【18:アドルフ・ファロンの提案】
魔法兵団の詰所を早足で出たロザリーは、荒い息を吐くとそのままズルズルと壁にもたれた。
「…………痛い」
ズクズクと熱をもって疼く肩を反対の手で押さえ、ロザリーはきつく目を閉じる。
そうして、自分が唯一思い出した人の声を、頭の奥で何度も何度も再生した……初恋の人の、ぶっきらぼうな口調を。
──ロザリー
誰に対しても愛想のない人だった。ぶっきらぼうで、口数が少なくて、つっけんどんで……でもそれは全部、北国訛りを隠すためのもの。
ミネルヴァの生徒は貴族の人間が多かったから、平民出身の特待生だった彼は、いつも嫌がらせをされていた。それでも彼は逆境を跳ねのけて、常にトップの成績をおさめ続けた。
七賢人の娘でありながら、何の才能も無かった自分とは正反対だ……そう自嘲するロザリーに、彼は言ってくれた。お前はすごいやつだ、と。
彼の言葉は、何の才能もなかったロザリーを奮い立たせてくれた。
(……会いたい)
ロザリーは両手で顔を覆って項垂れる。
魔術師の道を断念し、医師としての勉強を始めてからも、ずっとずっと……ロザリーは彼に会いたかった。
北国訛りのぶっきらぼうな喋り方も、パサパサの髪を揺らし、白い歯を見せて快活に笑う顔も、ちょっと荒っぽい手つきで頭を撫でる癖も、全部全部好きだったのだ。
霞がかっていた記憶が次第に明確になってくるけれど、どうしても思い出すのはあの人のことばかり。
特に最近のことを思い出そうとすると、頭が軋むように痛い。
(……どうして私は、ルイス・ミラーとの婚約を受け入れたんだろう)
こんなにも好きな人がいるのに。会いたくて、会いたくて、仕方がないのに。
どうして、ルイスに婚約の破棄を告げた時、あんなにも胸が痛んだのだろう。
(……ルイス・ミラーは私を愛してない。私も彼を愛していない。なら、何も問題もないじゃない)
ロザリーは目尻に滲む涙をぐいと拭って立ち上がる。
とうに日は落ちて、外は真っ暗だ。自分が住んでいた場所のことは思い出せないし、ルイスの家には戻りたくない。それならば、騎士団の医務室のベッドを借りるのが一番だろう。宿直の人間が誰かしらいるはずだし、頼めば一晩ぐらいは休ませてもらえるかもしれない。
羽織っていたストールを巻き直し、歩きだしたロザリーは、門を抜けたところで足を止めた。誰かが暗闇の中佇んでこちらを見ている。
ロザリーと同年代の黒髪の男性だ。ローブを羽織り杖を持っているから、魔術師なのだろう。ただ、魔法兵団の制服とは違う。
「よぉ、ロザリー。久しぶりだな」
男は片手を持ち上げて、きさくに話しかける。
だが、ロザリーは彼が誰かを思い出せない。なんと答えるべきか躊躇っていると、男は距離を詰めてロザリーの顔を覗きこんだ。
「おいおい、忘れちまったのかよ。オレだよ、オレ。アドルフ・ファロンだよ。ミネルヴァで同級生だった……」
ミネルヴァの同級生。その一言に、ロザリーはハッと顔を上げてアドルフを見上げた。
少し斜に構えた態度は、記憶の中の少年と微かに似ている気がしないでもない。
早鐘を打つ胸をストールの上からギュッと押さえて、ロザリーは慎重に言葉を選んだ。
「私……その、頭を打ったせいで、記憶障害を起こしていて、あなたのことも思い出せないの。ごめんなさい」
「記憶障害? もしかして……屋上から落ちたアレか?」
ロザリーがコクリと頷くと、アドルフは驚いたような顔でロザリーをまじまじと見つめた。
ロザリーもまた、アドルフの身なりをこっそり観察する。
汚れの目立つブーツに、擦り切れるまで着古したローブ。貴族らしからぬ装いだ……記憶の中のあの少年も、そうだった。
(もしかして、彼が……)
あなたが〈ミネルヴァの悪童〉なの? ……その言葉をロザリーが口にするより早く、アドルフが咳払いをする。
「じっとしてると冷えるし、少し歩こうぜ」
「……そうね」
アドルフに促され、ロザリーはゆっくりと歩きだす。
アドルフはロザリーの顔をまじまじと無遠慮に眺めながら言った。
「お前、最近のことも覚えてないのか?」
「えぇ。転落事件の前のことは、何も」
「……へぇ」
ロザリーはアドルフの言葉に耳を澄ませた。
今のところ、あの懐かしい北国訛りは聞こえない……が、訛りなんて、いくらでも誤魔化せるものだ。
「じゃあ、お前は、ルイス・ミラーのことも覚えてないのか?」
ルイスの名前にロザリーはギクリと肩を震わせた。
……ロザリーのことなど好きでもないくせに、甘ったるい言葉で繋ぎ止めて、七賢人になろうとした男。
あのいかにも上流階級の人間らしい気取った話し方も、洗練された美しい容姿も、何もかもがロザリーの気に障る。
思い出すだけで腹が立ってきて、ロザリーは苦い声で吐き捨てた。
「私の婚約者だったらしいわね……さっき、婚約破棄を宣言してきたけど」
「婚約破棄? へぇ……」
アドルフはロザリーの手首を掴んで引き止めると、口の端を持ち上げるようにして笑った。
(私は、この笑い方を知っている)
だが、それは初恋のあの少年のものだっただろうか?
確信が持てず戸惑うロザリーに、アドルフは顔を近づける。
「……だったら、オレにしとけよ」
その言葉が何を意味するか分からないほど、ロザリーも鈍感ではない。
アドルフの腕が、冷えたロザリーの体を抱き寄せる。
「オレ、ずっとお前のことが……」
視界の端で、夜の闇に溶けるようなアドルフの黒髪がちらつく。
……違う。
あの人の髪は、もっともっと明るい色だった。パサパサに痛んだ髪は光を受けるとキラキラと反射して、それがロザリーは好きだった。
ロザリーが恋した人は、黒髪ではない。
「待っ、て」
ロザリーは辛うじて動く左手で、アドルフの胸を押し返そうとした。だが、アドルフはよりいっそう強い力でロザリーを抱き込む。
肩の怪我が痛んで、ロザリーは苦しげに呻いた。だが、アドルフはロザリーの様子などお構いなしに言い募る。
「なぁ、オレと婚約しろよ。ロザリー。そうすれば……」
「『そうすれば、七賢人の座はオレのもの』…………ですか?」
真冬の空気よりも冷ややかなその声は、頭上から聞こえた。
アドルフに抱きすくめられたまま空を見上げたロザリーは、夜空を背景にこちらを見下ろすルイスの姿を見つける。
ルイスは手にしていた杖を軽く一振りすると、ロザリーとアドルフから数歩離れた地面に着地した。
そして、片眼鏡をクイッと持ち上げ、酷薄に笑う。
「ファロン男爵家の人間が人の婚約者に手を出した……などと知れたら、あなたのお父上はどう思うでしょうねぇ、アドルフ・ファロン」
ルイスの言葉にアドルフは、忌々しげな顔で舌打ちをする。
ロザリーは思わず目を丸くしてアドルフを凝視した。
「あなたは……貴族、なの?」
あまり裕福な身なりには見えなかったし、言葉遣いも乱暴だから、てっきり平民だとばかり思っていた。
驚くロザリーに、ルイスが軽く肩をすくめる。
「アドルフ・ファロンは、没落寸前のファロン男爵家の三男坊ですよ。学生時代はまだ裕福で、それはそれは羽振りが良かったんですけどねぇ。今ではすっかり落ちぶれて……」
嫌味たっぷりのルイスに、アドルフは歯軋りをしてルイスを睨む。
「うるっせぇんだよ、ルイス・ミラー。昔っから、オレにたてつきやがって」
「言葉は正しく使っていただけますか? あなたが性懲りもなく私に喧嘩を売ってきたのでしょう? ……私の足元にも及ばぬほど弱い癖に」
アドルフは抱きすくめていたロザリーを突き飛ばし、杖をルイスに向ける。
そして彼は、痛みに呻くロザリーなどには目もくれず、怒りに顔を歪めて怒鳴った。
「調子に乗るなよ、ルイス・ミラー! 今のお前は魔力なんて殆ど残っていないはずだ! 何せ、日中の魔法戦で殆ど使い果たしちまったもんなぁ! さっきの飛行魔術で魔力は底を突いたんだろ!?」
「それが何か?」
美しく微笑んだまま首を傾げてみせるルイスに、アドルフは杖を突きつける。
「魔法が使えないお前なんて、オレの敵じゃねぇんだよ!」
アドルフが早口で何かを唱えると、彼の杖が淡く発光し、周囲に風が巻き起こる。
「……死ねっ、ルイス!」
怒声と共に、風の刃がギロチンの如く振り下ろされる。
だが、ルイスは顔色一つ変えずにマントを外すと、それを目の前で広げてみせた。
大きく広がったマントがアドルフの視界を占め、マントの影からルイスの杖が真っすぐに飛んでくる。
「はっ、杖を投げて、せめてもの抵抗ってか!」
アドルフは嘲笑いながら、風の刃でルイスの杖を叩き落とす。そして、目の前に広がるマントごとルイスを風の刃でズタズタに引き裂いた……つもりだった。
だが、散り散りになったマントの残骸の向こう側に、ルイスの姿はない。
「──っ!?」
目を見開き立ち尽くすアドルフの肩を、白い手袋をした手がポンと叩いた。
「のろま」
マントで目眩しをしている隙にアドルフの背後に回りこんでいたルイスは、美しくも邪悪に微笑み……アドルフの鼻っ面に拳を叩きこんだ。
「……っぶ!?」
鼻血を撒き散らして地面に倒れるアドルフの鳩尾に、ルイスは容赦なくブーツの踵を振り下ろす。
「ぐぼぉっ!? ぐっ、ぅぇぇぇ……っ」
空気の塊を吐き出して呻くアドルフの腹をグリグリと踏みにじり、ルイスは唇を三日月のように吊り上げて笑う。
「魔法戦なんて、まどろっこしいのですよ。目眩しして距離詰めてぶん殴る方が、手っ取り早いではありませんか」
とても魔術師とは思えないようなことを言い放ち、ルイスは白い手袋に覆われた指をパキポキと鳴らした。
「さて、少しお話をしましょうか。アドルフ・ファロン。お前が犯した罪についての話です」
「な、なんの、こと……っぐぇっ」
ヒィヒィと苦しげな呼吸をするアドルフの腹に踵を捻じ込み、ルイスは低い声で告げた。
「ロザリーを突き落としたのは、お前ですね? 〈風の手の魔術師〉アドルフ・ファロン」




