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【1:ロザリー・ヴェルデの喪失】

 落ちる。


 宙に投げ出された四肢を動かすことすらできなかった。

 仰向けのまま落ちる彼女の視界に映るのは、灰色の空をチラつく白い雪。

 耳に届くのは、ごぅごぅという風の音と、服の裾がはためく音。

 それをどこか遠くのことのように聞きながら、彼女はぼんやりと考える。


(あぁ、どうして私は、いつも上手くやれないのだろう)


 ぐしゃり。


 何かが潰れる音、折れる音、砕ける音。

 何かが壊れた、音。


 痛みで遠くなる意識の奥で、走馬灯のように数々の記憶がよぎる。

 傷口から血が溢れるように、様々な思い出が、鈍い痛みを伴って溢れ出す。


『どうして、お前は…………すら、できないんだ』

『彼女が……でなければ、相手になんかしませんよ』

『……酷いね、…………』


 今まで彼女を傷つけてきた言葉は、何度でも傷口を抉る。

 どうして、死に際の思い出が辛い思い出ばかりなのだろう。

 楽しいことだってたくさんあったはずなのに、耳に蘇るのは嘲るような笑い声や、彼女を責める声ばかり。


(どうして、どうして、どうして……)


 あぁ、どうしてなんて、言うまでもない。全部×××のせいだ。

 脳裏に思い浮かぶのは、全ての元凶の×××。

 なのに、その名前が出てこない。

 憎らしいその姿も、髪の色も、目の色も、あんなにハッキリと思い描けたはずなのに、酷くボヤけている。まるで、水に溶かした絵のように。



 ──思い出しちゃ、駄目。


 誰かの手が、そっと彼女の眼を塞ぐ。


 ──思い出しちゃ、駄目。


 誰かの声が、念を押すように繰り返す。

 その声を聞きながら、彼女は意識を手放した。



 * * *



 白い光と黒い影。それが、眼を覚ました彼女が最初に眼にしたものだった。

 数回瞬きをすると、白と黒だけの世界に少しずつ色がついていく。

 水に溶かした絵画みたいにぼんやりとしていた風景は次第に輪郭を取り戻し、そして一人の男の姿が浮かび上がる。

 誰かが彼女をじっと見下ろしていた。

 年齢は二十代前半ぐらいだろうか。艶やかな栗毛を三つ編みにして垂らした細身の男だ。

 右目に片眼鏡をかけており、レンズの奥の目は灰色に紫を一滴混ぜたような不思議な色をしている。その美しい目が驚いたように見開かれ、形の良い唇が小さく震えて言葉を紡いだ。

「ロザリー」

 紫がかった瞳に、涙の膜が薄く張る。長いまつ毛がゆっくりと上下すれば、涙の膜は決壊し、小さな雫となって、片眼鏡のレンズと彼女の頬にぽたりと落ちた。

「ロザリー、あぁ、良かった……」

 男は白い手袋に覆われた手で、彼女の頬をそっと撫でた。まるで、壊れやすい硝子細工にでも触れるかのように。

 それがくすぐったくて顔をしかめると、ピリ、と皮膚が引き攣るような感覚があった。どうやら彼女の顔は半分ぐらいが包帯に覆われているらしい。

 声を出そうとして、自分が酷く喉が渇いていることに気がついた。口を閉じて唾液を飲み込む。

(……良かった。ちゃんと唾液を飲み込める。口腔や顎に大きな異常は無いみたい)

 ただ、舌で口の中をなぞると僅かに痛む部位があった。恐らく、口の中が少しばかり切れているのだろう。それでも、全体的に酷い体の怪我と比べれば軽いものである。

 自身の口腔の状態を確かめるために口をもごもごさせていると、男は長い睫毛を伏せて、涙の雫で濡れた片眼鏡を外してハンカチでサッと拭った。

 たったそれだけの仕草すら絵になる美しい男だ。ほっそりとした白い顔は端正に整っていて、どこか女性的ですらある。

 男がゆっくりと持ち上げた睫毛には、僅かに涙の粒が付いていた。

「……貴女が……もう眼を覚まさないのではと…………本当に良かった……」

 そう囁く声は酷く掠れて、震えていた。それだけで、彼が彼女のことを心配していたということが伝わってくる。

 彼女は少しだけ申し訳ない気持ちになりつつ、目だけを動かして周囲を観察した。

 ベッドの周囲は白いカーテンで仕切られていて、周りの状況が分からない。ただ、消毒液の匂いがするから、きっとここは診察所か、あるいは何らかの施設に付属する医務室のような場所なのだろう。

(……私は、どうしてこんな所で寝ているの?)

 ここに至るまでの経緯を思い出そうとすると、不意に頭が強く痛んだ。ズクズクと疼くような鈍い痛みと、錐で刺したような鋭い痛みが交互に頭を揺さぶる。

 患部に触ろうと無意識に手を伸ばすと、右肩に目が眩むほどの激痛が走った。

「……っ、ぐぅ!?」

 痛みに身じろぎすると、今度は右の肋骨に激痛。あまりの痛みに息が止まり、目に涙が滲む。

 歯を食いしばって痛みに耐えていると、力無くベッドに落ちた彼女の手を、栗毛の男がそっと包み込むように握った。

「あんな所から落ちたんです。まだ、動いてはいけません」

 ……あんな所? 落ちた?

 痛みにふぅふぅと呻きながら、彼女は無言で男を見上げる。

 男は痛ましげに顔を歪めて、ゆるゆると首を横に振った。

「貴女が落ちたと聞いた時、心臓が止まるかと思いました……どうかこれ以上、私の寿命を縮めないでください」

 この場合、寿命が縮んだのは間違いなく怪我をした彼女自身であろう。これだけの怪我は、一生の内でそうそう経験できるものではない。

(……なんで、あなたの寿命が縮むのよ)

 そんな心の声は、訝しげな表情となって顔に出ていたらしい。

 青年は細い眉毛を少しだけしかめて、ムッとしたように彼女を睨んだ。

「私が貴女の心配をしてはおかしいですか、ロザリー?」

「……ロザリーというのは、私のこと?」

 先程からずっと疑問に思っていたことを口にすれば、男は面食らったように目を見開いた。

「いつから、そんな悪質なジョークを言うようになったのです? うちの弟子に感化されましたか?」

「……何を言っているのか分からないわ。そもそも、私はあなたが誰なのかすら、分からないのだもの」

「なんですって?」

 男の美しい顔が強張り、白い頬がひくりと震える。

 そんな彼に、彼女はこの数分で知り得た事実を淡々と告げた。


「私、記憶障害みたい。医師を呼んでくださる?」



 * * *



「……なるほど、君は自分のことだけでなく、家族や友人のことも一切合切覚えていないというわけだ」

 ベッドの横に座り、こりゃ困ったな、と言いながら顎ひげを撫でているのは、白衣を着た白髪の男性だった。

 ハウザーと名乗った老医が言うには、ここはリディル王国の騎士団営舎にある医務室だという。

「ちなみに、私のことも覚えていないかね? これでも、毎日顔を合わせている仲だったのだが」

 人の良さそうな老医は、そう言って少しばかり寂しそうな顔をした。罪悪感に胸が少しばかりチクリと痛む。

「……すみません」

「いやいや、謝ることはないさ。思い出せないものは仕方がない」

 仕方がないで済むような事態ではないだろうに、ハウザーはあえて軽い口調で言った。多分、患者の身を気遣ってくれたのだろう。

「さて、分からないことだらけでは不安だろう? とは言え、私が一方的に君のことを話しても混乱してしまうかもしれない。だから、ここは質問形式にしよう。一つずつ、君が知りたいことを質問してごらん。私はそれに答えよう」

 にっこりと穏やかに微笑まれると、緊張していた心が少しだけほぐれた。

 彼女はホッと息を吐いて、質問すべきことを一つずつ頭の中に浮かべていく。

「まず、私の名前と年齢を教えてください」

「ロザリー=ヴェルデ、確か年齢は二十五歳のはずだ」

「ありがとうございます。先ほど、ハウザー先生は、ここがリディル王国騎士団の営舎だと仰られましたが、私は軍の関係者だったんでしょうか?」

「あぁ、君はここの軍医で私の同僚だ」

 その答えにようやく彼女──ロザリーは納得した。

 先程ハウザーが「毎日顔を合わせていた」と言っていたのは、そういうことか。確かに同僚なら毎日顔を合わせていてもおかしくない。

 それにしてもなんともバツの悪い話だ。

 医師を呼んでくださる? ……なんて言っておいて、まさか自分が医師だったとは。

 自分の間抜けさに頭痛がするが、右手を持ち上げて眉間を揉もうとすると、肩が酷く痛んだ。

「ハウザー先生、私の怪我の症状は? 全治にはどれぐらいかかりますか?」

「右肩と肋骨を骨折、あとは頭部と顔の左側面に打撲と切り傷がいくつか……全治三カ月以上かかる見込みだ」

「記憶障害はどれぐらいで治りますか?」

「こればかりは何とも……恐らく、頭を強く打ったことで、一時的に記憶に混乱が生じているのではないかと思うがね。まぁ、焦らずゆっくり思い出していくしかないだろう」

 脳に関する医療技術というのは、どの国でもさほど進んでいない。それだけ脳科学というのは繊細で複雑な分野なのだ。

 こればかりはハウザーでもお手上げだろう。確かに、少しずつ日常に慣らしていって、記憶が戻るのを待つしかない。

 ロザリーはその段取りを考えるべく、次の質問を口にした。

「私に同居している家族はいますか? もしいるのなら、記憶障害という事態を説明する必要があると思うのですが」

「いや、君は城下町のアパートに一人暮らしをしていたよ。ご両親はカズルの方だと聞いたがね」

 カズル、この王都から馬車で二日はかかる距離だ。それならば、慌てて連絡を取る必要はないだろう。

 ただ、記憶がない状態のまま日常に戻るのは、不安が大きいのも事実。

(アパートを借りていたというのなら、きっと大家がいるでしょうし……まずは大家に連絡をとるべきかしら?)

 しかし、記憶を失う前の自分はどの程度、大家と交流を持っていたのだろうか……と考え込んでいると、ハウザーが気まずそうに咳払いをした。

「ところで、ロザリー君」

「はい、何でしょうか?」

「さっきから物凄〜く何か言いたそうな顔で、こっちを見ている彼について、何か質問はないのかね?」

 そう言ってハウザーは気まずそうな顔で、栗毛の男をちらりと見る。

 ロザリーが目覚めた時から、ずっとそばにいたこの男は、今は診察の邪魔にならぬようにと壁際に立ち、腕組みをしていた。

 こうしてベッドから少し離れると、彼の服装の全貌がよく見える。

 襟の高い立派なローブに重厚なマント。マントを留めているのは、美しい銀細工に青い宝石をあしらったクラシカルなフィブラ(マントを留めるブローチ)だ。

 ローブにマントだなんて重苦しい格好をしている人間がいたら、職業なんて限られてくる……舞台役者か、或いは魔術師だ。



 魔法と呼ばれる自然界の奇跡の力を、魔術式によって自在に操る者のことを魔術師と呼ぶ。

 そもそも魔法に関する知識と技術は、かつては貴族達が独占している秘中の秘とも呼ぶべき技術であった。

 しかし、近年の竜族の増加に伴い、凶悪な竜族に対抗するための戦力として魔法が有効視されるようになり、かくして秘術扱いであった魔法は門戸を広げ、貴族だけでなく一般市民にも学ぶ機会が与えられるようになったのである。

 とは言え、一般市民が誰でも彼でも気楽に魔法を使えるかというと、当然そんな筈もない。

 魔法を使うためには、まず一定量の魔力が必要となる。その上で魔術式に関する知識と、魔力を操作する技術が必要なのだ。才能と努力の両方が無くては、蝋燭に火を点す程度の火すら起せない。

 魔術師を育成するための教育機関は少しずつ増えてはいるが、誰でも気楽に通えるようなものではなかった。だからこそ、王国認定魔術師になれば、将来は約束されたも同然。まして、王国魔法兵団の一員ともなれば、エリート中のエリートである。

 そのエリート様が、何故こんなにも一介の軍医ごときを心配しているのだろうか?

 ロザリーはしばし考え、一つの結論に至る。

(この人の使った魔法の流れ弾で、私が事故に遭ったとか)

 それなら彼がロザリーのことを酷く心配していたことも頷ける。

 うんそうだ、きっとそうに違いない……と自分の推理に満足していると、栗毛の魔術師は静かな足取りでベッドに近づき、優雅に一礼をした。

「私は王宮魔法兵団団長ルイス=ミラー」

 魔法兵団の団員なのだろうとは思っていたが、まさかの団長だった。

 エリート中のエリート中の、更にエリートである。

 ロザリーが密かに驚愕していると、ルイスは更なる爆弾を放つ。


「あなたの婚約者です」


「…………は?」

 この人は怪我人に対して、なんと心臓に悪い冗談を言うのだろう……という思いが、そっくりそのまま顔に出ていたらしい。

 ルイスは片眼鏡の奥で目を細めてロザリーを見下ろし、言い聞かせるような口調で同じ言葉を繰り返す。

「あなたの、婚約者です」

 いや嘘でしょ。という言葉をロザリーは噛み殺した。

 ルイスはそれ以上は何も言わず、どこか熱のこもった目でロザリーをじっと見つめている。その眼差しに妙な圧力を感じて逃げるように目を逸らせば、ハウザーと目が合った。

 温厚な老医は、穏やかな口調で言う。

「彼の言っていることは本当だよ。君とミラー団長は二ヶ月前に婚約したんだ」

 ルイスはベッドの上で絶句するロザリーの手を取り、その手の甲に口付けを落とす。とても自然な手つきで。

「貴女と私は相思相愛の恋人同士でした。二ヶ月前に貴女のご両親に挨拶もしたのですよ。それが……こんなことになってしまうなんて」

 ルイスは悲しげに眼を伏せ、手袋をした指先で枕元に無造作に散らばるロザリーのダークブラウンの髪をそっと梳いた。

 ルイスは、さっきからやけにロザリーに触りたがる。こっちは怪我で身動きが取れず逃げられないのに、なんだかずるい……と思ってしまうのは捻くれているだろうか。

 密かにモヤモヤしていると、ルイスはロザリーの指先を控えめに握った。

「貴女が階段から落ちたと聞いた時、私は本当に生きた心地がしなかった。医務室に駆けつけてみれば、貴女は包帯だらけで目を覚まさない。頭を強く打っているから、最悪の事態も考えるようにとハウザー先生から言われて……私は目の前が真っ暗になりました」

「私、階段から、落ちたの?」

 それは間抜けすぎる。

 ロザリーは自分の鈍臭さに絶望した。

 ほんの一瞬でも、彼の魔法に巻き込まれたのでは……なんて考えた自分が恥ずかしい。

(階段から落ちて、この怪我って……どんだけ間抜けなのよ私……あぁ、恥ずかしいったらありゃしない……)

 穴があったら入りたい。むしろ埋まりたい……と、そんなことを真剣に考えていたものだから、ロザリーは不意打ちのようなキスをかわすことができなかった。

 目と鼻の先に端正な顔が近づき、唇に柔らかなものが触れて、すぐに離れる。

 ふわりと触れるだけの短いキスに、ロザリーは本日何度目になるか分からない間抜けっ面を晒した。

 そんなロザリーにルイスはとろけるような甘い顔で笑いかけ、その背後ではハウザー先生が何故か恐れおののいているような顔をしている。

(……何、この温度差)

 どう言葉を返したものか悩んでいると、ルイスはそっとロザリーの手を取り、その手を自分の頬に寄せた。

 長い睫毛の下で、紫がかった美しい瞳に憂いの色を滲ませて。

「……また、貴女に触れることを許して下さいますか?」

「はぁ……まぁ、それぐらいなら」

 また、ということは、きっと今までもこういうやりとりがあったのだろう。

 こういう時、年頃の娘ならば頬をポッと染めて「喜んで」とでも言うべきだったのかもしれない。

 けれどロザリーは、自分だけ違う芝居の台本を渡されたような場違い感に苛まれていて、困惑顔をするのが精一杯だった。

 どうにも違和感が拭い切れず、まごつくロザリーに、ルイスは熱っぽい声で語りかける。

「貴女が生きていてくれたなら、これ以上の幸いがどこにあるでしょう? 生きてさえいれば、私たちはまた同じ時間を共有できる。ロザリー……あなたが無事で、本当に良かった」


 ロザリーはその大袈裟な言葉を半分ぐらい聞き流しながら、この人は魔術師じゃなくて本当は役者なんじゃなかろうか、と真剣に考え始めていた。

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