彼と花
彼が窓の近くに立って、呟くような小さな声で
僕にこう言ったことがある。
「僕はさ、花が嫌いなんだ」
それは唐突な呟きだった。
そして、僕にとっては意外な一言でもあった。
彼は、クラスで花を育てる係だったのだ。
「どうして?君は花係じゃないか?
そんなこと言うべきじゃないよ」
机に座りながら僕はそう尋ねた。
すぐそばの彼は外を見たままで言った。
「だって、終わってしまうじゃないか」
「終わってしまうってどういうこと?」
「花がさ」
「花?でも、種をまけば、また花が咲くよ」
僕はそう答えたけれど、
彼は何も言ってくれなかった。
外をずっと見続けている。
窓からは校庭が見えた。
校舎二階の端にある、この教室からは校庭全体がよく見える。
走り回る下級生も、遊具で遊ぶ同級生も、
青々と茂る木々も、囲まれた花壇に咲く花も。
太陽の光は強く、外は光に満ちている。
窓の外がよく見えるのは、ここが教室の中だからだ。
此処なら適度な光しか届かない。
僕にはそれが心地よい。
彼はしばらく窓の外を見続けていたけれど、
突然僕の方を見て言った。
「また咲いたとしても、それは本当に同じ花なのかな?」
「それはそうだよ。だって同じ花の種から咲いたんだから」
彼は僕の言葉を聞きながら、僕のことを見ていた。
彼が僕の瞳を見ていて、僕も彼の瞳を見ている。
なんだか彼に心を覗かれているみたいだ。
こそばゆくなって、僕は目を反らした。
負けたような気がしたから、もう一度彼の方を見たけれど、
彼はまた窓の外を見ていた。
彼がまた呟くように言った。
「なんだか僕らみたいだね」
僕は先生から、
あなたは「りはつ」な子ね、
と言われたことがある。
「りはつ」というのがどういう意味なのかは分からない。
けれど、先生の顔は優しい笑顔だったし、
声もゆっくりで綿飴みたいに柔らかだったから、
きっと褒めてくれたのだ。
だから、僕は彼に教えてあげたのだ。
花はまた咲くよ、って。
でも、上手く言えないもやもやが僕の中に生まれていた。
彼の言葉を聞いてから、どうにもすっきりしなかった。
ピーマンを食べた後の苦い口の中みたいに、いやな感じがする。
花は何度も咲くと先生が教えてくれた。
今年の花が散って、種を落とす。
それを来年蒔くと、また花が咲いて、種になる。
来年も、再来年も、その次の年も、その次も、その次も。
そうやって何年も何年も花は咲くんだと、先生は教えてくれた。
彼が言ったことが分からない。先生なら分かるだろうか。
「君はさ、どう思う?」
窓を見続けながら、彼がそう言った。
「どうって?」
「僕たちが花みたいなのか、そうじゃないのかってこと」
「花じゃないよ。僕らは人だもの」
僕らは人。
話して、歩いて、考えて。
そんなことが出来るのは人だけだって先生が言ってた。
けど、花は話せないし、歩けないし、考えない。
だから人じゃない。僕らとは違うんだ。
彼がまた、呟くような声で言った。
僕は彼の話を聞こうとしていたから、彼の声ははっきり聞こえた。
「僕らはいつか死んでしまう。
たくさん生まれただろうね。
おじいちゃんとか、おばあちゃん。お父さんとか、お母さん。
僕らがいて、子供が出来るかもしれないよね。
……、でも生まれたらみんな死んじゃう。
みんな人だけど、同じ人じゃないだろ」
「それは……」
それは、その通りだった。僕らは一人しかいない。
同じ人なんて一人だっていない。
(でも、花とは違うんじゃないかな。)
と僕が考えていると、
「花はさ、同じじゃないよ。全部ね」
と彼は言った。
咲いた花はすべて違うものだ。
同じ種であっても違う花なのだ。
先生が前に言っていた、
それしかないということが大切な理由なんだ、と。
もしかしたら人も同じなのかもしれない、と僕は思った。
窓の外を見ていた彼が、にやりと笑った。
「外が眩しいね。いろんな花が眩しい」
光に満ちた窓の外の風景は、
さっきよりも何倍もキラキラして見える。