第一話
ストレス発散突発企画の新作短編第二弾でございます。企画としては第五弾目でございます。ヒクイガラスさんにリクエストいただきました。改めましてありがとうございます! しかしまたもやなんかこう……ちょっと違う(笑)
しかも短編企画なのに長すぎて分割になりました。恐らく二話で終わる……と、思われます。よろしくお願いいたします。
「だからさ、可愛いは正義なんだよ!」
「いやまったくもってその通り!」
安い居酒屋で息巻く男性陣と、なぜかその中に交じる女性ひとり。それを見つめながら、またやってるよ、と呆れるのは同じサークルに所属する仲間たちだ。
可愛いは正義。そう発言したのは凛々しいと呼ぶにふさわしい女性だった。真っ直ぐな黒髪は顎のラインで丁寧に切り揃えられ、前面よりもうなじ部分はやや短くなっていて、綺麗な首筋が色香をそそる。意志の強い眉毛も、控えめな化粧も、どこか中性的ともいえるその雰囲気によく似合っていた。
「相変わらずだねえ、姉御は」
「なんだろう……私、姉御だったらいい」
「紳士的だもんねえ」
どこかふわふわとした視線を感じたからか、姉御と呼ばれた女性は少し異様な空気を醸している三人娘へと顔を向けると、離れた席からわざわざそちらへと移動してくる。頬を赤くしながら首を傾げる三人娘に、柔らかく微笑んで近寄る彼女は、姉御というよりも王子様のようだと誰もが思っている事だろう。
「こーら。またそんなに顔を赤くして。呑みすぎだよ」
こつ、と額を優しく叩かれて、しかしその場にいる恐らくは『可愛いは正義』に該当する女性たちは、悪い気はしないどころか本気でときめいている自身を自覚していた。
「そんなに呑んでないよう」
「はいはい、酔っ払いの言うことは信用しませーん。こっからここまでに座ってる女子! お前らもう酒禁止。あとはソフトドリンクを飲むように!」
指定された部分に座っていた女性たちは、皆一様に不満そうな声を上げるものの、どこか嬉しそうだ。その様子を見た男性陣は、とても複雑な気持ちだった。
シンプルなワインレッドのカットソーに、これまたシンプルな黒いスキニーパンツ。V字の襟ぐりから覗く鎖骨も、すらりと伸びた足も、綺麗で色香を放っているはずなのに、女性にやたら優しく、男性にやたら共感して話をするので、誰もが姉御と呼ばれた女性の性別を忘れる。
「それと――」
「杉崎?」
てっきり女の子たちに釘を刺したらまた男連中の席に戻って来るだろうと思っていた部長という肩書きを持ちながらもどこか姉御――杉崎任せにしてしまう大野は、空席のままになっている隣を一瞥して移動を続ける杉崎に視線をやる。名前を呼ばれたからか、一瞬振り返って手をあげた杉崎は、まさしく姉御と呼ぶにふさわしい格好良さがあった。
「永瀬、あんた顔色めちゃくちゃ悪いよ。動ける?」
永瀬と呼ばれた男性は、何かをこらえるように小さく頷くと、杉崎は同じように頷いた。永瀬の隣に座る男性に視線を移す。
「市川。ちょっと肩貸してくれる? そっち側持って」
「! は、はいっ」
左隣に座っていた市川は、永瀬の右腕を自身の肩に回した杉崎に慌てて頷くと、彼女にならってやはり左腕を持った。
「永瀬、ゆっくりでいい。トイレまで頑張れ」
無言で頷く永瀬はよほど気分が悪いようで、元気がないな、くらいに思っていた市川は、どうして気付いてやれなかったのだろうと自責の念に駆られる。
「大したことないよ。みんな続きやってて」
微笑みを残して去った杉崎の言葉に、緊張した空気は霧散した。残ったのは憧れの眼差しを向ける女性陣と、どこか面白くないような完敗だと感じるような複雑な感情を持った男性陣だ。
「どうやってこの距離で気付くんだよ」
「ていうか部員の顔と名前まさか全員、覚えてんの? あいつ」
「確かに、誰だっけって言ってるの聞いた事ねえわ」
「多分全員把握してるよなあ……うちの部員て今もうけっこうな人数いなかったっけ」
映像研究会などという大げさな名前を持つこのサークルは、月に何回か何人かのグループに分かれて好きな映画を観に行く程度の活動しかしていない。飲み会ばかり多いので、実態はあってないようなものである。本当に映画が好きな連中はそれこそよくつるんで映画を観に行ったり、朝まで討論したりなんて事もしなくはないが、基本的にはお遊びサークルと言って良かった。
昨今は色々な煩わしい問題も少なくないが、この集いは非常に居心地が良かった。本気で映画が好きな人間も、そうではない人間も、分け隔てなく楽しめる雰囲気がある。集団行動が好きな者と、あまり得意ではない者を統べるバランス感覚が優れているからだろう、と部長である大野は思っている。まあ――ほとんどが姉御と呼ばれる人物の功績であるが。
「あいつには毎度頭が下がるわ」
大野の言葉に、どこか複雑そうだった何人かの男性部員も、苦笑して頷いた。
「杉崎なあ、めちゃ良いやつだけど、ストレス溜まらねえのかな」
「そうだよなー、あんだけ気を遣ってたらなあ」
「永瀬大丈夫かね?」
「まあ、杉崎いるしなあ……」
「部長、今日は仕事しろよ。最後まで仕切れ」
からかうような言葉に、わかってるよ、と大野は呟いた。
「どう? すっきりした?」
「はい、すいません……」
「それはいいから。んー、顔色まだちょっとよくないね。永瀬の家ってここから遠い?」
「あー……そいつ実家だし、近くはないです」
トイレから出て、少し外の空気を吸おうと居酒屋を出て、三人並んでいた。外気は案外ひんやりとしていて、夏ではあるが心地良い風が頬をかすめていた。涼しすぎる室内よりも気持ちが良い。
困った顔で頭をかく市川に、そっか、と杉崎は頷く。
「永瀬、元々体調悪かった? 薬、風邪のやつと胃のやつ、どっちがいい?」
「え? あ、いえ、あの、たぶん夏バテ気味だったからだと思います……」
「ん、じゃあ胃のほうね。次の日楽だから飲んでおきな、はい」
ペットボトルの緑茶と胃薬を同時に渡されて、永瀬と市川は目を丸くする。どうしてそんなものを持っているんだ、という視線を同時に向けられて、杉崎は微笑んだ。
「胃薬はけっこう必須だから。他もまあ、備えておいて損はないでしょ」
「お茶は……もしかして、さっき永瀬がトイレにこもってる時に買ってきてくれたんですか? ちょっと席を外してましたよね」
まあね、と肩を竦める杉崎に、市川と永瀬はますます驚いた。薬を飲んだ永瀬を確認した杉崎がさらにアルコールが早く抜けやすいからと柑橘系のパックジュースを渡した時など、この女性は、一体どこまで完璧なのだろう、と言葉すら出てこないほどだった。
「しかし体力も低下してるだろうし、近場の奴んとこ泊めてもらった方がいいねえ。市川は? 一人暮らし?」
「え? あ、は、まあ……ちょっと狭いですけど……」
少し言葉を濁してしまったのは、市川の部屋は今かなり散らかっているからだった。急ぎのレポートが重なったのと、何回か病欠が出てしまいたて続けにアルバイトのシフトを交代した事が原因で、まともに家事が出来なかったのだ。大学二年生の男性という割りに、自分では家事能力は高い方であるという自覚があっただけに、どこか悔しい思いがした。なぜこんな時に限ってそんな状態であるのか。
「そっかー。よし、じゃあ、私のとこおいで、永瀬」
「えっ!?」
声を上げたのは、市川と永瀬、同時だった。二年とはいえ二人がサークルに入ったのはつい最近で、出会って数ヶ月だし会話らしい会話だってそんなにしていない。ほぼ見知らぬ男に近いというのに、部屋に上げるというのか。市川は、どこまでお人好しなのだと呆れたくなったし、何よりも説教すらしたい気分だった。いや、自分にはそんな度胸はないのであるが、と胸中で思い直した所で、杉崎が微笑んだ。
「部屋いくつも余ってるから大丈夫だよ。内鍵もあるから、別に襲わないって。心配なら市川もいっしょにおいで」
けらけらと笑う目の前の綺麗な女性に、市川は唖然とした。そもそも、襲う襲わないというのは男性が放つべき言葉ではないのだろうか。永瀬も同じように戸惑いを見せるものの、多少は回復したが一時間近くかかる自宅まで、これから電車で帰る気力はないようだった。
「あの……ご迷惑じゃ?」
弱り切った顔で呟く永瀬に、ないない、と杉崎が首を振った。
「大丈夫、あとね、一人か……二人かなあ。たぶん、持ち帰らないといけないから。よかったらおいで」
「す、杉崎さんの家ってそんなに広いんですか?」
目を見開く市川に、杉崎が小さく微笑んだ。しかし――なぜだろう。
その顔は、どこか少し寂しく見えた。
「じゃあ、皆に話してくるからちょっと待ってて。どうせもうお開きの時間だしね」
ぽん、と肩を叩かれて、あっという間に杉崎は居酒屋の扉へと吸い込まれていく。市川は間抜けに口を開けたまま、その背中をただただ見つめるしか出来ない。
「……かぁっこいいー」
呟いた言葉は、永瀬からだった。市川が隣に立つ男を視界に入れると、きらきらした瞳で居酒屋の扉を見つめていた。
「いいなあ! 俺、あんな男になりたい」
「いや、杉崎さん女じゃん」
「そうだけどさ。別にもうどっちでもいいじゃん。俺はああいう人間になりたい」
「まあ――わかるけど」
すっかり憧れてしまった様子の永瀬に、市川は苦笑する。昔から、真っ直ぐで素直な男だな、と思う。永瀬と市川は、いわゆる幼馴染みだ。高校は離れていたが、どういう縁なのか、大学はたまたま希望が重なった。しばらく疎遠になっていた仲が縮まるのはあっという間で、変わっていない事がどこか嬉しく思える。
「しかしお前、体調悪いなら言えよ。びっくりしたわ」
「いや、自分ではあんま自覚なくてさ。悪い」
あはは、と笑う永瀬は、かなり気分の悪さはなくなったのか、余裕が出て来たようだった。それでもまだ身体はだるいようで、少し足元は覚束無い。隣でいつでも支えられるように多少気を張りながら、市川は呟いた。
「ここから近いのかな、杉崎さんの家って」
「どうなんだろうな……」
ずここ、とパックジュースの中身が無くなる間抜けな音が響いたと同時に、居酒屋の扉が開いた。何人もの人間が一斉に出てくる光景は自分もその中に交じっているとわかっていながらも少し暑苦しい。
「待たせたね。駅前まで歩ける?」
首を傾げる杉崎に、永瀬は大丈夫です、と頷いた。
「あの、体調も大分回復しましたし、帰ろうかと――」
「そうだね、顔色はよくなったね。じゃあ杉崎家に帰ろうか」
にっこりと微笑む先輩の言葉に、永瀬は何も言い返せず口を噤んだ。
駅から徒歩三分ほどの位置にある居酒屋は、学校の最寄という事もあって利用する機会も多い。しかし恐らくここがもっとも頻繁に使われる理由は、駅前通りにずらりと並ぶタクシーが目当てなのだろう、と市川はぼんやりと考えていた。杉崎の事だ、いくら注意しようとも毎回何人かのお調子者は自制が利かずに倒れてしまう事を見越しているのだろう。
「さて、杉崎班は……六人ね。タクシーじゃないと帰れないくらい体調が悪いのは、永瀬と皆川くらいかな? あと大丈夫そう?」
杉崎の言葉に何人かから是と返答がある。帰宅組と朝まで呑む組はもうそれぞれの場所へと向かっていた。
「徒歩組は私が連れてくから心配しないでいいわよ。市川も意識しっかりしてるよね?」
「あ、はい」
「悪いね、関谷と市川。何かあったら連絡して」
少しふらつくものの意識はわりとしっかりしている人々は徒歩で、歩くのも少し辛い人間はタクシーで向かう。徒歩でも着く距離なのか、と思いながら、行くよ、という関谷の言葉に市川は慌てて頷いた。
「え? 一軒家!?」
驚いた声を出す市川と同じく一年生のひとりが目を丸くしている。関谷ともうひとりは何度も来た事があるのだろう。特に何を言うでもなくインターホンを押した。
「よかった、無事だね」
「心配しすぎ」
苦笑する関谷と三年生の男性部員も同じく笑って頷いた。市川ともう一人の女性部員は、玄関扉を開けて門まで歩いて来た杉崎を無言で見つめている。
「今現在は私ひとりだから気兼ねしないでね、どうぞ」
微笑みながら門を開く杉崎に恐縮しながら歩を進める。関谷たちは慣れたもので、さっさと玄関扉を開いて中へと入って行く。
「あ、別に変な重苦しい事情とかないから安心してね。ここを買っちゃった後に父の転勤が決まっちゃってね。一時的に私が家を守ってるんだよ。私が高校を卒業するまでは兄も弟も居たんだけど、今はそれぞれ家を出てるんだよね」
玄関で靴を脱ぎながらあっさりと説明された経緯は、市川と恐らく一年生が考えていた暗い理由でも何でもなくて、それが妙にほっとしたからか、思わず同時に小さく息を吐いてしまう。それを見た杉崎がおかしそうに笑った。
「市川も笹井も優しいなあ。遠慮せずに上がってね」
一軒家の中でもかなり広いその家に、今まで家族五人で住んでいて、それが三人になって、今では杉崎ひとり。少し寂しそうに微笑んでいたのはそういう事だったのか、と市川は納得がいった。そして少し意外でもあった。案外、人の温もりを求めるタイプなのだな、と。
「すぐ寝てもいいし、順番にシャワー浴びてもいいし。関谷たちはリビングでだらだらしてるけど」
廊下を一直線に進むとすぐにリビングがある。硝子扉を開くとそこにはすでにかなりくつろいだ様子の関谷と三年生がいた。
「相変わらずここのソファ気持ちいいー」
「それはいいけど、そこで寝ちゃだめだよ」
「あの、大輔って」
「永瀬なら二階で眠ってもらってる。市川も寝室そこでいい? 今、案内するよ」
手招きする杉崎に続いてリビングを出る。二階へと上がると、扉がそれぞれ四つあった。
「この階段からいちばん近いのが永瀬と市川の寝室ね。トイレはその左角の扉。夜中に寝惚けて部屋を間違えないようにしてね」
「ありがとうございます。元々はどなたの部屋なんですか?」
「そこは兄の。でももうほとんど帰って来ないからあんまり気にしないでいいよ。就職して出て行ったから」
物もあまりないんだよね、と笑う杉崎に、そうなんですか、と市川は頷いた。
「弟も大学進学でけっこう遠い県に行っちゃってね。就職もあっちでするつもりなのかはわかんないから、弟の部屋と両親の部屋は一応、人を入れてないんだけど」
二階には全部で三部屋あり、その内のひとつが整理しきれない物が置かれ、そこも布団を敷いて客間として使うらしい。一階には杉崎の両親の部屋と、和室と客間がある。基本的にはその客間に寝てもらい、間に合わなければ二階の部屋を使ってもらうらしい。時折、リビングにも眠って貰う事があると笑っていた。
「本当は今日の人数なら男女に分かれて一階で足りるんだけど、具合悪いのがふたりいるからさ、うるさいと眠れないかと思って」
皆川という二年の女子は、整理部屋に布団を敷いて眠って貰ったようだ。市川にも二階に寝てくれと告げたのは、きっと杉崎の配慮だろう。
「あの――杉崎、さん」
「ん?」
リビングの扉に手をかけた所で声をかけると、杉崎は丁寧に手を下ろして市川へと身体ごと向き直った。それに気圧されながらも、市川は口を開く。
「…………俺の」
「うん」
微笑んで首を傾げる杉崎の顔を見て、市川は、普段ならば留めていたであろう言葉をついに吐き出した。
「俺の、下の名前って、知ってますか」
「ん? 朝陽くんでしょ?」
「!」
「違ったっけ?」
目を見開いて固まった市川に、杉崎はいつになく慌てた様子で尋ねる。市川はその様子に、杉崎以上に慌てて首を振った。
「ちがくないです! す、すいません、変なこと訊きました」
「ああ、よかった。名前間違えるって失礼だもんね」
微笑んで、話はもう終わったと判断したのか杉崎が扉を開いた。市川は、杉崎の言葉に、浮かんだ次の質問はしてはいけないと口を噤む。
どうしてそんな事を訊いてしまったのか。どうして続く質問が浮かんだのか。どうしてそれを質問してはいけないと思い直したのか。
「どうしたの、そんなところ突っ立って」
「! い、いいえ」
出入り口で立ち尽くしていた市川に首を傾げる杉崎に、慌てて中へと進む。扉を閉めて、市川はどうしたものかとしばらく考えたが、みんな大きく居心地の良さそうなソファに座っているので、市川もそれにならった。
やがてそれぞれシャワーを浴びようという話になり、そこでも驚いたのは新品の下着類と歯ブラシが置いてあった事だった。ホテルでもあるまいし、どこまで用意がいいのだろうと呆れてしまう。恐縮する後輩たちに、杉崎は微笑んで貯金箱を取り出すと、好きな料金をここに放り込め、と言った。いわゆる宿代を徴収しているのだが、料金は自由で良いのだと杉崎と関谷、三年の本田が笑う。金銭的に余裕があればけっこうな額を入れてくれる人間もいれば、十円をそこに入れる強者もいた。要は、気持ち次第というわけだ。そのお金から、新品の下着類やらを揃えているらしい。本人の前では入れにくいだろうから、後で適当に入れておいてね、と笑った杉崎に、色々と思う感情がありすぎて、どうしたらいいかわからないと市川は途方に暮れた。
家主である杉崎が最後のシャワーへと席を立った所で、二年の市川と一年の笹井は、慌ててダイニングテーブルに置かれているぶたの貯金箱へと駆けて行く。
「市川さん、いくら入れますか?」
「んー、友だちが世話になった分も上乗せする。でも最低ラインは五百円からじゃない?」
笹井が市川の言葉にそうですね、と頷くと、少し考えながらも千円札をすっと落とし込んだ。
「私、ちょっとお手洗い行ってきます」
緊張したからか、少し慌てた様子で出て行く笹井を一瞥して、市川は財布の中身を取り出す。
「太っ腹ね」
「……関谷さん」
福沢諭吉が描かれたそれを貯金箱に突っ込んだところで、関谷から声をかけられた市川は、びくりと肩を揺らすも、観念したように息を吐いて、関谷を見た。
「関谷さん――杉崎さんて下の名前なんて言うんですか?」
「…………へえ?」
「――そのにやにや笑いやめてくださいよ!」
「真っ赤じゃない。なるほど、そう。自覚した上で、私に聞くの?」
ぐ、と詰まった市川に、関谷はますます気を良くしたのか嫌な笑みをどんどん深くする。
「夏夜。生まれたのが夏の夜だったから、そういう名前にしたんだって」
「夏夜、さん」
「まあ、頑張りなさい」
叩かれた肩の感触は、市川にはよくわからなかった。ただ頭に浮かんだ杉崎――夏夜の顔が離れなかった。すべての感覚が鈍っていく程度に、市川の中は急激に彼女に侵食されていっているとわかった。
どうして自分の名前を知っているかなんて訊いたのか。
――大輔の名前を知っていて、自分が知られていないのならば嫌だから。
どうして次の質問をためらったのか。
――人の名前をろくにおぼえていない人間だと思われるのが嫌だったから。
どうして杉崎さんの下の名前はなんですかと訊きたかったのか。
――下の名前で呼びたいと思ったから。
あんなすごい人。自分じゃきっと釣り合わないどころじゃないのに。そうわかっているのに。
――好きだと、思ってしまった。
「……無理だろ」
呟いた一言は、酷く情けないと市川自身が呆れてしまうほどだった。
最近、どうも周囲がそわそわしているように感じる。色々とその真意を探りながらも、よくわからない。観察眼はある方だろうと思っていたのだが。
「夏夜さん!」
「朝陽くん、どうしたの?」
主にいちばんそわそわしているのは彼なのだけれども。しかし――いやいやないない。そんな馬鹿な。ははは。
「あの、また夏夜さん家に遊びに行ってもいいですか?」
「うんもちろん。またマリカー大会でもしようか?」
「えっ!? う、あ、は、はい……」
長い夏季休暇も終わりを告げ、四年生はなかなかに忙しい季節になっている。夏に内定を貰った人間は残り少ない自由を満喫しているが、そうじゃないものは今もなお必死だ。開き直って最初からフリーターをしつつ好きな事をやると言っている奴もいるから、逆に保障が少なくなった昨今に生き生きしている人間も増えたといえばそうなのだが。やりたい事をやる為に棄てなければならないものの価値が低くなってきたという事だ。まあ、私は早々に内定を決めてしまったひとりで、情熱を燃やす連中に半ば憧れている方なのだが。
それにしても。
朝陽くんの、あまりにも浮かない顔はどうしたのだろう。つい数秒前までまさに太陽のような笑顔を見せていたというのに。
「元気ないけれど、どうした?」
「えっ……わあ!」
熱でもあるんじゃあ、と思わず額に手を伸ばしてしまったら、狼狽した朝陽くんが身体を一歩分後退させた。ああいけない。他人との距離感は常に気をつけねばならないと理解しているつもりだったのに。私はどうもそこら辺が希薄らしく、よく怒られる。主に男性が彼女を寝取られたとか喚いてくるのだが、さすがに女性の身であるから私自身が寝取るとか出来ないんだけどね。
「ごめんごめん、つい」
一言詫びれば、朝陽くんは慌てて引いた距離を戻すと、今度は私に迫る勢いで訴えてきた。
「いや、ちが! 触られるのはすごく嬉しいです!! あっ、いや、ちが、いや違くないんですけど」
「落ち着いて」
顔がどんどん赤くなる目の前の男に微笑んで見せると、どうにかこうにか取り乱した様子を立て直していった。どうも朝陽くんは赤面症というか、女性に対して免疫がないように思う。私にすらこれだけ顔を赤くするのだから、相当なものだ。私の性別を忘れている連中はかなり多いのだから。まあ、女性だって本人ですら忘れる瞬間があるから、嬉しいんだけどな。
「じゃあ、来たいって言ってる連中に声をかけておいでよ。今月はわりと暇だからね」
「あ――はい」
肩を落として力無く笑う様子に内心で首を傾げながらも私がその場を去ると、すぐに声をかけられた。
「夏夜ー、あんたも罪深いねえ」
「千早。ん? 何が……?」
ぽん、と背後から肩を叩かれて振り返ると、高校時代から共にしている気安い関係である、千早が妙な笑いをしてこちらを見つめていた。彼女の前だと普段よりも気を緩めた状態でいられるから、貴重な存在といえた。そんな千早の言葉がわからなくて、私は首を傾げる。
「うーん、鈍くないはずだから、ありえないだろうって一蹴しちゃってるんでしょ、どうせ」
「んー……?」
「ま、無理もないか。王子様だもんね、あんたは」
見た目は悪くないのにねえ、と呟く千早に、よくわからないけどありがとう、とお礼を言うと、はあ、とため息を吐かれた。なぜだろう。わからない。
朝陽くん、と呼び名を改めたのは、杉崎家に彼が泊まった翌朝の事だった。
『夏夜さんって、呼んでもいいですか?』
『え?』
『俺は朝陽だから、なんか親近感があって。朝と夜じゃないですか』
『ああ! そっか、そうだね。うん、好きに呼んでくれてかまわないよ』
『じゃあ俺も朝陽って呼んでください。なんか俺だけ下で呼ぶのもおかしいでしょ?』
『それもそうだね。じゃあ――朝陽くん?』
『はい』
朝食の準備を手伝ってくれた彼の手際の良さと、名前を知っていてくれた嬉しさが私の色々な感情を高まらせた。くすぐったくて、嬉しくて、どうにも顔が緩んでしまって。みんなの前で普通なふりをするのは、あの日だけは大変だったっけ。
「夏夜はさあ、彼氏とか欲しくないの?」
「うーん? そうだなあ……自分より格好いい人はまず見つからないだろうし」
「あんた自覚あるんならちょっと控えたらどうなの」
「いやー、自覚はあるんだけど無理してやってるとかじゃなくて性分だからなあ。例えばそれで卑屈になられても嫌だし、プライドが高い奴はちょっとなあ」
「あんたの王子っぷり半端ないからコンプレックス持ってもしょうがないんじゃないの?」
「そうねえ……同じようなタイプだと上手くいかないんだろうね」
自覚はある。どれだけ同性に魅力的に映るのかも。けれどそれで張り合おうものなら、きっと反発するだろう。だから、出来る男性とはきっと上手くいかないのだろうな、とぼんやり考えているのだけれど。
「今までの人生、なぜだか告白めいた事をしてくれた人はみんなそういうタイプなんだよね」
首を傾げる私に、千早は苦笑いを浮かべる。
「それは仕方ないわよ。あんたさ、王子の自覚はあってもいい女って自覚ないじゃん。でも実際にはいい女なわけよ、分類すると。そうなると釣り合い取れるのってそういう系統の男になるでしょう。告白するくらいの男はそもそも男としてのレベルが高いわけよ」
友人の言葉に、いまいち承服しかねる部分はあるものの、まあ、そういう理屈であるならば、と考えを多少改める。けれどもそれじゃあ上手くいくのかといえば、そうはならなかった。
「私がエスコートされる前にしてしまうから駄目なんだよね。そこで怒っちゃうんだ、みんな」
「それはねえ……ある程度、馬鹿なふりするのが本当のいい女ってやつだよね」
女子力は低いからねえ、とうんうん頷く千早に、言ったな、と苦笑いしながら額を小突くと、ほらそういう事すると悪戯にときめくからやめて! と叫ばれてしまう。これのどこが悪いというのか。
うーん。
今まで男性に言われた事は、女性としての扱い方がわからない、というものだった。あれこれとデートをする際にリードしようと思っても、先手を打たれてしまう。何か気遣いをしようにも、気付けばされる側に回っている。いつも冷静で、本当に好かれているかわからない。
結局は、男性の願望が砕かれていつも終わりを告げる。友人関係を超えればその先に女の顔が待っているとみんなが思うのだ。そこに幻想を抱く。自分にだけ見せる弱い部分がきっとあるのではないか、と。
「なくはないんだけどなあ」
ぽつりと呟いた独り言は千早に聞かせるでもなく、ほとんど口の中だけにこもって終わった。
そう、自分自身、完璧でもなんでもなくて、弱いのだとわかっていた。けれども何故だろう。大人で、紳士で、何をするにもスマートな相手だと、どうもそれを見せるに至らない。自分も相手に応えよう、相手が安心出来る揺るぎない存在でいよう、などと力が入ってしまうのだ。結局は、ある程度の心はあっても本当に好きな明いてとの交際に至らなかったというのがいちばんの原因なのだろう。
「あんたの場合さあ、母性本能ありまくりの甘えん坊と見せかけて実は包容力高い系がぴったりだと思うんだよねえ」
「え?」
「一言でいうと可愛い男の子ってことよ」
「可愛い男の子かあ……」
あ。
浮かんだ顔に、一瞬頬を染めそうになった。危ない危ない。変に勘繰られたらたまったものではない。いや、ここ最近なんというか、妙に彼の事ばかり考えているな、という自覚もあるから、複雑ではあるんだけど。
「ないよなあ……」
「ん?」
「いや、なんでもないよ」
微笑んで千早の髪をくしゃりと撫でる。だからそれが! と怒る千早に可愛いなあと笑うと、彼女はとうとう早足でさっさと目的地へ向かってしまった。
朝陽くんは、まさしく可愛い系に分類されるとは思う。実際、真っ赤になって慌てる様子はものすごく可愛くて、妙に胸が絞めつけられる。そのくせ、自分の隣でさりげなく手伝ってくれるものだから、今までの男性と違って変に身構えずに受け入れられるのだ。そう、自然なんだ、とても。いかにもやってあげるよ、じゃなく。俺にもやらせてくれませんか? と首を傾げて言われたら、頷かないわけにいかないじゃないか。
「甘やかされてるって、こういう事なのかもなあ」
くすぐったい。嬉しい。わからないけれど、もう好きになってしまったのかもしれない。けれどそれを認めた途端、自分に待っているのは失恋でしかないのではないか。そう考えると、無理やりでも気持ちを押し込めたくなる。いや、というか気持ちが溢れたらうっかりポロっと言ってしまいそうで怖い。そういう事にそこまでためらいが持てないのも、男前だとか言われてしまう所以かもしれない。
「王子だからなあ、うーん」
こういう時、どうすればいいのだろう。いっそ清々しく告げて失恋するのも手かもしれないが、サークルの纏め役でもある自分に告白をされてなおかつ振ったという事になれば、きっと居辛くなるだろう。周りの目も冷たくなるかもしれない。そう考えると、告げるにしてもサークルに顔を出さなくなるタイミングじゃないとまずい。
「もうちょっと先か……気をつけよう」
友人の言葉がきっかけで、はっきりと自覚するというのは少々情けないけれど、おかげできちんと抑制出来る。タイミングが早ければ相手を傷付けてしまう。本当に気を付けなければ。
新たな決意を胸に、私は行ってしまった千早をようやく追いかける。拗ねているかもしれないから、あの子の好きなチョコレートを売店で買って行こう。