第五話:泥濘
最低級とはいえ、何とかお目当ての魔法生物を手に入れた彼は、意気揚々と中央棟の外に出た所で、眩しさに思わず目を瞑る。今まで居た部屋の中はランプの明かりのみが支配する薄暗い空間であり、時間の経過があまり分からなかったのだが、外では既に日が傾き、太陽が一日の仕事の総仕上げとして西日の眩い光を放っていた。
彼の計画では持ってきた資金で手に入れられる魔法生物を買い、適当に食事と休憩を取った後、そのまま山小屋へとんぼ返りする予定だったのだが、あの売り子のお喋りが想像以上に長かったこともあり、随分と時間を取られてしまったようだ。室内に何か時間が分かる物があれば少しは把握できたのかもしれないが、済んだ事を嘆いても仕方が無い。こぼれた水は再び盆には戻せないのだから。
「昨日から殆ど寝てないし、どちらにせよ無茶なスケジュールだったかな」
彼はそう呟いて自分を納得させた。昨日から今朝に至るまで、これからの資金のやり繰りの計算で殆ど寝ておらず、その状態で数時間歩いて山を下り、街では先ほどの売り子とのやり取りで、彼にとっては一か月分の対人折衝能力を消費させられて精神的にも疲れ果てている。ここまで揃っている状態で夕暮れの山道を一人で登るということは、自殺行為以外の何物でもない。
「折角街まで来たんだし、ちょっとぶらぶらしていくか」
今日中に山小屋へ帰ることを諦めた彼は、そのまま街の方へと歩いていった。
「おや、いらっしゃい」
宿屋の集まる通りの中で、一番古そうな安宿の建物のドアが開かれた。そこには恰幅のいいおばさんがおり、愛想の良い笑顔で受付らしき場所から挨拶をしてきた。
「一晩泊まりたいんだけど、部屋は空いてます?」
「空いてるけど、あんた魔術師さんじゃないのかい?」
「そうですけど、よく分かりますね?」
「あんたの格好見てれば大体はね」
彼の格好は体をすっぽり覆う外套に包まれ、雰囲気からも肉体派の印象を受けないので戦士や冒険者風にはとても見えないのだが、それよりも彼の手に持つ身の丈程の大きな杖から魔術師であると判断したのだろう。
「魔術師ってのはあれだろ? その手に持ってる杖とかを触媒にして、火の玉だの氷の礫だのをドーンとかバーンって出したり出来るんだろ? 凄いねぇ、そんな便利な事が出来ればあたしもお湯を沸かしたりする手間なんか省けるのにねぇ。あ、でもそんなお偉いさんを雇う金があったらこのオンボロ宿自体を建て替えられるかねぇ」
カラカラと笑いながらおばさんは話すが、彼としては専ら文字通りの「杖」としてしか使っていないので曖昧な笑みを返す。
「魔術師だと問題があるんですか?」
このまま色々な話題になるといたたまれなくなるので、話題を切り替える事にする。
「いや、そりゃ全然問題ないけどさ、養成所の方にも宿泊施設はあるんじゃないかい?」
「あ、いや、その……」
そう言われて彼は再び口ごもる。言われたとおり魔術師養成所には施設が一通り揃っており、その中には簡易宿泊施設もある。魔術師養成所の関係者なら安価に利用できる上に、下手な安宿に泊まるよりも作りはしっかりしているので、殆どの人間はそちらで済ませる場合が多い。だが、彼としてはなるべく使いたくない施設の一つなのである。
「まぁその、色々とありまして……」
「ふぅん? まぁ客が増えるのはこっちとしてもいいけどね」
おばさんはそれ以上特に追求することも無く、宿賃を受け取ると部屋の手配をし、さっさと別の仕事へ取り掛かっていった。
用意された部屋は、古ぼけたベッドと粗末な木製の椅子と棚、そして小さなランタンしか無く、窓も木の壁をくり貫いてそこに網とフタを被せただけという簡素な部屋だったが、今の季節なら窓は開け放していても大丈夫だろう。部屋の大きさも物置のような狭さであったが、一夜寝るだけなら何の問題も無い。
魔法生物の入った小瓶を棚の上に慎重に置き、外套と杖を外し椅子に掛けるとようやく人心地付いたのか、彼はベッドにどさりと倒れこんだ。思った以上にベッドが硬く、地味に背中が痛かったので少し悶絶したが、払った金額を考えると仕方が無いと我慢した。
「あー……疲れた」
疲れた。とにかく疲れた。ひたすら疲れた。知力にも大した自信は無いが、体力にはさらに輪を掛けて自信が無い。街に出向き、人と話すというだけで彼にとっては重労働である。山で暮らしていれば自然と体力が付くかと思っていたのだが、基本的に小屋の周りを少し移動する程度の生活で済んでいたし、今のところ補助業務に付随する報酬で身の回りの物は賄えているためそんなにサバイバル生活をする必要もなく、引きこもりのような生活を送っているのだ。体力など付くはずが無い。
「飯でも食おう……」
ここは完全に素泊まり専用の宿なので、外の食堂に食事を取りに行かなければならない。だが疲れ果てていて動く気力も、ついでにお金も無い彼は、椅子に掛けてある外套の内ポケットから皮製の水筒と干し肉・ハーブを取り出し、だらしなくベッドの上に転がりながらもしゃもしゃと咀嚼していく。
街で昼食を済ませて帰宅する予定だったのだが、念のために持ってきておいて本当によかった。と彼は思った。
「あー、でも、やっぱり養成所の宿にすべきだったかなー……」
相変わらずベッドに寝転がりながら、徐々に色濃さを増していく闇を窓から覗きつつ彼は一人ごちる。
「あっちに泊まればその分宿泊費も浮いたし、食堂も利用出来たし……でもなぁ……」
例によって煮え切らない態度で得意の独り言を呟いていた。彼の言うとおり養成所の施設を利用したほうが断然得であるのだが、どうしても利用する気になれない。
「うああ……でもあそこに泊まると同期の連中と会う可能性が……」
同期の連中、それこそが彼が養成所に近づきたがらない最大の理由であった。補助業務を9ヶ月も続けている人間は現状彼しか居ない。他の者は皆、通常業務と呼ばれる難易度の業務をこなせるようになってきているし、既に受け入れ先や働く場所を見つけて日々努力している者も多い。彼だけがくすぶり続けているのだ。
養成所を卒業し働く先を見つけた人間も、情報交換や後輩のスカウト等で顔を出すことが頻繁にある。そこで顔を鉢合わせてしまうということが彼には耐えられない。自分の情けない姿を見られることは彼にとって最も回避すべきことだった。
「変わんなきゃ……」
既に日は暮れ、部屋の中は完全に真っ暗になっているが、備え付けのランタンに火を燈すことも無く、力なくベッドに大の字で転がったままで居る。
静寂と闇が支配する中に一人で居ると、彼のこれまでの人生の日陰の記憶ばかりが頭に浮かんでくる。
自分がそれほど出来が良くないことは小さな頃から自覚していた。だから、彼は「いい子」でいることを目標にするようになった。いい子にしてさえ居れば全てが程ほどには上手く行く。人の輪の中にも入ることが出来たし、結果を出せなくてもそれほど糾弾されることには殆どならなかった。
いつの頃からか、自分の中で何かに強く抗うという感情が殆ど無くなってしまっていることに気がついた。流れに任せていればいい。その方が楽でいられる。いい子で居たほうがその流れに乗りやすい。多少理不尽な事があっても自分の中で飲み込めばいい。
そうしているうちに時は流れ大人になり、自分の力で生きていかねばならなくなった。彼の周りに居る人間達は、自分の考えを持ち各々の道を進んでいった。しかし彼にはいい子でいること、人に合わせる方法以外の生き方が分からない。どこまで自分の我を通し、どこまで自重していいのか加減が全く分からない。
自分が何をしたいかも分からず、体裁を取り繕うので精一杯。周りの人間達はどんどんと先に進み、気がつけば周りには誰も居なくなっていた。自分だけが同じ場所で足踏みを続けている。何とかして追いつかねばならない。立派な人間にならねばならない。焦りばかり募るが行動に移す勇気も気力も無く、やること為すこと何もかもが中途半端。それが彼という人間であった。
この考えを続けるのはまずい、悶々とした考えを振り払い、備え付けのランタンに火を燈す。油の後がこびりついた古ぼけたランタンの光は弱弱しい光で部屋を照らし始めた。光の先、彼が目を向けた先には小さな小瓶が置いてある。
月は完全に空の頂上へと昇り、これから真の夜が訪れようとしている。夜明けまではまだまだ時間が掛かりそうだ。
「今日はもう寝るか……」
そうだ、今日は早く寝て明日に備えよう。明日すぐにでも山小屋へ帰り、希望の種を育てるのだ。自分を変えるために彼は無茶な先行投資をした。この小瓶が自分を助けてくれる。自分が変わるきっかけ、自信を作ってくれる。
彼の体はとても疲れていたが、暗い思考を続けていたせいか中々寝付けなかった。希望とそれ以上の不安の入り混じる中、思考をシャットアウトし、不安を希望で無理矢理に塗り固めているうちに、彼の意識は徐々に薄れていった――