79. 夢の世界は
「ふう、何とか逃げ切りましたね」
「危なかったな」
私たちは夢世界の消滅範囲からなんとか逃げ切ることができました。今いる場所はどこかの市場でしょうか。先ほどの場所より物がくっきり見えます。夢世界の中心に近づいたようでした。
「途中で走るのが楽になったのですが、どうしてでしょう」
『夢に干渉して地面を蹴る力を増幅したのです』
獏の姿をした夢枕が自慢げにそう言いました。
「あなたのおかげでしたか」
私は夢枕の頭を撫でました。夢枕は気持ちよさそうに目を閉じ額を押し付けてきます。
『折角なのでキック力増幅の干渉方法をパッケージ化したのです。現実世界でのスキルのように使えるようになったのです』
「どういうことですか」
『分かりやすく言えば、夢世界限定のスキルを作れるのです。私の能力で干渉できることを、手動ではなくシステム的に行えるようにできるのです』
「おお、すごいですね」
さすがは夢。介入さえできれば、明晰夢のように何でも思い通りというわけですか。
「おい、鑑定のスキルは作れないのか?」
メガネがシルクハットの位置を直しながらそう言いました。こいつ、根っからの鑑定魔ですね。
『創れるのです。……できたのです』
「おお、では早速。鑑定!」
メガネがそう言うと、モノクルが光りました。どうやらモノクルを通して鑑定結果が見えるようです。メガネがあちこち見周すと、ぼやけていた風景がはっきり見えるようになっていきました。歪みもきれいさっぱり消えています。どうやら鑑定によって、曖昧だった世界が確固とした存在になったようです。
「実に面白い。どうやらこの夢世界は現実世界を疑似的に表しているようだ」
メガネは鑑定を通して何か分かったようです。
「どういうことですか」
「現実世界の事象はステータスに代表される数値によって決定される。が、この世界では事象の決定に記憶を用いているようだ。数値演算では人の脳には負担が大きいのだろうな。この世界の物事は全て、サッシュの経験した事象によって近似されている」
「分かるように言ってください」
『ちなみに、鑑定を多用すると夢世界が崩壊する可能性があるので注意が必要なのです。この世界は曖昧なのです。物事をはっきりさせたせいで矛盾が明らかとなると、それを修正するために世界が再構築されるのです。巻き込まれたらマスターの精神も別の何かに再構成されるのです』
「ちょっ!? 鑑定止めてください!」
私が慌ててメガネの方を見ると、向こうから暗闇が私たちに迫っていました。遅かったようです。
「そう言うことは先に言ってくれ!」
メガネは鑑定をやめこちらに走ってきました。私も急いで暗闇から逃げます。
『再構築は局所的なのです。ある程度離れれば大丈夫なのです』
私たちがしばらく逃げると、暗闇は追ってこなくなりました。飲み込まれた空間に新しい風景が広がっていきます。
「この辺りはかなり景色がはっきり見えるな」
メガネが辺りを見回してそう言いました。つられて見回すと、私たちは住宅街にいました。
「どうやら夢の中心に近いようですね」
『夢の主が近くに居るのです。こっちなのです』
夢枕が鼻である方向をさしました。私たちは誘導に従ってサッシュさんの元に向かいました。
「しかし、この街は一体何なのでしょう。ヨハンではなさそうですが」
「おそらくサッシュが昔住んでいた街だろう。夢は記憶に強く影響されるからな」
『正解なのです。この世界は今、古い記憶を元に形作られているのです』
いつの間にか、空が青色から夕焼けに変わっていました。まっすぐ歩いていたのに、後ろを見れば行き止まりでした。時間と空間が歪んだ世界……。
『着いたのです』
夢枕がそう言いました。目の前には公園。そこで遊ぶ、一組の家族が見えました。この世界で、初めて見る人でした。
祖父と父と子、と言ったところでしょうか。父が子を肩車して歩いています。その隣には祖父。そして肩車されている少年に私は見覚えがありました。
「あれがサッシュさんですね。現実よりもだいぶ子供ですが」
「昔の記憶がベースの夢だからだな。影響を受けているのだろう」
私は親子に近づきました。
「すいません。ちょっといいですか」
私が声をかけると、サッシュさんがこちらを向きました。
「お姉さん、だれ?」
「私は冒険者ギルドのマリーンという者です。サッシュさん、あなたを迎えに来ました」
「迎えに?」
「はい。あなたは何日も眠ったままです。ここはあなたの夢の中ですよ」
「いやっ! 起きたくない!」
サッシュさんは私から目を背けました。サッシュさんを肩車している父が歩きだします。祖父もそれに付いていきました。
「待ってください! なぜ目を覚ましたくないのですか!」
「ずっとここで遊ぶの!」
私はサッシュさんを追いかけました。が、向こうはゆっくり歩いているのにいくら走っても追いつけません。みるみる距離が離れていきます。
「スーンさんも心配してますよ!」
ピタリと、サッシュさんたちが止まりました。ですが距離が縮まりません。いくら走っても同じ距離を保ったままです。
「あなたを目覚めさせるよう依頼したのはスーンさんです。あなたの居場所は夢の中じゃありません。現実に戻ってきてください」
私がそう呼びかけると、世界が急変していきました。地面が割れ、その下から街が生えてきます。その街に私は見覚えがありました。ヨハンです。夢の世界が急速に書き換わっていました。
サッシュさんを見ると、いつの間にかサッシュさん一人になっていました。父と祖父は居らず、サッシュさんは本来の年齢に戻っていました。
「俺は絶対に戻らないぞ!」
そう言うサッシュさんの背後に巨大な扉が生えてきました。鋼鉄製の扉をダイヤル式の鍵が施錠しています。いつの間にかヨハンの街は消え、私たちは民家の中に立っていました。
『夢世界が急速に書き換わっているのです! 巻き込まれたらマスターの精神にどんな影響があるか分からないのです!』
「おい! 一旦現実に戻ったほうがいいんじゃないか!?」
「ですが……!」
私はサッシュさんを見ました。サッシュさんは相変わらず扉の前に陣取っていました。まるで何かを守るように。
「な、なんだこいつは!?」
メガネの声に振り向くと、すぐ後ろに化け物が居ました。黒い靄を纏っていて正体は分かりませんが、おそらく人です。わずかに見える手足は腐っており黒い液体が滴っています。靄の隙間からは怨念のこもったような目が見え隠れしていました。
化け物が私の肩に手を置きました。触られた部分から、黒い液体が私の体を侵食していきます。人間の持つ根源的な恐怖、私はそれを感じて動けませんでした。体が硬直しています。ただただ自分が黒く侵されていくのを見ることしかできませんでした。
化け物が口を開いてこう言いました。
“アレハ私ノ物ヨ。”
『マスター!!』
直後私は、夢世界の改変に巻き込まれました。
気が付くと、私はスーンさんの家で寝ていました。始め混乱していた私でしたが、すぐに事情を思い出しました。
「そうでした。サッシュさんの夢に入ってたんでした」
起き上がって隣を見ると、サッシュさんが寝ていました。夢に潜る前と変わっていません。
私は化け物に触られた場所を見てみました。当然ながら、何ともありません。あれは夢の中の出来事。現実には影響するはずがないのです。
ないですが……
「今の私と以前の私は、同じ私なのでしょうか……」
寝ている間に人格が書き換えられたとして、それは以前と同じ人と言えるのでしょうか。そもそも同じとはなんでしょうか。体が成長とともに変化し変わっていくように、心も時間と共に変わっていきます。同じ人の定義が連続性に含まれる事だとして、意識のない睡眠の前後で連続性は本当にあるのでしょうか。私が夢世界の改変に巻き込まれて全く別の人格になっている可能性を、どうやって否定すればいいのでしょうか。
『同じなのです。ぎりぎりで夢から脱出できたのです。精神には影響なかったのです』
『安心しろ。お前はお前だ。自分を強く持て』
夢枕と鑑定メガネがそう言いました。ただそれだけの言葉に、私の不安は霧散したのでした。




