遭難
完全に迷ってしまった。いや、遭難というべき事態か。俺は、ある山に登山仲間とともに登ったはいいが一昨日の霧(それは一寸先すら見えないくらいの濃い霧だった)の中ではぐれてしまった。あの時、山小屋で霧が晴れるまで皆で待てばよかったのだ。霧が晴れたときには仲間の姿が無く。しかも見覚えのない道に居た。この山には何度か登ったことがあるが、こんなことは初めてだ。本来ならば全員今日の夕方には下山する予定だったのだが。この山で携帯はほぼ使えない。皆と合流できそうにもないので仕方なく来た道を引き返すが、まったく山を下りている気配がない。むしろより山深くに向かっているような気配すら感じる。しかも見慣れない景色 ―美しくはあったが― だ。食料に余分はないし、夕暮れが迫っている。せめてみすぼらしくてもいいから山小屋が無いものか。少しの空腹を感じる。
しばらく歩いていると突然、広い道のようなところに出た。幅は4メートルほどだろうか両側は少し盛り上がっていて数十メートル先で左にカーブしている。明らかに人工的な匂いのする景色だ。少しばかり勇気づけられた。ここを歩いていけば、もしかすると人の居る集落とかに行きつけるかもしれない。しっかりとした路盤であることが足から伝わってくる。カーブを曲がると左側は崖ほどではないが斜面になっている。右側は急な斜面で所々道に崩れている。100メートルほど進むと今度は右にカーブしている。また道の両側に急な斜面があらわれる。カーブを曲がったところで俺は息をのんだ。
ぽっかりと黒い穴を開けたトンネルが目の前にあった。赤いレンガ造りで少し年代を感じさせる。これは、この道は廃道、それとも鉄道の廃線なのだろうか。目の前に現れた暗い穴をみて少し恐怖を感じる。夕日に照らされたトンネルに向かって空気が流れていく。貫通はしているのだろうか。風がトンネルの中に向かって吹いているということはそういうことだろう。どのくらい立ち尽くしていただろうか。引き返したところであの見知らぬ山道に戻るだけだ。リュックからライト ―これはかなり明るさの強いライトだ― を取出してトンネルへと足を進めることにした。
入り口は湿っていたが数メートル進むと空気が乾燥してきたのが分かる。土のにおいと少しカビ臭いにおいがする。足元は粒の小さな砂利が敷かれている。ライトで先を照らすがよく見えない。トンネルの壁は思ったよりきれいだ。造ってから間もないようにすら感じる。出口らしい明りは見えない、かなり長いトンネルのようだ。どのくらい歩いたろうか、焦りと暗闇の恐怖に思わず走り出しそうになった時突然、先を塞ぐ壁があらわれた。
「そんなっ!」
思わず声にだした。ここにきて行き止まりなんて。と思ったがそのコンクリートと思しきものでできた壁をよく見ると、人が通れそうな金属製のドアがある。そして上の方は格子状になっており、空気は相変わらず流れているようだ。ドアが開かなければ万事休す。そう思いなが冷たいドアノブに手を掛けた。
ドアは抵抗もなく開いた。そして、そこにはこれまでのトンネルより明らかに大きい断面の空間があった。明りらしきものはないのにどこかうっすらと明るい。中に進むと何か気味の悪い感じに襲われた。振り向くとドアが音もなく閉まった。はっと思って駆け寄るが、ドアノブがないっ!閉じ込められた。パニック。ドアを叩く。自分の叫び声。
ドアの前で座り込む。改めて自分の居る空間を見まわす。壁はコンクリートの様で20メートル四方はあるだろうか。右側の壁に数段の階段とまたしても金属製のドアがあった。
「いったい何なんだよ!」
ともかくどうすることもないのでそのドアに向かった。
今度は地下道のようなところに出た。今度のドアにも反対側にドアノブが無かった。しかし天井に照明が付いている。遠くから物音が聞こえる。明らかに人がいるぞ。そう思いなが俺は走り出した。
今思えばどう見てもおかしな話だ。山奥の廃トンネルの中がそんなところに繋がっている何なんて。空腹、疲労、焦りが冷静な判断力を鈍らせていたのだろう。もしかしたら廃道の時点でおかしかったのかもしれない。
数百メートル走ると上り階段があった。階段を上がり、またしてもドア。思いっきり開ける。眩しい光に目を細める。ゆっくり目を開ける。
目の前には多くの人が行き交っている。駅構内といった感じだ。安堵するとともに疑問が湧き上がってきた。ここは何処だ。山奥のトンネルがなぜこんなとこに繋がっているのだ。行き交う人に尋ねようとするがまるで無視される。こんなところで登山の格好をしてるからか。まあいい、ともかく腹が減った。売店でも食堂でも食い物を先に買うことにした。
ちょうど近くに売店があった。パンと水を買おうとしたが店員は見向きもしない。俺は怒鳴ったが店員も周囲の人もまるで無視。俺はカッとなって商品を引っ掴んで金も払わず売店を出た。しばらくして我に戻りしまったと思ったが誰も追いかけてこないし、騒ぎの一つもない。売店まで引き返してみたが先ほどの店員も何事もなかったかのように仕事をしている。今度はあからさまに金を払わず商品を持って売店を出た。誰も気にかけようとしないし、まるで店員には俺が見えていないかのように思える。俺は気味が悪くなった。
「おいっ、てめらーらには俺が見えないのか!」
俺は叫びながら人を押し倒し、物を散らかしたが、人々は不思議そうに周囲を見渡すばかりで、俺を咎める人はいない。俺は疲れ果て、壁にもたれ掛かって座り、行き交う人々を眺めた。きっとこれは何かの間違いだ。悪夢でもみているのだ。そう思いながら眠気に身を任せようとしたとき、
「あんたも迷いこんじまったのかい?」
突然声を掛けられた。俺はハッとして目を開けると目の前に、俺より少し年長だろうか、スーツ姿で長身の紳士が立っていた。その横には小柄で無精髭の男がいた。かがみこんで俺の顔を心配そうに覗き込むメガネの女性もいた。俺は飛び起きていった。
「俺のことが見えるんですか」
それに紳士が答える。
「久しぶりに騒ぎが聞こえたからね。もっとも僕たちにだけだけど」
俺には聞きたいことだらけだった。いったい此処は何処で、何なのか、なぜ存在していないかのような扱いを受けるのか。どうすればここから帰れるのか。
「多くの質問には答えられないな。僕たちだって今の状況に置かれてから何も分かっていないからね。ただ言えるのは、ここはどうやら巨大な駅ビルのようなところで、外には出られないということ、勝手気ままなことをしても誰も咎めないことかな」
紳士はゆっくりと落ち着いた口調で話した。俺は呆然とした。余りにも滑稽で信じがたい。これは夢ではないのか。だが、紳士は続けた。
「嘘だと信じたいだろうけど、君自身がこれは夢なんかじゃないことはよく知っていることだろう」
「ともかく、新しい仲間が増えてよかったわ」
メガネの女性もそう言った。
「さっそく歓迎会でもするか」
髭の男も続けた。そのあと彼らは売店から酒や食料を堂々と持ち出し、人が行き交う中で宴会を始めた。もう、どうにでもなれ。これまでだって大して世間は俺に無関心だったではないか。そう思いながら俺は一気に酒を煽った。
この作品は著者がある晩に見た夢をもとに書かれたものです。