【大仕事の前の静けさ】
学園編に入る前に軽い日常。
基本的に本編よりも幕間とかが好きです。
相変わらず、ダメな主人公と酷い上司の図。
嵐の前の静けさというか、厄介事が舞い込む前は大概平和なんだと思う。
微かに聞こえてくるセミの鳴き声と涼しげな風鈴の音色に口元が緩んでいく。
時折開けた窓から入ってくる夏の匂いを纏った風が気持ちよくて、凝り固まった肩をほぐすように椅子に座ったまま伸びをする。
「久しぶりのパソコン入力だったけど結構溜め込んでたんだなぁ。毎日少しずつでも合間を見てやった方がいいかも。オヤツの時間削るのは嫌だから、オヤツ食べながらでもいいよね。行儀は悪いけども」
経験を積ませるための修行という名の苦行をどうにかこなして、仮とはいえ一人前の判定を上司である須川さんから貰ったのは三日前のこと。
うっかり嬉しすぎて泣きそうになった私を出迎えたのは、未処理の書類たち。
色々とぐっすり眠れなかったこともあって徹夜もしくは徹夜に近い状態でようやく積み上げられた書類のデータ化を終わらせた。
忙殺的仕事量にうっかり新しい世界の扉を開けそうになったのは記憶に新しい。
「…うん、もういいよね!流石に今日は休んでも。一応書類は片付いた訳だし、少しばかり小休憩をとったところで大丈夫だと思うんだ。自分を褒めるのも大事」
仕事の達成感と同時に襲ってきた疲労感と眠気にあっさり白旗を振った私は、応接用のソファに横になった。
身長があまり高くないからかソファはちょっとしたベッド替わりになるんだよね。
足を伸ばして眠れるのでお昼寝にはちょうどいい。
クッションを枕替わりにして目を閉じると、夏特有の音が聞こえてきてあっさり私は睡魔に負けた。
本当はちょこっとだけ休憩するつもりだったんだけどね。
ほら、目を閉じてパソコンのブルーライトとかいうやつのダメージ回復を図ろうとしただけなんだ。
ほ、ほんとだよ?
うとうとを通り押して熟睡していたんだけど、体を揺すられる感覚にふっと意識が浮上する。
眠ていたのは体感時間でいえば五分くらいだった。
「―――……、…くん、…優君」
耳障りのいい穏やかで柔らかいその声には例えようのない、色気が滲んでいる。
ボヤけた意識の中で暫くその声を聞いていたんだけど、唐突に理解した。
(あ、あれ?でも確かまだ外出してるよね?戻ってくるの夕方くらいだって言ってたし)
だからきっと気のせいだと前向きに自己完結かつ自己暗示をかけて再び目を閉じる。
勿論、声が想像以上に近い場所から聞こえてきたという細かな事実もこの際、無視だ。
高くて座り心地も寝心地も抜群な一級品のソファに擦り寄ると小さなため息。
「優君、起きてください。ほら、口が開いていますよ」
再度かけられる声と揺れにほんの数秒間、私はいろんな葛藤を繰り広げて『万が一、泥棒だったら困る』という結論を出してうっすら目を開く。
泥棒でも、正し屋には殆ど現金がないから、盗まれるとしたら高級な調度品やら美品やらお菓子だろうか。
「むー…なん、れすかー」
折角気持ちよくお昼寝してたのに、と未練たっぷりにゴシゴシと目を擦る。
まず一番初めに飛び込んできたのは―――…テレビでも早々お目にかかれない見目麗しい男性の、非常にキラキラした満面の笑顔。
それを見た瞬間体に残っていた心地よい微睡みも倦怠感も全て吹き飛んだ。
血の気が音を立てて引いていくのがわかるだけじゃなくて、代わりに脂汗がぶわっと吹き出し、口が乾く。
ついでに、顔面の表情筋がビキッと引きつっていくのがわかった。
蝉の鳴き声や風鈴の音色の代わりに聞こえてくるのは、脳内の非常ベル。
「随分と気持ちよさそうに眠っていましたね、優君」
ノンフレームのメガネを中指で持ち上げ、位置を正してから彼は私の目をしっかり見つめてにっこりと綺麗に微笑んだ。
普通なら浮いてしまいそうな、鉄紺色の着流しと藍色にシロの縞模様が入った角帯は違和感なく普段着として馴染んでいる。
間違いなく一般庶民が気軽に身に付けられるような値段ではないであろう着物を現実逃避気味に眺めていた私は、ふと違和感を覚えた。
違和感の原因――――…それは、よくスーパーの調味料売り場にある緑色のチューブ。
どう見ても真新しいそれは何故か新品のくせに、内容量が驚くほど少ない。
(え、なんで須川さんワサビのチューブ持ってんの?)
疑問を持った瞬間、私はものすごい衝撃に見舞われる。
鼻から脳天に突き抜けるような独特活強烈な痛みと刺激と香り。
「――――…?!~~~~っ、………ッッッ!!!」
もう、悲鳴を上げることさえできなかった。
鼻から頭の天辺に抜けていくどうしようもない強烈な刺激に鼻と口を押さえてソファの上でのたうち回る。
勢い余ってソファから転がり落ちたけど衝撃なんて何の役にも立たない微々たる刺激だ。
未知かつ前代未聞な強烈な痛みと刺激に、体中からいろんな液体が吹き出てるんじゃないかとすら思う。
…いや、あの、汚いんだけどさ。引かないで。
その時はもうそんなこと気にしてられないくらい必死だったんだよ。
ぼやける視界と一向に薄れることのない痛みに悶絶しつつ、よろけながら必死に向かったのは給湯室。
立ち上がった時点で須川さんを睨みつけてバシバシ思い切りソファを叩いて遺憾の意を示してみたけれど彼は悠々と微笑んで
「すみません、何を言いたいのか私にはさっぱり…」
そう言いやがりましたよ、我が上司様は!!
鬼畜か!鬼か!あ、鬼畜って鬼か?
抗議した所で無駄だと悟った私は何処か満足そうな表情を浮かべて私の一挙手一投足を見守る上司に見切りをつけたのだ。
なんとか給湯室に駆け込んで、其の辺にあった大きなボウルに水をしこたま入れて思い切り飲み干した。
結局、一杯じゃ足りなくて追加でもう一杯飲む羽目になったんだけど、なんとか緑の悪魔が微かな余韻を残して消え去った。
わさび独特の刺激が大量の水によって洗い流されていく感覚は多分、しばらく忘れない。
あの清々しさというか開放感はちょっとした快感だ。
「おんのぉれぇ…ワサビめ…!ちょっと綺麗な色してるからって調子に乗るなッ」
畜生、と口汚く罵る私にかけられたのは、この惨状を生み出した張本人からのお茶の要請。
一瞬本気で無視してやろうか、とかボウルにお茶を入れて持ってってやろうかとも思ったけれどギリギリで踏みとどまって渋々、グラスに冷えた緑茶を注いで持っていく。
「……ど・う・ぞっ!!」
いつの間にかソファに座っている彼の前にどんっと勢い任せでグラスを置いて。彼の前にあるもう一つのソファにドカっと腰を下ろした。
「ありがとうございます。それにしても、随分ご機嫌ななめのようですね、どうしました?」
「(アンタの所為でしょーが!!)どこかの誰かさんが気持ちよく眠っていた私の口の中にワサビをしこたま突っ込んでくれた所為ですよっ!」
怒りを込めて睨みつけるんだけれど、彼は特に気にした様子もなく優雅にお茶を飲みながら「ああ、それは大変でしたね。瞳が潤んでいますよ」なんて言うもんだから私の機嫌はますます急降下していく。
「それにしても、そんな酷いことをするのは何処の何方でしょうねぇ」
なんてますますとぼけた事を言っている須川さんに何か言ってやろうと口を開いたんだけれど、今度は何か…固形物が押し込まれた。
「ぅぐも…っ!?」
「帰りがけに購入した“福丸亭”のイチゴ大福です。ここ三日間頑張っていましたから、ご褒美に…――――美味しいですか?」
悔しかった。
でも、固形物の正体がわかったのでおとなしく咀嚼していく。
もっちりしているのに滑らかで柔らかい求肥と丁寧に処理をされたこし餡、おお振りで酸味と甘味のバランスがいい上に香りまで強い苺のコラボレーションに思わずうっとりしてしまう。
苺を引き立てるように調整されたこし餡の甘味はもはや芸術だ。
「(ああ、悔しい!悔しいけど、でも…っ)……ふごく、おいひい、れふ」
怒りも何もかもどうでも良くなって、もっきゅもっきゅと至福のひと時を満喫する私に差し出される笹の葉にくるまれた掌大の包み。
「それはなによりです。こちらもどうぞ…私の分も差し上げましょう。これも“福丸亭”の限定商品“笹大福”です」
「うえぇえ!い、いいんですか?ホントに!?」
確かめるようなことを言いつつ、笹大福は既に私の手の中だ。
うん、体って正直だよね!
一応、包を開けるか開けないかの所で、なんとか踏みとどまってチラリと彼の様子を伺ってみると普段通りの穏やかな笑みを浮かべて首を縦に降っている。
現金な話だけど、私はこれで『微睡みワサビ事件』を水に流すことにした。
小さなことを気にして恨むなんて大人としても人としてもダメだもんね!
切り替えが大事なんだよ、切り替えが。
(にしても“福丸亭”の苺大福や限定商品なんて一日二十個しか作らないのによく手に入れられたよね。真夜中から並んでる人も少なくないくらいなのに)
生産数がかなり少ないので開店と同時に売り切れることでも有名で、値段はひとつ六百円もする。取り置きも予約もできないので総理大臣であろうと大スターであろうと朝から並ばなければならない。
有り難く笹大福をお腹に収めた私は給湯室へ戻り自分の分のお茶を入れてソファに戻る。
「…でも、流石にワサビをしこたま口の中に突っ込むのは酷いと思います!」
水に流すと決めたのはいいものの、同じことをされては困るので釘を指す意味で須川さんを睨めつける。
すると、彼は何故か煌めいた笑顔を浮かべて私を見る。
「(あ、あれ?なんか地雷踏んだ?)す、須川さん…?」
「では、私からも尋ねましょうか。三日三晩どころか一週間ほど丑の刻過ぎに帰宅し、一時間足らずの睡眠を取った後に起床、すぐさま仕事に取り掛かって数日…ようやく全ての仕事が片付いてようやく休めると事務所に戻ってきたのに、出迎えどころかソファで暢気に寝こけている部下を発見したらどう思います?偶然、そう…本当に偶然目に付いたワサビをお仕置きに使っても仕方がないかな、とは思いませんか」
淡々と笑顔で話す彼から滲み出るのは肝が冷えるどころか凍えてしまいそうな霊気。
ひぃっ!と意図せず漏れた悲鳴に彼の笑顔はますます輝きを増して、返事を促すように「どうおもいます?」と麗しく首をかしげた。
「ぅぐ…!そ、それは、その…す、スミマセン。で、でもワサビはもう勘弁してください!まだ鼻痛いんですからっ!」
確かに私が彼の立場だったらソファひっくり返すか、氷水を頭からぶっかけるくらいはするかもしれない。
そりゃそうだよね、普段から色々過激な須川さんならワサビしこたま突っ込むくらいするよね。
酷いけど落ち度は私にあるんだし、仕方ない。
ワサビ嫌いだけど、唐辛子一瓶じゃなかっただけ須川さんにも良心があったんだと思っておかなければ。
「こ、今度お昼寝する時は許可とってからにします…」
がっくりと肩を落として頭を抱える私をみて、須川さんが必死に笑いを噛み殺していたことに気づいたのは数十秒後だった。
何だかんだでこの日、私たちは食事をして早々に床についた。
この行動で、次の日舞い込んだ厄介で私にとって初めての大仕事になる依頼を揃って聞くことになった。
もし、いつものようなサイクルで起きていたら須川さん不在で後日返答ということになっていただろうに。
まぁ、とりあえず、私は毎日頑張って仕事に励んでいます。
読んでくださってありがとうございました!
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評価、ありがとうございました。とても励みになります。