48. 吹き水
「じゃあなに? 動物が何もないところに生まれる所を見た人がいるわけ?」
エルーシャがジト目でこちらを見ています。動物が無から生まれるという事が、どうしても信じられないようでした。
「見た人はいません。というより見ることはできません」
「どういう事?」
「動物が居るかもしれない場所を人が見たら、動物がそこに居るのか居ないのかがが確定します」
「当たり前じゃん」
「逆に認識されていない時は、動物が居る状態と居ない状態が混在します」
「ごめん、意味わかんない」
「簡単に言えば、人が世界を観測したから世界はそのようになっている、という事です。動物が居るのを見た、だから動物が居たことになる、という事です。動物だけではなくて、魔物も森も土地も現象も、全ては人がそう観測したから存在する事になったのです。これを人間原理と言います」
「頭大丈夫? 治癒院行く?」
「シュレディンガー・ラットという実験で証明されているんですよね。空箱を用意して、中にネズミが入り込む可能性がある状況にして観測せずに放置すると、箱を開けるまでネズミが中に居る状態と居ない状態とが重なって存在するという実験です」
「……あれ?もしそれが本当だとしても、ネズミは無から生まれたわけじゃないよね? 外に居たのが箱に入ってきたわけなんだから。だったら今回の動物も、もともと居たのが魔物から逃げて安全地帯に集まったって事になるでしょ?」
なかなか鋭い指摘ですね。教育受けていないのに。教育受けていないのに。
「どこまで過去をさかのぼれるかの問題です。存在が確定した瞬間に生まれるだけでなく、そこに存在するまでの経緯も生まれます。ネズミの例で言えば、箱に入り込むまでの足跡や抜け毛を観測すれば、そこを通ったという過去が生まれます。つまり過去込みで生まれるという事です」
「じゃあさ、今回の動物の痕跡を追っていけばどうなるの?」
「どうとは」
「安全地帯は魔物が居なくて瘴気がなかったから、動物が居てもおかしくない。だから動物が見つかったとするじゃん。でも安全地帯に来るまでの痕跡を辿れば、周りは瘴気で溢れてる森しかないわけで、動物が居たはずがないってなるじゃん」
エルーシャ、意外と自頭がいいのでしょうか。ここまで話について来れるとは思っていませんでした。理解できずに混乱する様を見て悦にひたろうと思っていたのですが。
「似たような矛盾が起こりうる状態にした実験もされています。結果は、矛盾が生じる前に痕跡をたどれなくなってしまった、です。過去の痕跡ほど薄れていくためいつか追えなくなり、観測不能となったわけです」
「うーん、こじつけにしか聞こえないなぁ。わざわざそんな理論を作らなくても物事の説明はできるじゃん。実は居た動物が安全地帯に集まった、のほうがシンプルだと思う」
「まあ、普通に生活する上では知らなくてもまったく問題ないですね」
人間原理のさらに先に鑑定原理という物もありますが、まあ私もそこまでよく知らないので、これ以上掘り下げなくてもいいでしょう。すこし喋り疲れたので、水を飲んで喉を潤します。
「じゃあさ、迷い人も無から生まれたわけ?」
エルーシャの発した疑問、あまりにも非常識なその発想に、私は水を吹き出しました。ケホケホ、気管に入りました。
「ぎゃああああ!? 私の肉が!」
向かいのエルーシャが叫びながら飛びのきました。エルーシャの食べていた熊肉に私の吹いた水がかかっていました。
「何すんのさ! マリーン!」
「いえ、あまりに非常識すぎて咽ました。あり得ませんよ。人間が無から生まれるわけないじゃないですか。常識的に考えればわかるでしょう」
「さっき全ては人が観測したから存在するって言ったじゃん。じゃあ人もそうなのかなって思うじゃん」
「頭大丈夫ですか。治癒院行きましょう」
「えぇ……」
エルーシャの困惑顔が極まっていました。頭良さそうだと思った矢先のおバカ発言、やはりエルーシャはエルーシャですね。まあ、今聞いたばかりの知識だけでは無理もありませんか。教育を受けていないというのは哀しいですね。ここは私がしっかり否定しなければ。
「あり得ませんよ。そんなの」
その後私はエルーシャに、私が噴き出した水がかかった料理を押し付けられたのでした。
迷い人編終了です。
結構電波な内容だったと思いますが、ちゃんと分かりやすく書けていたでしょうか?
いつか世界観に関わる重大な事件も書きたいと思っているのですが、今回はその世界観の一端の先出しとなる、世にも奇妙回でした。
次回予告:手芸倶楽部編
手芸が趣味のマリーンは、手芸倶楽部の話を聞き見学に訪れる。そこで巻き込まれた事件とは。犯人だと疑われたマリーンは無罪を証明できるのか。乞うご期待。




