結
薄暗闇の中で、どれだけの時間が経過したか、もう私にはわからない。
(このまま私は死ぬのかな。でも、まあ、別にいいかな。生きてるのは大変だし、生きていてもいいことなんて、………ない)
そんな風に考えていると、不意に意識を奪う、大きな音が部屋に響く。
強く開かれた扉の音だ。
私は寝たままその方向を見た。
そこにはお母さんが立っている。
「あなた、最近学校に行ってなかったんですってね。今日は行くのよ。さあ、さっさと着替えなさい。送ってあげるから」
母が何を言っているのか、いまいち判然としなかったけれど、私はされるがままになった。
〇〇〇〇
気づいたら、学校近くの場所に私は立っていた。
きっと、このまま学校に行けということなんだろう。
けど、学校になんて、よりにもよって今の私は行きたいだなんて、まるで思わない。勉強だって、もうなんだってしたくない。
行き先はどこだっていい。
ただ、勉強から離れられれば、それでよかった。
私は勉強から離れるために、学校から反対方向に歩いた。
〇〇〇〇
『明日は強硬手段に出よう。さゆりさんを助けるためには、もう構ってられない』
彼氏くんの言葉だ。確かに、もう構っていられないかもしれない。だって、さゆりが学校に来なくなって、もうかなりの日数が経過している。
彼氏くんは暗い顔をして、さらに、怯えるように言った。『さゆりの両親は、すでに彼女を殺しているかもいれない』、と。
あたしもその可能性は、最悪の場合、考えたくもないけど、あると思っている。
信じたくはないけれど、可能性としてただ、あるのだ。
それでも、あたしたちは彼女の生存を信じて動くしかない。
さゆりの家に到着したあたしたちは早速家のインターフォンを押す。
耳をすませる。
今日は窓ガラスを割って侵入できるように、ハンマーを彼氏くんが持ってきてくれている。もし、留守であるならば、窓ガラスを割ってさゆりがいるかどうかを確認、直ちに助ける心算だ。
もし留守でないのなら、さゆりのお母さんが扉を開いた瞬間に彼氏くんが力づくで扉を開き、私が中に侵入することになっている。
他人の家の窓ガラスを割るだなんて完全に犯罪だから、できれば後者がいいけれど………。必要なら、やる。
やがて、インターフォンから『どちら様ですか?』と、昨日と同じ声が聞こえてくる。
留守ではなかったことに一度ホッとし、それから声真似が得意なあたしが、宅配員の真似をした。
『宅急便? なにも頼んだ覚えはないのだけれど』
「い、いえ、支払いは先方になっているので、何かの贈り物じゃあないですかね〜」
『………そうかしらね』
微妙な間が心臓に悪い。
とはいえ、相手をおびき寄せることは成功した。あとは彼氏くんが強引に扉を開いて、小柄なあたしが侵入するだけだ。
彼氏くんとあたしは目と目を合わせた。
金具の音が響き渡り、扉が開く。
「今!」
「ふっ!」
彼氏くんが取っ手に力をいっぱいかけたことによって扉は瞬く間に全開になった。
「突入っ!」
あたしは仰天するさゆりのお母さんのそばを通過した。さゆりの部屋は、確か二階だ。
一気に階段を走破し、『さゆりの部屋』と書かれたネームプレートがかけられている部屋に飛び込んだ。
そこで、硬直する。あとから来た彼氏くんの反応も、あたしのものとそうかわらない。
「うそだ………。さゆりさんがいないっ!?」
彼の絶叫は、さゆりの家を震わせた。
「あの娘、学校にいたでしょう? 私が校門まで送ってあげたんだから」
のんきに、いや、お気楽者の言葉に、彼氏くんが吠えた。
「なんでそんなに扱いが雑なんだよ! さゆりさんがあんなんになるまで苦しんでて、もう見るのも辛かったのに………。あなたも、あなたの夫も、親失格だよ!」
「どうしてそんなことを関係のないあなたに………って、ちょっとっ、待ちなさいっ!」
彼は一息に述べたあと、狂ったような速度でこの家を出て行った。
反論しようとした母親も置き去りに、彼氏くんはさゆりを探すために走って行った。
もちろん、私もあと追う。
「あたしも、現場に居合わせたわけじゃあないですけど、彼に同意見です」
そんな言葉を残して。
〇〇〇〇
私は橋の上で河の水をただひたすらに眺めていた。淀んだ流れの水に、どこか今の自分と重なるような部分があると思ったからだ。
流れている水は綺麗ではない。都会というほど私の住んでいる地域は都会ではないけど、それでも工場から出る少量の汚染物質、家庭から流れ出る生活排水によって、上流では綺麗だった水も下流まで流れてくるうちに、当然のごとく綺麗とは言い難い水になる。
こんな水に心を奪われる人なんていないだろうから、きっと私はおかしいんだろうけど。
「………ここに落ちたらどうなるんだろう」
ふと、そんな言葉が口から漏れた。
私は立ったまま、その緑がかった河を眺める。
こうして、波の立たない、鏡面のような水面をじっと見ていると、それが、波を立たせる何かを待ち望んでいるように思えた。
足が欄干の土台に乗っていた。
あとは体を前に倒せば、きっとあそこに落ちていける。
落ちて、落ちよう。
ここではないどこかに行きたい。
そこはきっと、もう何も考えなくてもいい場所なんだ。そうだ。そうに違いない。
だから。
さあ。
行こう。
「さゆりさん!」
行動が鈍ったのは、聞こえるはずのない、大好きな人の声が聞こえた気がしたからだった。
嫌われてしまったと思っていた、大切で、かけがえのない、初めての彼氏の声。
それが聞こえた刹那、鼓膜に飛び込んで来たのは人の声ではない音。何かがぶつかり合う、そんな音。
その次に感じた感触はーーー水の冷たさではなく、温かさだった。
「さゆりさん、さゆりさんっ! ううっ! よかった、生きててよかったっ………!」
「あれ、小林くん………? どうしてここに……」
「どうしてもなにも、心配させないでよ! もう会えないかと思った……! 僕はさゆりさんのことが大好きなのにっ!」
枯れてしまったはずの涙が溢れた。
心から引き抜かれたはずの何かが、再び心を満たしていく。
ベタベタと心に塗りたくられていた、白黒のペンキが、こそぎ落とされていく。
「私、生きてていいのかな………? 小林くん………」
「当たり前だよ。というか、生きててもらわなきゃ、僕が困る」
「うぅ、うぅうぅぅぅ……、うぅううぅぅわぁぁぁぁぁ……!」
涙が、止まらない。
小林くんの胸で、私は赤子のように泣き続けた。
「恋人同士水入らずってことで、私の出番はなしかな」