【 空 に近い場所で】
ホラー回ではない、と思うのですが一応心霊現象ありです。
残酷描写もたしょうある、かな。
主人公は相変わらずの通常運転でお送りしております。
顎と首の付け根の薄い皮膚を指の腹が滑っていく。
そうっとなぞる様に、辿る様にゆっくり。
救護室の丸椅子に座る私の正面に座っている彼は、ずーっと首についた痣を診ている。
実際の時間で言えば五分くらいなのかもしれない。
けど、顔の整った人に穴が開きそうなくらい見られてるのって立派に精神的ダメージを負うんだよね。
「葵チャン、優の首はどうなんだ?」
「コレはどう見ても索状痕だね。あの場所で首を吊った生徒の首に残っていたものと似ているけど、痣はこっちの方が濃いな」
「痣が濃いということはそれなりに力が込められていたという事ですか」
「そういう認識で間違いないよ。あと、これなかなか消えそうにないから覚悟しておいて。軽く一週間以上かかるね」
私の首から手を放した葵先生は改めてまじまじと痣を眺めている。
感心したように頷いている姿は『保健室の先生』っていうより『好奇心旺盛な子供』にしか見えない。
(まぁいいんだけどね。顔の距離は取れたわけだし)
何が困るって顔面偏差値が高い人の吐息を感じられるくらいに距離が近かったことだ。
何気に一緒にいてくれる高校生三人組も顔がいいし将来有望って感じなんだよね。
(私の傍にいないでもっと可愛い子の……ってここ男子校だった)
うっかり遠い目になった私の周りには、高校生三人と葵先生の計四人がいる。
七不思議の現場である『首吊り桜』から移動して真っすぐ連れてこられたのがこの、救護室だったからだ。
のんびりコーヒーを飲んでいた葵先生に靖十郎が大変だと声を上げ、私を担いでいた封魔は逃げられないよう丸椅子に私を下ろし、がっしりと肩を掴んで抑え込んだ。
禪?ああ、禪は無言でドアを閉めてたよ。ご丁寧に鍵までかけて。
「索状痕ってアレだろ、刑事もののドラマとか推理系の漫画とかでやってるやつ。首吊りとか首絞めた時につくとかっていう縄の痕だっけか」
「そ。まぁ、状況を聞いて確信したけど、実際首吊ったようなものだろうから、索状痕が残っているのも無理はないね」
うんうん、と頷きながら封魔の疑問に答える葵先生に封魔は納得したようでようやく私の方から手をどけてくれた。
前後左右から感じていた威圧感と存在感と圧迫感がほんの少しだけ緩んで、私は小さく息を吐く。
「つか、こんな短期間それも割と頻繁に死にかけるの見ると良く生きてんなァって感心っつーか感動するわ。あ、羨ましくはねェぞ。俺ァこれでもドがつく被虐趣味の持ち主じゃねーしィ?」
背後というかほぼ頭上から降ってくる声には揶揄うような色が強い。
む、と唇が突き出て目が半目になった私が文句を言おうと視線を頭上に向ける途中の事。
「――…そうだね。ほんっとうに“優くん”は洒落にならない怪我と状況に陥るのが好きみたいだし、保健室のセンセイとしてはお説教の一つや二つしたくなっちゃうな」
にィっこり。
明るい茶色の瞳と薄い唇が緩い弧を描いているけれど、確実に目が笑ってない。
声色が普段通りで表情も普段通り人好きのする、親しみやすい笑顔だ。
「今度、じぃっくりと時間かけてお説教かオシオキしちゃおうかな」
そうすれば無茶もしなくなるかもしれないし、ねぇ?
低い掠れた声で告げられる言葉は私に戦慄をもたらした。
喉の奥から引きつったような悲鳴が漏れそうになったけれど、どうにか堪えた私って偉いと思う。
ただ、その頑張りをあっさり打ち消しちゃうのが葵先生だった。
骨ばった男性らしい手が動いたかと思えばあっという間に皮膚と皮膚が触れ合った。
引きつった呼吸音に肩が大げさに跳ねると同時位に、背後にいる封魔が気の毒そうな声を上げる。
「葵せん、せい……ええと、その、お仕置きとか割と物騒な言葉は生徒に言う言葉じゃないかなーなーんて」
「あれ、何か問題でもある?俺だって“生徒”にはこんなこと言わないからね。それから、誤解がないように言っておくけどその気もないから安心して」
「大変申し訳ないのですが安心できる要素が微塵もありません葵先生」
首を横に振りたいのに葵先生の手の動きは、完ッ全に大人の男的オーラを纏って妖しさ満点!
エロさも満点!って感じ。
知ってるかな?過度のエロさって目に毒なんだよ。
私は上司様のお陰で嫌って程学習してるけどね!
(っていうか、指の動きだけで色気を醸し出せるとしたら葵先生はプロじゃない?いや、須川さんも色気満載なんだけど二人ともタイプが違うもん。あれだよ、属性で言えば葵先生は表情と仕草で殺す系の人だ――…須川さんは視線一つで人を腰砕けに出来る系上司だけど)
周囲の人たちが呼吸するように色気をまき散らすから、私にもいつか伝染して色気使える様にならないかなーなんて考えてみるけれど、望みは薄そう。
現実から目を逸らす意味を込めて乾いた笑い声を出してはみたものの、残念ながら葵先生には何のダメージもなかったらしい。
ゆぅっくりと首から頬、頬から唇に触れるか触れないかという所で、頭を掴まれてグイッと後ろに引かれた。
この際だから腰が嫌な音を立てたことには言及しないでおこう。
「葵チャン、ストップ。遊んでンだとしてもこっちの心臓に悪ィ上に精神衛生上宜しくないからな。せめて、優にセーラー服とかスカート着せてからやってくんねェ?」
ウンザリというかゲンナリした封魔の声で葵先生の笑顔の種類が即座に切り替わるのが分かった。
思わずため息を吐いた私は悪くないと思う。
でも、直ぐにそのため息も凍り付いた。
「優、本当は危ないってわかってただろ」
苦みの強い声は彼らしくなくて思わず目を見張る。
声の方へ顔を向けるとそこには私を見下ろしている同級生の姿があった。
眉間に皺が寄った靖十郎はじぃっと何も言わず目を細めて私を見据えている。
確信を持った声と言葉に一瞬心臓が不自然に跳ねて、体に力が入ったけれど私は何とか、表情を取り繕った。
靖十郎の背後で揺れる白いカーテンに視線を合わせる。
目を合わせると動揺が伝わりそうで怖かったんだよね、靖十郎って妙に勘がいいし。
「なんのこと?」
白々しい、と自分でも思うけれど普段通りを装って返事を返す。
光の加減なのか心情によるものなのかはわからないけど、座る私を見下ろす靖十郎は普段よりも大人っぽく見える。
「自分の心配しろって言ったことも忘れたのかよ。俺らだって、優がこの学校に来たのは“仕事”だってのはわかってるし、早く解決しようとしてくれてるのもわかってる。だけど、態々“危ない”ことが分かってるのに自分でその中に突っ込んでく必要ないだろ」
最もな意見に納得すると同時に衝動的な行動を思い出した。
自分でもわからないんだけど、はじめ体を持ち上げられた時は特に何も感じなかった。
身体を下ろしてもらう際に感じた一定だった心臓のリズムが乱れ、毛穴が唐突に開く感覚は何度か――…それこそこの学校に来てから数回覚えのある感覚だった。
「心配してくれたって、こと?」
思い浮かんだことをそのまま口にした私は、思ったまま感じたまま浮かんだ言葉をそのまま口にしてしまう性格を物凄く後悔した。
険しかった靖十郎の表情はもはや鬼のように変化したあたりで自分の不利を悟る。
「ッ……当たり前だろ!心配っていうか、俺が怒ってんのはお前が自分を大事にしないからだ!マジで何考えてんだよ、ロッカーで死にかけたの忘れたのか?!」
「わ、忘れてない!その、ほらっ!色々と迷惑かけたのは本当だし、次からは気を付けるからさ。それに今回は時間もなかったしパッと思い浮かんだから実行しただけで深い意味はなくって……でもさ、ほら、結果的に封魔のお陰で死ななかったし、探し物も見つけられたしでアレは正解だったんだって!」
帰宅予定時間まで残り三十分を切っていたし、実害があったのは私だけだから問題はない。
多少怖くはあったけど死ななかったっていうのが一番でかい。
安心して欲しいのとこれ以上この話を続けたくないなーという意味を込めて笑ってみる。
靖十郎も併せてにっこり笑ってくれると思っていたんだけど、何故か靖十郎の表情が険しくなった。
(って、あれ。表情と答えの選択間違った……っぽくない?)
しかも靖十郎だけじゃなくって周りの空気が張り詰めていく。
驚いて視線だけを周囲に向けると禪は背筋が寒くなるような視線、封魔は苛立ちと呆れを混ぜたような複雑そうな表情で、葵先生はにっこり笑っていた。
(どうしよう葵先生が一番怖い。笑顔で怒る人ってホント怖いんだけど!)
え、なんか間違った?!と冷や汗を流しながら固まっていると首に残った痕を撫であげられた。
指の動きだけで腰の辺りがゾワッとした。
流石、イケメン。
「正解?お前が死にかけたのが?下手したら死んでたんだぞ!?」
「いや、一瞬死ぬかもって思ったけど生きてるよ。それにこの“仕事”してると、こういうことは割とあるから珍しくもないし、今回は一人じゃなかったから“大丈夫かな”って。流石に一人だったらしてないよ」
多分だけど、という言葉は飲み込んだ。
実際ああするのが一番早かったと思うんだよね。
「今まで見つけたコインがさ意地の悪い場所にあったからずっと考えてたんだ――…今回のコインだけど、あの場所を選んで埋めたならホントに捻くれてるよ、このコイン埋めた人。今回のことで確信したんだけどさ、今までコインがあった場所って“死んだ時”や“死ぬ直前”に見える景色の中なんだ」
恐怖心と苦しみを思い出して目を閉じる。
広がった暗闇は見慣れたもので少しだけ気持ちが落ち着いてくる。
救護室独特の空気が初夏の風で揺れて私たちの間を通り抜けていった。
ふぅっと息を吐いて目を開けて、何気なく。
ほんっとうに何気なく視線を天井へ向けた私はある筈のないものを見た。
「にしたって!どうして、なんでもっと早く言わないんだよ?!お前、それどう考えたって――…優?なんで天井なんか見て……ひッ?!」
白い天井にソレはあった。
赤茶け、所々掠れた文字は短い言葉だった。
今しがた書きなぐったような筆跡でどこか拙い。
「 “ たすけて ” 」
文字を読めば不思議と私の声が響いて、そして消えると同時に天井に書かれた文字は薄くなり消えていく。
薄くなっていく文字を追うように目を細めつつ、ズボンのポケットに突っ込んである護符を一枚取り出しながら立ち上がる。
(部屋の中にはいないし、今の所気配はないけど警戒だけはしておいた方がよさそうかな)
最近、というかコインを見つけてから妙に霊が活発になっているみたいだし、念の為四人を背に庇うような形で足を踏み出す。
天井ではない場所も警戒しつつ霊視をしてみたものの気配はないし、何かが現れることもなかった。
「き、消えた……?」
「どうやら一時的なものだったようだな」
動揺しているのか微かに震える靖十郎の言葉に反応したのは、禪だった。
禪も天井を見つめていたみたいだけど、文字が消えて直ぐに視線を周囲に向けている。
多分、私と同じように霊視してるんだろう。
手に持った護符をポケットにしまった所で、あまりこの部屋に長居するのは良くないかなーと判断を下す。
場の空気を切り替える意味でも、深く息を吐き出してから一度注目を集め、この場で唯一の“大人”という事になっている先生に体ごと向き直る。
「痣の診察ってもう終わりましたよね、葵先生」
「確認はしたから後は軟膏を塗って包帯を巻くだけだけど、まだ治療途中だからね」
「包帯って大げさすぎませんか。ほら、首に包帯って目立っちゃうし」
「その痣、霊感の有無にかかわらず見えるからね?」
「ぼ、ボティペイント的なもので誤魔化すっていう手段が」
「汗で流れてシャツが悲惨なことになるけどいいのかな」
「……自分でやるんで包帯と薬貸してください。まずこの部屋から出ましょう、何かあっても困りますし」
窓の下に置いておいた荷物を手に取った所で葵先生が小さく息を吐いた。
やれやれ、というように軽く首を横に振っていたけれど行動に迷いはない。
薬が入った戸棚から小さなケースと白いものを取り出していたので葵先生もついてきてくれるんだろう。
部屋を出ると決めた私と先生を見て一番ほっとしていたのは靖十郎だった。
冷や汗をぬぐって、チラチラと天井に視線を向けている。
(やっぱ靖十郎と禪は見えてたか。葵先生も見えてるよね、表情と動作から察するに)
文字が浮かんだ時のことを思い出す。
驚いたように目を見開いている靖十郎や禪と目を細めて天井を睨んでいる葵先生。
封魔は、私たちの反応と視線の先にある天井を見比べていた。
(封魔は見えなかったってなれば霊力自体は強くないのかも)
力が強ければ、封魔にも見えただろうしこうもあっさり消えたりしないだろう。
それぞれの荷物を持った私たちはそのまま、救護室から舎監室へ移動することにした。
血のような文字を見ても“怖い”と感じなくなった私はどこかおかしくなっているのかもしれない。
◇◆◇
チャリッと金属と金属が擦れる音がする。
軽く乱れた呼吸を整えながら、ウンザリと周囲を見回す私を落ち着かせるようにすり寄ってきた相棒の頭を撫でようとして手が汚れていることに気づいた。
「シロありがとう。ちょっと敵が多くて疲れただけだから……シロたちは平気?」
腰のあたりから元気な鳴き声と頭上付近から歌うような囀りが聞こえて口元が緩んだ。
チュンは汚れていないけれど、真っ白だったシロは所々赤茶け、所によっては真っ赤に染まっている。
多分ズボンについたけど、私のズボンも血濡れだから諦めたよ。
刀についた血を振って飛ばしてからいつでも斬りかかれるよう準備をして階段を上っていく。
「コインは残り一枚か。それはいいんだけど、コイン見つける度に幽霊やら穢れが活発になってるよね、今日なんか殆どの場所に出てきてるし」
流石に清めた所にいる霊体は少なかったけど、いなかったわけじゃない。
お陰で七不思議スポットである『屋上』以外の六ヶ所で浄化していない場所は特にひどくて、倒すのにかなり骨が折れた。
数が多かったし、中型から大型のも少なくなかったからシロがいてくれてよかったと思う。
チュンも奇襲や気づいていない場所の穢れの居場所を教えてくれたり、無事で害のない浮遊霊を避難誘導してくれたりと大活躍だった。
一時的なものではあるだろうけど、毎晩これだったら疲労で倒れるわ、なんて思う。
(日中は日中で学校だったり寮生活でしょ?それも正体と性別がばれないようにしながら私たちに気づいている筈の誰かに注意しながら靖十郎達を護って……夜は単身討伐と調査か)
睡眠時間が五時間程度確保できるだけありがたいけど、割と寝たがりの私にとっては結構きついんだよね。
須川さんなんかショートスリーパーらしくって二~三時間眠れば普通通り活動できるらしい。
まぁ、抱えている仕事の量や質によって必要になる睡眠時間が変わるとは言っていたけど。
(霊力ってどこから来てるのかわからないけど体調に直結しやすいみたいだし。男の人は割と波が少ないみたいだけど、女は一カ月に一度来る生理現象の影響も多少反映されるから視える時と視えないことがあるって雅さんから聞いたっけ)
私の場合は須川さんがその時の体調に合った仕事を割り振ってくれるからいいんだけどさ。
そんなことを考えながら、屋上へ向かう。
葵先生から借りた屋上の扉を開ける鍵を無くさないようにベルトに着けたケースの中に入れている。
歩く度に聞こえるくぐもった金属音は足音共に良く響いた。
学校独特の廊下や階段の床を歩く時の音や金属が妙に耳に残る。
非常口の緑と白のライトに照らされた階段や踊り場は薄気味悪いステージのようにも見えた。
無機質なクリーム色のドアは、薄く緑色帯びてまるで屋上ではないどこかに通じているような気さえしてくるから夜の学校っていうのは不思議だ。
鍵穴に取り出したカギを差し込み、回せば鍵の外れる音が聞こえてきたので鍵をポケットにしっかりと仕舞い、ドアノブを回した。
「シロ、屋上は足場が少ないからフォローお願い。チュンはコインを探してほしい。見つけたら教えてくれる?」
それぞれの鳴き声を聞いてからゆっくりとドアを押し開く。
甲高い金属音の後に暗闇が広がった。
雲で月が隠れているからか殆ど明りがなく、コンクリート部分がぼんやりと白く浮かび上がっている。
「フェンスのないタイプの屋上なら生徒立ち入り禁止っていうのも納得できるね。危ないし」
ドアを閉めて、初夏独特の涼しさの中にも昼間照り付けていた陽の匂いを感じて目を閉じる。
夜の空気の中に紛れ込む陽の匂いを感じられるこの季節は嫌いじゃないけれど、特殊な環境かつ状況だからか強い違和感が残った。
「幽霊や穢れはいないね」
まだここにはコインがあるからだろうか。
そんなことを考えて、不思議に思う。
(コインは元ある術式やなんかを“強化”する能力しかないみたいだけど、コインがあると幽霊が出てこないように見えるんだよね。事象と原因が必ずしも一致するわけではないし、理屈があるようでないことはわかっているんだけど……だからこそ見極めが難しいっていうか)
意思疎通ができる幽霊や妖怪の類が相手である方が楽だなァ、なんて考えつつ屋上の中央付近まで進む。
決して狭くはない屋上を見回せば、暗闇と森が広がっている。
あとはグラウンドとプレハブが並ぶ一角、そして体育館や授業用の校舎が暗闇でぼんやりと光っていた。
「月明りがなくても意外と見えるものなんだなぁ。幽霊もいないし、風も適度にあって気持ちはいいけど」
チュン、よろしくねと合図を送れば高らかに鳴いて暗闇を器用に飛び回っていく。
落ちないよう気を付けつつ出来るだけ中央付近を歩きながら、ぐるりと屋上を見て回ったけれどあまり様子が分からなかった。
屋上の縁から落ちないよう三歩分離れた所を歩いて、もう一度調査をすることに。
「シロ、そこにいて大丈夫?式神っていっても落ちたら危ないよ。降りて降りて」
私が落ちないようにするためなのか、シロはフェンスのないギリギリの縁の上を歩いている。
窘めてみたもののシロは首を傾げて首を横に振ったので、そこから降りる気はないことが分かった。
尻尾は低い位置で左右に振られ、ぐんっと胸を張って堂々と歩く姿は機嫌がいい時によくする動作だ。
屋上の縁は十センチほど高くなっているだけなので、落ちてしまえば確実に死が待っているのだろう。
歩きながら周囲の霊視をしているとチュンの鳴き声が背後から聞こえてきた。
ハッとしてそちらに近づけば、縁の上にちょこんと止まっている。
ちんまりした何処か丸っこいフワフワなチュンは見ているだけで可愛いくて思わず口元が緩んだ。
「チュン。コインはそこにあるの?」
チチチッと短く鳴きながらその場でピョンピョンと跳ねたかと思えば丁度、ヘリの外側の当たりを嘴でカツカツと突き始めた。
「座って縁を掴みながらなら落ちる危険性は少ないかな」
一応、というか念のためチュンのいる場所から少し余裕を持たせて簡易結界を張った。
すぐ横にはシロが控えて周囲を警戒しててくれるのでまぁ、大丈夫だろう。
チュンいる場所で膝をつき身を乗り出すようにして手探りでコインを探せば、つるりとした感覚とコイン独特の感触を指先で感じた。
「よっしゃ、発見!最後の一枚っ」
慎重にテープをはがし、しっかりコインを握り締めその場から離れようと足腰に力を入れた。
その瞬間だった。
立ち眩みに襲われたのは。
(うわ。コレ、やばい、やつ…――)
意識が遠くなると同時に耳元でチュンとシロが懸命に鳴いているのが分かったけれど、指先一つ動かない。
金縛りだな、と冷静に感じつつ背中にコンクリートの冷たさを感じ少しだけホッとした。
姿勢を崩して屋上から落下死、ということにはならなそうだと妙に醒めている思考を巡らせながら目を閉じる。
(抗いがたい睡魔には諦めて身を委ねることにしてるんだよね。雪山で遭難したら確実に死んじゃうかもだけど)
瞼を閉じると暗闇が広がって、静寂が訪れた後にパッと見覚えのある景色が飛び込んできた。
どこか霞みがかったその風景は、時間帯こそ違うものの確かに気を失う直前にいた屋上だ。
視線は激しくぶれて、遠くに見える山々や近くに広がる森、グラウンド、プレハブ棟、校舎、街に続く坂道、生徒と教師の声や騒めき。
そして―――…カチカチと絶えず聞こえる謎の音。
(何だろ、この音どっかで聞いたような気がするんだけど)
カチカチと規則的で速いその音が周囲に響くくらい大きくて、困惑しながら状況を眺める。
今の私が冷静なのはコレが夢やそれに近しいものであることが分かっているからだ。
そうじゃなきゃ絶対パニックになってただろうなぁ、なんて思う。
(って、この視点は完全にここで亡くなった生徒の目線だよね)
少しずつ近づいていくチュンが止まっていた屋上の縁に吸い寄せられていく。
一歩一歩近くなっていく景色に比例するように強くなる恐怖心。
あと十歩ほどで縁へ到達するだろうなと近づいていく景色を眺めていて不意に思い出す。
(そう、だ。この音は歯が鳴ってる時の音だ)
絶えず聞こえていたその音が途切れることはなくて、次第に視界が滲んで、鼻や目から液体が流れていく不快な感覚が強くなっていく。
――…ああ、泣いている。
激しくなる歯の音の合間に声変りが終わった少年とも青年ともつかない“当人”の声がこぼれる。
“たすけて” 死にたくない
“俺が悪かった、謝るからっ” 赦して
“ごめんなさいごめんなさい” もうしないから
“死にたくない” どうして
“どうしてこんなことに” 俺だけが悪い訳じゃないのに
流れ込んでくるというよりも押し付けられる『気持ち』と強い恐怖心。
縁ギリギリで立ち止まった体にホッとする間もなく、自然な動作で靴を脱ぎ、ぴったりと揃えていく。
動作一つ一つをこなすうちに強くなる焦りと恐怖。
靴を脱いだ後、奇妙なことに手が腰のあたりに回ったまま動かなくなった。
両手首が縛られているような状態で『彼』は落ちていく。
ギリギリの縁に立って、首を必死に横に振り“視えない何か”と“死”に対し抗っていた少年は、嘲笑を聞きながらゆっくりゆっくり落ちていく。
轟々となる耳元で聞こえる恐ろしい風の音と浮遊感、迫る地面。
窓越しに“誰か”と視線が合って咄嗟に助けを求めたけれど次の瞬間物凄い衝撃と何かが潰れるような音がやけに大きく響いた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
誤字脱字変換ミスに気付いた段階で無言修正をするつもりですが、気づいたらこっそり教えてくれると嬉しいです。気付くのに時間かかるんで…(白目




