転
その日の家の様子は、明らかに何かがおかしかった。
遊園地での一件のおかげで仲良くなった小林くんと私だ。帰宅の際には、どちらか一方の家の前に行くまで話し込むのが日常になっていた。
今日は小林くんが私の家の前まで来る日だった。
彼との別れを惜しみながら「また明日」、と言った後、玄関に入った私はあることに気づいた。
いつもならあるはずのない、父さんと母さんの靴があったのだ。
なんだろうと思わずにはいられなかった。母ならばまだわかる。でも、仕事熱心な父さんがこんな、午後六時を越す前に帰って来るなんてことは今までなかった。
「ただいま………?」
どこか胸騒ぎを感じながら、リビングへの扉を開いた時だった。
何かが叩かれるような音がした。
遅れて私を襲ったのは、焼けるような頰の痛み、臀部への衝撃だ。
「きゃっ……!」
小さな悲鳴が私の口から漏れた。
「お前、最近勉強が捗ってないみたいじゃないか」
私を見下していたのは、お父さんだった。奥には冷たい顔で見つめてくるお母さんの姿もある。
お父さんが私に見せつけるように持っている教材は、私が数日前にやり終えていなければならないもの一つ。
私はそれを見て、ただそれだけで怖くなった。
それなのに、お父さんはできていなければならないページを、一枚一枚めくり、それを声に出して読み始める。
「百九十五ページ、百九十六ページ、百九十七ページ……」
恐怖が、過去のトラウマが、黒い影となって私を飲み込み始めた。
歯は噛み合わない。
手は震えだす。
お腹からは何かをぶちまけてしまいたくなった。
怖い、怖い、怖いっ…………!
「いや、やめてっ、やめてっ………!」
蘇ってくる。
甘えが確かに存在したことはとっくの前に認めざるを得なくなっている。なのに、それなのに、その報いだと言わんばかりに父は、私にとって呪いと等しい呪文を、止めようとしてくれない。
私が死をも望んだ、その時だった。私がもっとも今、一緒にいることが楽しい人。
「さゆりさん! なにかあったの!?」
小林くんだ。
彼は私の悲鳴を聞き、部屋の中に入って来てくれたようだった。
動揺は収まりきることはなかったけれど、確かに、彼が来たことによっていくばくかの落ち着きは取り戻すことができた。
私は小林くんの胸で唐突に洪水のように溢れてきた涙を拭いた。
「なんだ、小僧、お前がうちの娘をたぶらかした張本人だな」
「たぶらかすだなんて、そんなこと……」
彼はお父さんとお母さん二人から、私を隠すようにしてくれた。
それが場違いにも嬉しかった。
「うちの娘は従順で、一生懸命勉強に励むいい子に育っていたのに、あなたが彼氏にならなければ問題なかったのに」
でも、次の瞬間には申し訳なくなった。
彼に罵倒される謂れなんてどこにもない。悪いのは彼との遊びに夢中になって、勉強をおろそかにした私で、私でしかない。
小林くんは、何も悪くない。
だから、小林くんはこんなこと言われちゃいけない。私のせいで、彼が傷つくなんてことはあっちゃいけない。
「ごめっ、ごめんぅ……小林くん……」
「そんな、さゆりさんは……! さゆりさんは悪くなんて……」
それなのに、彼を後ろに下がらせることもできずに、泣きじゃくりながら謝ることしかできない。
情けなかった。
お父さんは彼の言葉尻を聞いて激昂する。
「悪くなんてない、だと? 悪い、悪いぞそれは! 悪だ!」
「そんな、どうしてそんなに勉強に、」
「俺と母さんの娘だからだ。俺達の娘であるなら、日本で一番の大学に入って当然なんだよ!」
問いかけを遮って、一息に発された父の叫声に、小林くんが絶句する。
「家のことに口出しするな、部外者が」
そう言われても、彼は私をかばうのをやめなかった。
父は小林くんをしつこく退室させようとした。
小林くんはそれに逆らって、意地でもその場所に止まろうとしてくれた。何度も何度もなにかと理由をつけて、父の要求を受け流した。
けれど、それも時間の問題だった。彼が言葉に詰まる。理由が尽きてしまう。
ここにとどまる理由がなくなってしまった小林くんは、困った様子で私の顔を見る。
愛おしかった。
けれど、だからこそ、彼にこれ以上辛い思いをして欲しくない。
「もう、大丈夫」
彼に顔を見せないように、顔を下に向けたままうそぶいた。
「でも、さゆりさん! まだ、まだ、涙が」
「いいから、行って」
俯いたまま、彼の表情を意識して見ないようにした私は、迷惑をかけたくない一心で、心にもない言葉を彼にかけた。
私の一言でその場の空気が固まった。
一拍おいて父が嘲り声をあげる。
誰かが私のそばからさっていく気配がする。
私は、小林くんと出会ってはいけなかった。愚図な私は、厳しい勉強をやりながら彼と過ごすなんて、きっと無理に違いないから。
胸から何かが引き抜かれたような感覚に、私は無気力になった。
〇〇〇〇
さゆりはあたしの友人だ。
あたしの中ではそれなりに顔面偏差値上位に位置する男子、小林くんに告白されたにも関わらず、一緒に帰る約束を忘れるっていう、私には考えられないようなことをしでかす、そんな、友達。
さゆりは、常に学年トップを走り続けるぐらいに頭が良くて、だけど、どこか思いつめたような顔をよくしていた。
過去形なのは、ここ数日、そういう表情が全く見られなくなっていたから。
彼女のことを少し心配していた私は、安堵していた。
(これが、彼氏の力ってやつですかなぁ)
そんな風に息をついていたのも束の間だった。
さゆりは、ここ一週間風邪で学校に来ていない。
一週間だ。そんな長期間休まなければならないような風邪はインフルエンザくらいしかあたしの頭では思いつかないが、夏休みに入る前だ。インフルエンザなわけがない。
先生に聞いてみても、どうも詳しい事情は知らないようで、さゆりがどうなってしまったのかとんと見当もつかない。
あたしは小林くんの元に向かった。さゆりの彼氏であれば、何かしら聞いているかもしれないと思ったからだ。
彼はあたしとさゆりのいる教室の隣にいる。コミュ障なあたしにはちょっと過激なミッションだったけれど、可愛い友人のためだと思って、探しにいった。
教室の後ろの方から顔を覗かせて見ると、小林くんがいた。顔をうつ伏せにして、何かひどく思い悩んでいるような、そんな顔だ。
(これは、臭う……!)
そんなふざけたような実況を心中でやりながら、話を聞いてみれば。
私が思っている以上に状況は重く、そして、聞きにきて正解だと思える現状を私は知ることができた。
さゆりを、助けなきゃ。
〇〇〇〇
まどろみに包まれたまま、私は薄く目を開いた。
朝はもうとっくの前に過ぎているけれど、起き上がろうだなんて一ミリも思わない。
あるのは、ただただ、もうどうでもいいという投げやりな気持ちだけだ。
あんなことを言ったのだ。迷惑はかからずとも、きっと、小林くんは私のことが嫌いになってしまっているに違いない。
そう思うと、また涙が溢れた。私は、涙でできた大きなシミの上に、また雫を零した。
涙が枯れると、黒くて白い虚無感というペンキで私はベタベタと厚塗りにされていく。
もう、お父さんに怒られたって、怖がることもきっとできない。もうどうやったって、どうにもなら無い。
生きることが、面倒くさい。
〇〇〇〇
さゆりのピンチを感じ取った私はさゆりの彼氏くんとここ三日間、毎日彼女の家に訪れた。
これまでの結果は留守、留守、留守だ。
さゆりの名前を彼氏くんが呼んでも、私が呼んでも、何も反応がない。窓を叩いても、閉じられたドアを打ち鳴らしても、結果はおんなじだった。
今日でダメだったら、警察に連絡する。
彼氏くんと二人で相談して臨んだ、4回目の訪問だ。
彼氏くんがインターホンを押す。聞き慣れた呼び出し音の、その後。私たちは誰かにつながることを期待して、その期待は叶えられた。
『どちらさまですか?』
まだ若い、けれど、それなりに人生を生きてきた女性の声が応答する。
あたしたちは歓喜しつつも、気を引き締めてその問いに答えた。
「さゆりさんの同級生です。さゆりさんが心配で来ました」
『心配? どうして心配されるようなことがあるかしら。うちの娘は今日も学校に行っていたはずでしょう。すこし話を聞かせてちょうだい』
「「えっ」」
決定的な食い違いだった。
インターホンから足音が遠ざかり、人の気配がドアの裏側に近づいてくる。やがて、それは開かれる。
さゆりのお母さんだろうか。ミドルヘアで、目元が切れ長の女性が私たちを見た。
そのさゆりのお母さんとおぼしき女性は、彼氏くんを見た途端に彼を睨みつけたが、今は関係ないことととして意識から切り離したようだった。
彼女はただ一言だけ聞いてきた。
「うちの娘は、学校に行っていないのかしら?」
正直、どう答えるべきかわからなかった。彼氏くんから聞いた話では、この家の人たちはきっと、かなりまずい部類の人たちで、返答が、場合によってはさゆりを傷つけることにつながるかもしれない。
彼氏くんもそれがわかっていて、うまい返答が思いつかないようだった。
「はぁ、もういいわ、わかったから」
嘆息をついてさゆりのお母さんは扉を閉めてしまった。
やばい、と思った時にはもう遅かった。何かを掴み取ろうと伸ばされた彼氏くんの手は、力なく下げられてしまう。
インターフォンを再度押してみても応答はなし。あたしが連打して見ても結果は同じだった。
悔しいけど、撤退するしかない。
帰り道で彼氏くんは言った。
「明日は強硬手段に出よう。さゆりさんを助けるためには、もう構ってられない」