本体はそっちじゃありません
「なん…だと…」
洗面器の水でばしゃばしゃと顔を洗うギルマスの背後で、ギルドの誇る 第一防御役が驚愕の声を上げていた。
「なにさ」
「シロが自力で起きてる、だと……!」
「うるさいよ直継」
濡れた顔をタオルで拭いながら邪険な物言いになるのは、要するに自分でも自覚しているからだ。
顔を上げて視線を合わせると、目の前で分厚い手が左右に振られて直継が頭を傾げた。
「何いったい」
「眼鏡無しでも見えてんのか」
裸眼だというのに焦点が合わない人間特有のぼんやりとした視線ではないのが不思議そうだ。
「そりゃ見えるよ。<冒険者>の身体だもん」
〈冒険者〉の身体にはリアルでの特徴が引き継がれているが、肉体的能力そのものはログインしていたキャラクターに準じている。近視持ちのゲームキャラクターなど聞いたことはない。
「え、んじゃこれ伊達?」
ずいぶんと今更な疑問だなとは思ったが、考えてみればシロエの眼鏡はほぼ常時装備中のアイテムなのだった。非常に不本意ながら、本体等と言われてしまう程度には。
眼鏡を外すと言えば風呂か睡眠という一人の時間なのだから、確かに眼鏡を外した状態、かつ起きているシロエと顔を見合わせる機会など今の様な洗顔時になるわけだ。
「そだよ」
シロエは眼鏡と言う装備品は割と好きだ。リアルであれば無ければ困る生活必需品、顔の一部も良い所だが、そういった部分とは別に、目の端に映るフレームがこれは自分の視界だと認識させてくれる。三白眼を多少は誤魔化してくれるのではないかと言う期待も、まあ、その、ないと言えば嘘になるが。
ほほうという顔をして頷いていた直継が突然にやりと笑った。シロエが嫌な予感を覚えて身を引こうとする前に手が伸びて、眼鏡をひょいと取り上げる。
「ノー眼鏡デー祭!」
一瞬呆気に取られたシロエだったが、我に返ると逃げ出した直継の背中を急いで追いかけた。
「直継ー!」
「はっはー、だ」
名前を呼ばれてももちろん素直に止まるわけもなく、直継は陽気な笑い声を残してばたばたと階段を駆け降りた。後を追ったシロエは廊下の手摺から身を乗り出す。何が楽しいのか他人の眼鏡をかけて見上げる直継の位置を確認すると、躊躇せず身を躍らせた。
「こンの、馬鹿直継!」
アカツキ程華麗にとはいかないが、付与術師とはいえLV90の身体能力はそれ位の事は可能にしてくれる。
「どわー!」
予想外の逆襲に直継が驚きの声をあげるが、さすがの壁職は魔法職の物理攻撃などものともしない。
「ほら、返せってば!」
シロエが拳をこめかみにぐりぐりと捩じ込むと笑い声混じりの悲鳴が上がった。
「痛いぞシロっ」
「嘘つけ〈守護戦士〉!」
その騒ぎを聞き付けて、てとらがひょこりと顔を出した。いつも穏やかなギルマスの珍しい姿に目を丸くしてすぐに、にんまりとした笑みを満面に浮かべる。
「おはよーございますシロエさん! 楽しそーな事やってますね!」
「あ、おはようてとら」
シロエは直継の肩の上から挨拶を返す。その間にも両手は眼鏡を巡っての攻防中だ。
「よーし、ボクも登っちゃうぞお!」
「うげ」
さすがにそれには直継の顔が引き攣った。いまさらてとらのひとりやふたり分増えたからと言ってよろめくような柔な身体ではないのだが、問題は重量とは別のところにある。
ならば素直に眼鏡を返せばいいようなものだが、やたらと高いてとらの敏捷性はその時間をくれなかった。
「待った待ったちょっと待ったタンマ祭!」
「待ちませんよぅ」
「往生際が悪いっ」
朝から騒がしいやり取りを穏やかな声がたしなめた。
「良い大人が御飯時に大騒ぎするのは感心しませんにゃあ」
ため息と共に現れたにゃん太に三人の精神的な背筋が伸びる。腕の良い料理人は円卓のギルドマスターであっても敵わない最大の権力者なのである。
「わー! ごめん班長!」
「申し訳ない祭!」
「ひょわわ、ごめんなさーい!」
三者三様の謝罪の声が上がり、てとらに続いてシロエが慌てて直継の肩から飛び降りた途端、何かが割れるような異音がした。
「あ」
「げ」
「うわ」
やっちまった感溢れる慨嘆とともにシロエが足を上げると、つい先ほどまで眼鏡と呼ばれていた物体が無惨な姿を晒していた。
「足平気かシロっ、てとら、ヒールヒール!」
「大丈夫、割れてないよ」
焦りを滲ませる直継を制して、シロエはひしゃげてしまったフレームを持ち上げた。
幸いにして一番重要なレンズ部分に皹は入っていない。シロエはステータス画面を確認した。
「耐久度…は、0にはなってないね」
「悪い!」
ぱん!と両手を打ち合わせて頭を下げる直継に、シロエはいいよと手を振った。直継の悪戯が原因でないとは言わないが、壊れた事に関しての責は6:3:1と言ったところか。
「鍛冶?細工師か?」
「細工師だね」
この世界で最初から自分と一緒にあった、一番馴染んだ持ち物だ。出来る事なら直したい。それほどレベルの高い細工品ではないから、修理を頼む相手を探すのはさして難しいクエストにはならないだろう。
「おはよう」
「おはようござ……ええっ?!」
「シっ、シロエさん?!」
シロエが食卓に着くと、年少組は一様に目を丸くして絶句した。
「うっかり壊しちゃって」
本人はそんなに驚かなくてもいいのにと苦笑するが、シロエと眼鏡がイコールで結ばれている大多数の知り合いからしてみれば、中々に衝撃的な光景ではあった。
「シロエ兄ちゃん、眼鏡が無くても見えてんの?」
まじまじとシロエの顔を見つめていたトウヤが首を傾げる。
「ああ、うん、見えてはいるよ」
〈冒険者〉の身体だからね、と直継にしたのと同じ説明をすると、一同は納得した顔を見せた。
「えー、じゃあ、という事はー」
「皆さん伊達眼鏡、という事ですかにゃあ」
普段眼鏡をかけている知り合いの顔を思い出すと、なんとなくおかしくなってしまう。
「うーん、伊達っていうか」
シロエの右手がうろうろと顔の辺りを彷徨った。
「習慣って怖いなーと思うんだよね」
無意識に眉間に手をやってしまってから押し上げるべきレンズが無い事に改めて気付くというのは、眼鏡の愛用者には経験があることだろう。
「エ、エア眼鏡…」
「馬鹿継は反省が足りない」
その仕草にぶふっと吹き出した直継に、アカツキの鋭い視線が突き刺さった。
「してる!してます!大いに反省中!つまり祭!」
「祭らなくて良いけど、眼鏡代は直継持ちだからね」
「もちのろんだぜっ」
早い内に修理とスペアの買い出しに行こうと、予定の擦り合わせを始めた二人に勢い込んだ声がかかった。
「あ、あのっ」
「おう、どした?」
「この間、第八系列で眼鏡専門のお店がオープンしたんです。私、チラシ持ってますからよかったらどうですか?」
「へえ。専門店かあ」
眼鏡にあまり実用性がない世界だというのに、わざわざ専門店を開いて売れるのだろうかという疑問がシロエの脳裏にまず浮かぶ。よほど眼鏡が好きなのだろうか。リアルでの癖がつい出てしまう自分の様な人間向けだとか。ことによると〈大地人〉相手の商売も視野に入れているのかもしれない。
趣味(多分)の店が出来るというのは多様性の確保の上でも、経済上でも良いことだろうと結論付けて、シロエは笑顔で礼を告げた。
「ありがとうね、ミノリ」
頬を紅潮させて頷くミノリの脇を五十鈴が肘でつついてこっそりと囁く。
(一緒に行くって言えばいいのに)
(む、無理ですっ)
「シロの眼鏡は耐性か何か付いてんのか?」
チラシを横から覗きこんでいた直継は、その種類に感心しながら聞いた。リアルで掛けていても問題なさそうなデザインの物や、凝った装飾とちょっとびっくりするぐらい0の多いアイテムまで並んでいる。
「ううん、あれはほとんど見かけだけ。知力微増程度かな」
「んじゃ何かステータス上がりそうなヤツ……」
詫びもかねてと言い出した直継だったが、その提案は本人からあっさりと止められた。
「普通ので」
「えー」
「ステ上がる装備って、大体装飾過多なんだよ。普段使いには向かないんだって」
「どういうのがあるんですか?」
その声からは歓迎できない様な形であるらしかったが、なんとなく興味が沸いて五十鈴はシロエに尋ねてみた。彼女自身は視力に不安は無いが、眼鏡をかけている姿は賢そうで格好良いなとは思う。
「そうだね、一番基本的なのはレンズに色がついてるタイプ」
「黒水晶とかだろうか?」
そういうのだね、とシロエはアカツキの言葉に頷いた。
「黒水晶なら光耐性付きかな。要はサングラスだよね」
「そーいやエメラルドの眼鏡とかあったよな」
「懐かしいですにゃ」
にゃん太が思い出に目を細める。それを手にしたのは大規模戦闘と言う名の観光旅行に向かった北米サーバーだった。緑色をしたレンズの眼鏡(ビジュアルは鍵付きゴーグルだったが)をかけるとフィールドダンジョンへと突入できる。トリガーアイテムを人数分揃えるのは中々に骨ではあったがその分の甲斐がある光景だった。
「後はギミックを見破るとか、妖精軟膏と同じ機能があるとか。まあそういうのは飾りやら宝石やら、物に依ってはレンズが望遠鏡みたいに伸びてたりとかツマミなんかがごちゃごちゃついてたりね」
エルダーテイルのデザインは全体的にシンプル寄りに作られているが、高性能品である程豪華になっていくのはゲームとしてはある意味当然だろう。いくつになってもビジュアルがひのきのぼうとぬののふくでは格好がつかない(し、物欲も刺激しない)というものだ。
「眼鏡はジョークアイテムも結構あるよな」
「へー」
「それだけでアバターの雰囲気が変わるからね。お遊び用のアイテムだと見かけは凝ってると言えば凝ってるけど、普段使いは……まあ、普通の人はしないんじゃないかな」
エルダーテイル時代はともかく、リアルになったセルデシアでの頭部装備は、視界を狭める原因となるために忌避される傾向があった。さらにジョークアイテムともなるとそのデメリットは大きくなる。
もっとも、そこでゼロとは言い切れないのが〈冒険者〉でもあるのだが。
「エルダーテイルは歴史も長いですからにゃあ。種類も中々に豊富ですにゃ」
コラボアイテムや期間限定品なども含めれば聞いたことのないようなものもあるだろう。
「茜屋のご隠居がしてるやつも眼鏡装備か」
「片眼鏡ですにゃあ」
「あと鼻眼鏡だろ、蝶々眼鏡だろ、ぐるぐる眼鏡ってのもあったよな?」
直継は覚えているアイテムを数え上げる。
「羽つき眼鏡もありましたよー」
てとらは顔の横で両手を広げてひらひらと動かした。どうやら羽根のつもりらしい。
一斉にギルドマスターに向けて集まった視線の先で、その意味を正確に察したシロエは眉間を押さえた。
「……想像しなくていいからね?」
慌てて目を反らす年少組と対照的に、にゃん太はにっこりと余裕の笑顔を見せた。
「吾輩、いくつかは所有してますにゃ」
アキバ内どころかヤマトサーバー含めても最古参と言って良いβ組のにゃん太が持つアイテムの種類は馬鹿にならない。期間限定品などはシロエよりも多様なアイテムを持っているのではなりだろうか。
「つけないよ?!」
「それは残念ですにゃあ」
基本的ににゃん太は常識人ではあるが、考慮に入れるだけであって拘るわけではない。(それだけでも茶会では破格の常識人だったわけだが)
お祭り騒ぎは楽しむし、罪のない冗談はむしろ歓迎するタイプなのだ。うっかり頷かされた日には何が出てくるかわからない。
「ご、ごちそうさま行ってきます! 直継行くよ!」
戦略的撤退を決め込むと、シロエは大急ぎで手にしたコーヒーを飲み干した。