第七話 笑わない転入生
そこは一切の出入り口がない真っ白な空間だった。
充満するのは、異能者のように強い呪的耐性を持っていなければ体調不良を訴える高濃度の霊気――いわゆる万物が宿す、呪力の素となるもの。人為的に安定させたそれは、風のない中をゆっくりとたゆたい、絡み、また解れていく。
(毎月やってるけど……やっぱり慣れないな)
壁と天井の境界線がわからない頭上をぼんやりと見ていた銀は、中央に唯一設置された寝台に横たわっている。人体が許容できる霊気量を測るこの検査は、人体に悪影響こそないものの、霊気を体内に取り込み続けるのでどうしても疲れてしまう。
『お疲れ様でした。今日の診察はこれで終わりです』
電子音声が聞こえて、充満していた霊気が溶けるように霧散していく。長い息を吐いて起き上がり、まだ残る気だるさを振り払うように軽くストレッチ。
『狼坂さん、更衣を済ませましたら診察室へ来るようにと、火野坂医師から申し付かっております』
カチリ、と開錠音がして、白い壁面に扉が生まれる。銀はそれを潜って外に出た。素足のまま人のいない廊下を通って更衣室へ。白い診察着から私服に着替えていると、ノックもなしに一人の女性が入ってきた。
「はろはろぉ~」
「……愛原先生。ここは男子更衣室で、しかも俺着替え中なんですけど?」
「うん、知ってるよぅ」
銀の担当医の助手は愛らしい笑顔でにっこり肯定。
「うら若き男子高校生の身体なんてムラクモじゃ滅多に見れないんだも~ん。むさ苦しいオヤジどもの身体見たってなにも思わないっての。二十歳過ぎたら男なんてみんなオヤジよオヤジ。ああっ、やっぱり数値より断然、実物よねっ」
「…………」
「ほらほら~早く着替えてよぅ。せっかくお茶とお菓子を用意してるんだから。は~や~く~っ」
「わかりましたから、さっさと出てって下さい」
不満げな声を上げる愛原を更衣室の外に追い出す銀であった。
部屋のドアを開けた途端、両脇に積まれていた資料の山がなだれ落ちてきた。
「やあ銀。調子はどうだい?」
「……埋まってます」
笑いを押し殺す気配。資料をどかして適当に積み上げ、銀は空間の半分以上を紙に占領された診療室――と呼んでいいものなのか――の奥へ。
彼女は資料のページをめくる手を止めぬまま、珈琲を飲んでいた。
暗い紅色の髪が印象的な彼女の名前は、火野坂レイ。銀の担当医だ。
「まあ適当に座ってくれ」
「はあ……」
と言っても、ソファは資料に埋もれていてどこにあるのかわからない。
「はぁ~い、駅前のケーキ屋さんのオレンジタルトですよ~うっと!」
奥のドアが開いて、ティーセットを抱えた愛原がくるくる回りながら登場。銀がどこに座ったものか微妙な顔をしているのを見て、「あ、どけちゃっていいよぅ」と言って資料の山を蹴飛ばして崩し、ソファを発掘。
「ほら、座って座って♪」
「……失礼します」
それにしても、場所がない。
「そろそろ掃除した方がいいと思いますよ」
「ふむ……確かに、今までは一日三回だったのに、ここ最近は七回も山が崩れてくるからな。あとで連絡しておこう」
本部内の清掃員の間で密かに「魔境」と呼ばれているのを、この人は知らないのだろうか。
珈琲を飲み終えた火野坂は、愛原からカルテを受け取ってざっと目を通す。
「ん、異常なし。健康体そのものだ」
火野坂の言葉に安堵の表情を浮かべる銀。
「今のところ、封印に問題はないんだな?」
「はい。特に変わったことはないです」
「それはなにより。封印の専門家でない呪術医が弄るわけにはいかないからな」
銀が人間と幻獣との間に生まれた半獣であるということを知っているのは、ムラクモ内でもごく限られた者だけだ。汐音をはじめとしてお世話になっている春成家の人たちや染井は言わずもがな、あとは今目の前にいる担当医とその助手、それに銀の背に封印を刻んだ人物。
「そういえば、最近、レベルⅢに近い幻獣を討伐したんだってね~」
「む。それは私も聞いたぞ」
「結果的に討伐したのは染井さんですけどね」
好奇心の視線を向けられて、銀は苦笑しながら補足する。
「あ~納得。それで汐音ちゃんが訓練場にいたわけね。いつも以上に組手相手をばっさばっさ薙ぎ倒してるから、どうしたのかと思ったわよぅ」
「はは……アイツらしいというか、なんというか」
先日の幻獣との死闘が汐音になんらかの変化をもたらしたことは間違いない。部活が終わったらすぐに帰宅して自主訓練をこなすのが汐音の日課だが、あの日以来時間を延長しているのを銀は知っていた。今日のような休日も言わずもがな。銀も汐音の足を引っ張らないようにと同じように自主訓練を組み直したのだが、それでも汐音の底なしの体力には恐れ入る。
ちなみに、先日行われた都大会は無事に突破して、来月末には全国大会が控えているという。本人はこれをきっかけに来年度の部員を増やすんだと意気込んでいるが、銀としては頑張りすぎて倒れないかが心配だ。あと、定期考査。
「……にしても、最近は幻獣の出現率が高いな」
ぽつりと火野坂が漏らす。
幻獣――人間を忌み嫌い喰らう、夜の闇。
ただ、その生態は謎に包まれたままだ。
どこから、どうやって発生するのか。どういう仕組みで進化するのか。どうして人間を喰らうのか。
はっきりしているのは、幻獣が人間の敵で、排除しなければいけないということだけだ。他ならぬ、自分たちが。
(……矛盾してるんだよな、俺自身が)
人間でも幻獣でもない、不安定で中途半端な存在。それが狼坂銀だ。月に一回受ける定期検診の結果を待つ間は、いつも緊張する。今回は大丈夫だったけど、次回もそうだとは言い切れない。もし自分が幻獣に近づいてしまったら……その不安を完全に拭い去ることができない。
「銀?」
火野坂の声に我に返った銀は、知らないうちに握りしめていた拳を解いた。
「顔色がよくない。霊気に当たりすぎたか」
「何でもないですよ。それより、お茶とケーキ、ご馳走様でした」
ソファから立ち上がり、銀は会釈をして退室しようとする。その背中に、火野坂の声がかけられる。
「満月の晩まであと三日だ。こんな言葉しかかけてやれないが……無理をするなよ」
ドアノブに手をかけたまま振り返ると、火野坂がわずかに心配そうな表情を浮かべて銀を見ていた。
安心してもらうために、銀は小さく微笑んで。
「はい」
◆
昇降機の降下が止まり、空気が漏れる音とともに扉が開く。
本部、地下訓練フロア。
利用者が少ないだろうお昼時を狙ってきたので、フロアは静かだった。今日の自主訓練メニューを脳内に思い浮かべながら、銀が訓練場をぐるりと囲む廊下を進んでいくと。
ひゅうっ。
風が鳴るような、ほんの些細な音が一瞬だけ耳に届いた。
そこで、初めて気づいた。
広い訓練場の中央に、双刀を携えたひとりの少女がいることに。
今まで気づけなかったのは、彼女が気配を絶っていたからだろう。さすがにこの時間帯にはいないだろうと思ってもいたこともある。声をかけようとして、けれどその考えはすぐに消し飛んだ。汐音は双刀を持った両腕をだらりと下げて、直立したまま、じっと目を閉じている。集中している。そんな雰囲気が伝播して、銀の外気に触れる皮膚を刺激する。例えるならば、なんらかの決定的な瞬間を待ち構えて、ずっと神経を研ぎ澄ませている感じ。
思わず息を止めていたことに気づいて空気を吸い込もうとしたのと、汐音が動いたのはほぼ同時だった。
跳ねるというより、もはや飛んでいるかのような軽やかさで、少女はひとり、疾駆する。その間にも両手に握られた刀は、まるで別の意思を持つ二つの生命体のように閃く。
鋭利な刃が虚空を斬り、突き、薙ぎ、そしてまた斬る。
力強いようで繊細、大胆なようで流麗な体捌き。
それは鍛錬というより、もはやひとつの舞踏のように思えた。
これだけの圧倒的な動きを見せておきながら、足音も呼吸音も聞こえない。二振りの双刀が空気を斬る音だけが響く。
と、そこで汐音の動きが変わった。突如として彼女の前に、ひとりの敵が出現したようだった。仮想の敵。汐音は見えない敵から放たれるあらゆる攻撃を受け流し、あるいは弾いていく。防御から一転し、怒涛のような攻撃に出る。
胸の前で交差した双刀が解き放ったところで、汐音はようやく動きを止めた。終わったようだ。
「お疲れさん」
タオルに顔を押しつけていた汐音に、声をかける。汐音は少し驚いたように銀を見て、それからにこっと笑った。
「そっちこそ、検査お疲れ。どうだった?」
「異常なし。健康体そのものだってさ」
「そっか、よかった」
タオルと一緒に用意していたスポーツドリンクを口に含む汐音を見て、銀はふと気になったことを聞いてみた。
「昼は?」
「え、もうお昼?」
目をぱちくりさせる汐音。やっぱりな、と銀は苦笑する。
「銀は? お昼はもう食べたの?」
「いや、まだだけど。軽くトレーニングしてから食べようかなと思って」
「じゃあ一緒に組手しましょ!」
「……今なんと?」
てっきり昼休憩をとるのかと思いきや、汐音はぱっと顔を輝かせてそんな提案をしてきた。
「もう少し汗かきたいなーと思って! ね、いいでしょ」
「そりゃまあ、構わないけど……」
銀の返事に、汐音はおっしゃー!とガッツポーズ。相変わらず底なしの体力だなぁと思いつつ、銀はウォーミングアップを開始する。
けっきょく、汐音に付き合わされる形で、夕方まで延々と組手をし続けるのだった。
◆
「ほらほら、席につけー」
担任の声にわらわらと自分の席に戻っていく生徒たち。朝のホームルームが始まろうとしていた。
ふと斜め前に視線を向けると、机に突っ伏して安眠中の汐音を、彩羽が後ろの席から突いている。それで部活の朝練にはきっちり出ているのだからすごい。
「もーすぐ七月で、そこからはあっという間に夏休みだ。ちゃんと課題を片付けて、あとは警察の厄介にならなきゃ何してもオーケイだ。海に行くもよし、山に行くもよし、気になるあの子をデートに誘うもよし。ただーし!」
ばんっと教卓を叩く担任。豪快かつ大胆な性格だが、これでも一応女性だ。念のため。
「この夏を謳歌しようと思ったら、その前に立ちはだかる定期考査を乗り切らなきゃいかん! いいかお前ら、絶対に単位落とすなよ。落としたらあたしが上に文句言われるんだからな。そこんところちゃんと考えて勉学に励んでくれたまえ――特に森宮・春成ペア」
「センセ、名指しだなんてプライバシーの侵害!」
「安心しろ、周知の事実だ」
和葉の抗議にもグッと親指を突き出して見せる担任。汐音はまだうつらうつらしている。彩羽は諦めたらしい。
「で、話は変わって……突然だが、今日からこのクラスに転入生を迎えることになった」
教室がざわめく。
「こんな時期だが、まあ家の都合だから仕方ないな。ほんじゃま、入ってもらおうか」
担任の声に、数秒遅れて教室に入ってくる人物。
女の子だった。
切り揃えた艶やかな黒髪。びっくりするくらい白い肌。真新しい制服越しにも華奢な体型が見てとれる。転入生は教卓の横に立つと、すっと背筋を伸ばした。
「……一之咲雀、と申します。よろしくお願いします」
頭を下げる動作のひとつひとつがとても精錬されて、美しいとすら思える。
けれど銀は猛烈な違和感を抱く。
そこには表情と呼べるものが一切存在しないのだ。
容姿だけなら間違いなく美少女の部類に入るというのに、ガラスのような、むしろ鋭いとさえ思える無表情さのせいでマイナスな印象を与えている。無愛想だとか、ぶっきらぼうだとか、そんなレベルではない。静かで冷たい威圧感……とでも言えばわかってもらえるだろうか。
「自己PRとかあるか?」
「……いえ、特には」
「んー。時間もあるし、質問タイムといくか。誰か質問ある奴はー?」
ぱらぱらと手が挙がり、ありきたりな質問に転入生は淡々と答えていく。少し丁寧すぎる言葉遣いを除けば、回答自体はいたって普通だ。一通りの質疑応答が終わったところで、担任は顎に手をやって「ふうむ」と悩む素振りを見せた。
「席はどうすっかな。……ん、ちょうどいいや。秋永、席ひとつ下がってくれ。んで、春成の隣に一之咲」
「……ほへ?」
ようやく意識が戻ったらしい汐音が素っ頓狂な声を上げる。
「ほら、隣に転入生が来てお前も少しは緊張感を持って授業に臨めるだろ。それに一之咲にはまだ教科書が届いてないし、一石二鳥ってわけだ」
「おおー」と感心の声が広がる教室。「ご愁傷様」の笑みを送ってくる和葉の額に、汐音が弾き飛ばした消しゴムがクリーンヒットした。
ホームルームが終了し、雀が指定された席に着く。
「……よろしくお願いします。春成さん……でよろしいですか」
「う、うんっ。春成汐音よ、よろしくね」
小さく会釈する雀に、アハハとぎこちない笑みを返す汐音。
これが汐音の居眠り回数削減のきっかけになればいいなと思う反面、銀はこの笑わない転入生に対する違和感を拭いきれずにいた。
一方で。
(一之咲……一之咲? どっかで聞いたことがあるような、ないような……)
内心、首を傾げながらも、
(ま、いっか)
やはり細かいことを考えるのが苦手な汐音さんであった。
2013/12/01:文章訂正
2014/03/19:加筆修正