【悪夢をなかったことにして】
山の中で全裸になると蚊の餌食になると思います。
蛭やらダニなんかもいるだろうし、おすすめはしません。
私を悪夢から救ってくれたのは、弱い筈の、強い存在。
悪夢を終わらせてくれたのは、悲鳴でも恨み辛みの声でもなかった。
小さな…―――本当に小さくて、うっすら聞こえただけの音は、意識し始めるとしっかり私の中へ浸透してきた。
チチチチチッ、という可愛らしい鳴き声は少しずつ、苦痛に満ちた音を消していく。
冷たく重い声は完全に聞こえなくなった訳じゃないけれど、泣きたいくらいホッとした。
そして意識が覚醒していくのに応えるように、体の末端からじんわり温まっていく。
凍えてしまったかのように感覚がなくなっていた指に安心感と血液が廻り始めるのを感じて、深く息を吐いた。
「まいった…なぁ」
まだ頭の片隅に悪夢の余韻が残っている。
絶対に普段の生活では耳にすることのない悪意と敵意に塗れた声が頭の中で反芻されて、血液にのり、全身にばら蒔かれて温度を奪っていった。
カタカタと震えている手をぼーっと眺めていると、小さな音が聞こえてきた。
ハッと顔を上げて暗闇に目を凝らす。
ランタンの明かりだけが仄かに洞穴の中にある状況だからか、酷く見えにくい。
洞穴の外には灯り一つなく、いつの間にか月明かりすらなくなって…夢の中で見たような純粋な黒が広がっていた。
濃淡すらない完全な黒い空間に少しずつ、自分の呼吸が浅くなっていく。
「(…なんの、音だろう)」
木々や岩の陰影すら見えない洞穴の外を見つめているとやっぱり微かに音が聞こえる。
息を潜めてじぃっと耳を澄ませる。
どうやら、それは枯れ葉が擦れ合う、独特の軽い音のようだ。
枯れ葉なら寝袋の下にも敷き詰めてあるし、そこから発生した音なら聞かなかったことにして寝直すこともできるのに、聞こえてくるのは外なのだ。
「ッ……!」
近づいてくる、近づいている、と認識した瞬間私は慌てて怪我をした雀を掌に乗せてランタンの明りを消した。
ランタンは手元に置いていつでも逃げられるよう静かに寝袋から起き上がる。
音はまるで“誰か”が歩いているみたいだった。
一定のリズムで カサッ カサッ と比較的軽そうな音からするに女性や子供なのかもしれない。
音は微かに、でも少しづつ近づいている。
自分の足音を極力消そうとしているような、そんな印象を覚える足取りだった。
ランタンの光を消したからか暗闇が一層深くなったような気すらしてくる。
私はゆっくり、ゆっくり ――― 音を、たてないように細心の注意を払って…―――体を丸めていく
視線は外に繋がる唯一の入口に固定されたままだ。
何も視えないのはわかっている。
でも、どうせ目を閉じたところで広がるのは変わらない暗闇なんだから、少しでも相手の隙を見て逃げ出せる用意を…とそこまで考えて、自分の口から音が漏れていることに気づいた。
カチカチカチカチと神経質な歯が噛み合わないことで生まれる耳障りな音に気づいて、私は慌てて唇を噛んだ。
(もしかして、気づかれた?大丈夫、だよね…?)
お願いだから、と睨むように洞穴の外を睨みつける。
鼻の奥がつーんと痛んで、瞳に涙が溜まっていくのがわかったけれどそれを拭う余裕はない。
ぎゅっと仄かに温かい雀を守るように両手で包み込んで息を殺す。
静寂の中で聞こえてくるのは…
(あ、れ…?ちょっとま、って。音が、増えて…ない?一人分じゃ、なくなってる)
音が増えていることに気づいて戦慄する私を放置して、足音のような枯れ葉を踏む音が増えていく。
音はもう、いたるところから聞こえてきているようだった。
それらが目指すのは、この洞窟なのかもしれないと考えた瞬間、不安が一気に吹き出した。
「(これやばいよね?!どーかんがえても私、危ない感じだよね?!確かにここは寝るのにも雨宿りにもちょうどいいけど、集会と集合地点には向かない!幹事さんっ、いるならいるで場所くらいしっかり決めとけ!幹事がいないなら言い出しっぺ!もっとわかりやすくていい場所あったでしょ?!なんでよりによってここなの!?もっと途中に手頃な大岩とかあったのに!怖いってば!私が怖がっても出るのは涙と鼻水と奇声くらいだって考えりゃわかるでしょーよ!!私より馬鹿だなーって言われても知らないんだからねっ!弁解もフォローもしてやんないんだからっ)」
怖すぎて、なんだかもう腹が立ってきたんですけど!
なんて、八つ当たり気味に暗闇を睨みつけた。
不安と共に吹き出してきたのは怒りだった辺り、私らしい。
やけっぱちで「来るなら来い!」と腹立たしさもそのままに入口を睨みつけると、聞こえていた無数の足音が一斉に止まった。
「(あ、あれ?もしかして私の開き直りが通じた?!)」
それはそれで嬉しいんだけど、と能天気なことを考えつつ緊張と不安を無理やり押さえ込む。
戻ってこなくていいからね、恐怖心。
どこかへ帰りなさい、お願いだから。
小さく、極力音を立てないように吐いた溜め息は、まとわりつくように湿っぽく…けれど肌寒い夜の空気の中に消えていく。
自分の心臓の音しか聞こえない静寂の中で突然聞こえてきたのは、悲鳴とも絶叫ともつかない音。
正確には声なのかもしれないけれど、まるで金属が軋むような、けれど低音でおどろおどろしい音が響き渡った。
突然聞こえてきたそれに体がビクッと反応して寝袋と枯葉がかすかな音を生み出したけれど、それに気を配る余裕はない。
外から聞こえてくるのは酷く大きい恐ろしい音と、何か…怒号のような咆哮。
恐らく犬系の唸り声や吠える音に、枯れ葉が激しくガサガサと踏み荒らされるような足音。
生々しい争いの音がひっきりなしに聞こえてくる。
「(いったい…なにがどうして、私の寝床の前で決闘してるのかわからないけど…今のところは安全、なのかな?)」
何せ、敵が目の前にいるのだから、脇役かつ雑草的な私に構っている暇なんて微塵もない筈だしね。
だってよそ見してる隙にカプっと相手にやられちゃったら堪らないだろうし。
最終的に勝敗がついて、お腹いっぱいになってくれたら確実にこの場所から離れるだろう。……動物は好きだけど、野性の掟に首を突っ込む度胸も覚悟もないですから。ええ、無理です。痛いのやだし。
「(そもそも、外にいるのが野犬の類じゃなくって、熊っぽいのとか、荒ぶる鹿っぽいのとか猪っぽいのだったら私は確実にお夜食もしくは動く遊び道具と化すだろうし)」
私はこの森の頂上にたどり着いて、美味しいお料理と温泉を満喫するって決めてるんだ。上司様の奢りでね!
「(それにどうせ死ぬなら美味しいものを吐くまで胃袋に詰めて存分にゴロゴロして、お風呂入って昼寝してる時って決めてるんだよ、目指せ大往生!)」
というか、私こんなところで食べられるような後暗い生き方してないよ!
まっさらな善人じゃないけど悪人でもないし。
若干現実逃避気味なことを考えている間も、生々しい獣の咆哮や奇妙な悲鳴を聞きながら…ふと、思い出す。
「(そういえば夢から覚める時に聞こえたのって、雀の鳴き声、だよね)」
ちらりと怪我をした雀を見るけれど、やっぱり静かに呼吸をしているだけで起きる気配はない。
所詮は夢の中の話だから、助けた雀が助けてくれた~なんて御伽噺的展開にならないのが現実だ。
色々と想像力豊かな私でも現実と夢の違いくらいは認識できるよ!
…時々寝ぼけて美味しいものと勘違いしたまま枕に齧りつくことはあるけども。
最近見たのは両腕で抱えるくらい大きくて美味しそうな豆大福を須川さんに取り上げられる夢だった。
他にも色々と食べ損ねたなーなんて考えている私の耳に、再び大きな雄叫びが飛び込んでくる。
暗い闇に響き渡るだけじゃなくて、洞穴にいる私の体にも伝わるビリビリとした音の振動。
ヒュッと甲高い息を吸う音が自分の喉から聞こえて我に返った。
「(すっかり忘れてたけど、外ではサバイバルな野生の戦いがって…妄想してる場合じゃなかった!)」
一体どうなった、と意識を“外”へ向けると、唸り声も悲鳴も、この葉を踏みしめるような足音すら―――…何も、聞こえてこない。
何も見えない暗闇と重くどこかまとわりつくような静寂が広がっているだけで、さっきまで確かにいた生き物らしきものの気配もない。
綺麗さっぱり消えた形跡に思わず、口の端が引きつったように持ち上がった。
背筋を走る冷たく鳥肌が立つような感覚に私は静かに音を立てないよう注意を払って寝袋に潜り込んだ。
「…………ねよう」
多分だけど今日はもう何も起こらない。
外に出て何があったのか検証するのは、ちょっとした自暴自棄だろう。言い方を変えるなら自殺行為でしかなさそうだし。
朝になれば太陽の光が少なからずはいるから見やすくなる筈だ。まぁ、朝になっても何があったのか全くわからない可能性の方が高いけど、それはそれだ。
「おやすみー…全部明日だ。今日はもうお腹いっぱいだし、色々と」
会ったことも見たこともない神様はきっと、私に寝ろって言ってるんだ、なんて考えながら目を閉じる。
もごもご小さくボヤきながら私は頭まですっぽり寝袋に収まって、ようやく深い眠りについた。
◇◇◇
朝、無事に体が欠けることなく目を覚ますことができた。
寝起きは意外と良くて気分よく昨日作ったお茶で軽く口を濯ぎ、湯冷ましの水を飲んでからタオルを持って一夜限りの寝床をあとにする。
ちなみに、雀は気持ちよさそうに眠っていたのでそっとしておいた。
元気になるまでは一緒にいて欲しいけれど、野生の生き物だし、とっとと治してこのデンジャラスを極めたこの山から出ていくべきだと思う。ここ、明らかに永住には向かないからね。
「うーん…やっぱり何もない、か。動物っぽい痕跡も、人間っぽい足跡も、毛とか血の痕とかも…あれ、夢だったのかな」
臨場感たっぷりの夢だったんだろうか、と考えて自分がそんな器用なことができるとは到底思えないので少しだけ、真面目な顔をして考える。
どんな顔してても見てる人はいないんだけどね、雰囲気ってやつだよ。うん。
独り言をつぶやきながら、探索と調査をやめて目的の川へ向かう。
先に水浴びをしてから昨日の罠に魚がかかっているかどうか確認して、いたらお持ち帰り、いなければ罠を回収して、今日の夜の寝床付近に仕掛けることを決めた。
「あー…なんか朝っぱらから山の中で全裸ってすごく危ない人みたい。開放感すごいけど」
悟りを開いたような顔をしてるんだろうな、なんて考えながら次から次に服を脱いでいく。
寒いのは嫌だけど、健康的な汗とか泥とか冷や汗とか脂汗とかを綺麗さっぱり流して、ついでに身につけていた下着も洗ってカバンにぶら下げて乾かそうと決めた。
いや、あの、ちゃんと恥ずかしいよ?!ちゃんと人並みの羞恥心くらいあるよ!?
でもいいじゃないか!ここ、人なんていやしないんだから!
下着が乾くの待つくらいなら先に進んで少しでも早く頂上に出たほうがいいに決まってるんだもの。
いい年下女がパンツぶら下げて歩くことで失うものと安全な場所で寝食確保されることの安心感どっちとるかの問題だよ!私は断然後者だ!
誰に言うわけでもなく言い訳じみた独り言を言いながら、緩やかな流れの川へ素足をつける。
「つ、つべたい…!!う、うぅう…で、でも我慢できない温度じゃない…夏で、良かった。冬だったら確実に凍死だ」
川の中の石ですべらないように気をつけながらゆっくり少し深いところまで進む。
深い、といっても精々私の腰くらいまでの深さしかない川だ。突然深くなる可能性もあるので慎重に進む。
ザッパザッパと豪快に須川さんが用意してくれた自然に優しい石鹸やシャンプーなんかで全身を洗浄して、戻る途中に罠を仕掛けたあたりまで進む。
どーせ誰も見てないんだし、相手は魚だと素っ裸のままだ。
岩や苔に注意をしながら進んでゆっくり罠を覗き込む。
「!い、いたー!!しかも美味しそうなベストサイズが3匹!うっわ、美味しそうー!塩焼きにして食べよう、ああ、あと昨日の山菜!あれも探して戻ろう、うん、きっとまだある筈っ」
いやっほーい!と思う存分声を上げて喜んだ私は罠を慎重に川岸へ。
浅いところに付けておいて、先に体を拭いて服を身につける。
「魚が食べられると思ったら水の温度とか気にならなくなってきたし、気合入れて今日も山登り頑張るぞー!ガンガン進んで、明日には到着できるように今日の目標は中腹より少し上まで行ってやる!」
綺麗な水の流れる川辺で、成人した女が独り言を豪快に叫びながら素っ裸で水浴びしてる状況こそ一種のホラーだよな、なんて脳裏に浮かんで私は天に突き上げた腕を静かにおろした。
しかも、場所は自殺の名所として名高い山だ。
「……独り言、控えようかな」
冷静になってしまった私は自分が置かれている現状を思い出して項垂れる。
私、山を降りる頃には立派な野生人になってるかもしれません。
うぅ、腰に葉っぱで作った腰みのとか巻いてたらどうしよう。
何だかんだで作れそうなのが悲しい。
彼らに気づくまで、もうすこし…―――――――
山歩き、秋はよいよい冬は怖い。寒いし。
ここまで読んでくださってありがとうございました。