しい道へ進む決断ができたのだ。
* * *
ミネルヴァを去る前日の夜、ロザリーは一人で荷物をまとめていた。
ミネルヴァの寮は基本的に二人一部屋なのだが、ロザリーのルームメイトは少し前に帰省している。だから、ロザリーが自分の荷物をまとめてしまうと、寮の自室は酷く素っ気なく、ガランとしていた。
明日、ロザリーは大都市カズルの実家に帰る。そして、医学学校入学の準備をするのだ。
医学学校とミネルヴァは気軽に行き来できるような距離ではない。きっと、ルイスと会う機会も少なくなるだろう。
最後に自分の気持ちを伝えるべきだろうか……そんな考えが頭をよぎる。
(これからミネルヴァを去る私が想いを伝えたところで……そんなのは自己満足だわ)
ゆるゆると首を振って、忘れ物が無いか部屋を見回したロザリーは、コンコンというノック音に気づいた。
音が聞こえるのは扉とは反対側……窓だ。
「……えっ」
音の方に目を向けたロザリーはギョッとした。窓枠にルイスが腰掛けている。
ロザリーが窓に駆け寄って鍵を外すと、ルイスは勝手に窓を開けて中に入ってきた。
「あなた、なんで……」
口をパクパクさせるロザリーの唇にルイスは人差し指を当てて、しぃっと囁く。
「こういう時のために飛行魔術を覚えた甲斐があったぜ」
不純な動機ね、とロザリーが呟けば、ルイスはロザリーの唇を親指でついっとなぞった。
いつもとは違う触れ方に、ロザリーの背筋が甘く痺れる。
「……ルイ、ス」
自分が見下ろされるぐらいに身長差が開いていたことにロザリーは今更気がついた。出会ったばかりの頃は、そんなに変わらなかったのに。
ロザリーを見下ろす灰紫の目は、熱っぽく潤んでいる。ロザリーがコクリと唾を飲むと、ルイスの手がロザリーの腰を抱き寄せた。触れられた箇所が熱を帯びていく。体が、羞恥に火照る。
「嫌だったら、拒んでくれ」
掠れた声がロザリーの耳元で囁いた。
ロザリーは唇をキュッと噛み締めると、おずおずと躊躇いがちにルイスの背中に手を回す。
……それが、精一杯の返事だった。
二人の唇が重なる。甘く唇を吸われて、ロザリーの背中が跳ねる。未知の感覚に背中がピリピリと痺れる。
顔を真っ赤にして苦しげな呼吸をするロザリーを、ルイスはそっと寝台に横たえた。
「……お前が、好きだ」
私も、と消えそうな声で返せば、ルイスはニィッと八重歯を見せて笑った。
ルイスの手がロザリーのブラウスのボタンを外す。あかぎれの目立つカサついた指が、肌を撫でる。
ロザリーはその手を拒まず、最後まで彼を受け入れた。
* * *
実家に戻ったロザリーは、一心不乱に勉強し医学の道へと進んでいった。
いつかまたルイスと会ったら、胸を張れる自分であるために。
そうして医学学校を卒業し、王国騎士団付きの軍医になってしばらく経った頃、多忙を理由に会っていなかった父から連絡がきた。
「お前の婚約者を紹介する」
なんて勝手な発言だろう。
腹を立てたロザリーは、父の前でその婚約者を振ってやるつもりでいた。
だが、顔合わせの場に現れたのは……
「久しぶりです、ロザリー」
それは、北国訛りなんて微塵も感じられない美しい発音だった。
艶やかな栗毛はきちんと編まれ、身に付けた服は皺一つなく、ブーツはピカピカに磨かれている。
パサパサの短い髪も、悪戯小僧みたいに八重歯を見せる笑い方も、北国訛りの素っ気ない喋り方も……ロザリーの好きだった姿は見る影もなく、ただただお綺麗で上品なだけの男がそこにいる。
(……なんで…………なんでよ)
混乱するロザリーに、父は淡々と彼のことを紹介する。
「ルイス・ミラー魔法兵団団長だ。私は近い内に七賢人を引退するので、彼を後任に推薦しようと思っている」
「……七賢人、に?」
いつだったかルイスが言っていた言葉がロザリーの頭をよぎる。
──七賢人なんぞになりたがる奴の気がしれないな。貴族に媚び売ってまでなりたいか?
あんなモン、と貴族や権力が大嫌いな彼は鼻で笑っていた。
先輩だろうが、教師だろうが、王族だろうが、誰にも媚びない孤高の人だった。
いずれはフリーの魔術師として独立するのだと、そう言っていたのに。
(本当は、七賢人になりたかったの?)
(魔法伯の……貴族の位が欲しかったの?)
(……あの時、私を抱いたのは、この時のためだったの?)
変わり果てたルイス・ミラーの姿は、ロザリーの心の支えだった初恋の少年の言葉を汚すには充分すぎた。
足元が崩れ落ちていくような感覚がする。
いっそ、怒り狂って彼を拒絶できたらいいのに。お上品に振る舞い、貴族の顔色をうかがう彼なんて、これっぽっちも好みではないのに。
……それなのに、ことあるごとに、あの快活に笑う少年の面影がチラついて、ロザリーは婚約を拒むことができなかった。




