第六話 『一之咲』の少女
それは一之咲雀が、十七歳の誕生日を迎えたある春の日のこと――
広大な敷地を抱える屋敷の一室で、雀は祖母と向かい合っていた。
一之咲家の現当主である一之咲美澄は、決して笑わない。凛とした佇まいを崩すところなど見たことがない。多くを語らない代わりに、態度で示す。雀にとって彼女は、早くに家族を亡くした雀を引き取り育ててくれた強い女性であるとともに、陰陽道の教育に関しては一切の弱音も許さない厳しい祖母だった。
「雀」
静かで、威厳ある声音。
何百年も森の奥でひっそりと息づく大樹の葉に染み込む雨滴のように、その一言はこの空間に浸透し、支配する。
庭で桜の花びらが舞う光景も、別世界の出来事のように感じられた。
「はい」
「現当主の名において、今この時をもって、あなたを次代当主に指名します。これがどういうことを意味するか、わかりますね」
「はい」
次代当主。
次に「一之咲」の名を背負い、その使命を果たす者。
そして、その名を次へ繋げる者。
「今日より二月後、あなたは下界に下り、ムラクモの陰陽師として正式に迎えられることになります。詳しい日程はその都度、式神に連絡させますが……わたくしが御山に来ることも、もうないでしょう。次に会うのは本家です」
「……はい」
「古来より陰陽道を司る十二宗家、その一角たる一之咲家の名に恥じぬよう、精進してください」
「……はい、お祖母様」
両手を揃えて、深々と頭を下げる。
祖母は何も言わずに立ち上がり部屋を出ていく。足音が遠ざかり、聞こえなくなってからも、雀は頭を上げることができずにいた。
(やっぱり……何も言ってくれなかった)
祖母に引き取られてから十二年……今年もやはり、祖母が誕生日を祝う言葉を口にすることはなかった。
◆
「雀ちゃ~ん」
「姫、お疲れ様です」
間延びした声と、生真面目な声。
聞き慣れた彼らの声に、雀はそれまで見上げていた桜の木から視線を外した。季節は水無月。桜の花はとっくに散ってしまった後で、生い茂った若葉が風に揺れている。
「……どうしたのですか、二人とも。昼餉にはまだ早いでしょう」
「いや~。雀ちゃんが珍しく稽古中にぼ~っとしてるからさ、気になって」
長い黒髪を結って背に垂らした黒風が、頭の後ろで腕を組んでにかっと笑う。
「……別に、そんなことは」
「姫、お言葉ですが、少し休まれた方が。出立は明日ですし、ここで無理をして体調を崩されたら大変です」
黒風と対照的に、白い髪を揺らして白雨が控えめに提案。それでも雀がその場を動こうとしないので、白雨は苦しそうに眉根を寄せる。
「やはり、まだ――」
「いえ、私の覚悟はもう決まっています。一之咲家の次代当主としてお祖母様を支え、陰陽師としての使命に生きる。それ以上のことを私は望みません。けれど……」
普段から表情らしい表情が浮かべることのない雀が、その揺れる双眸をわずかに伏せた。
途切れた言葉を拾うのは黒風。
「雀ちゃんは家族を殺した幻獣を殺すのが目標だもんな~」
「黒風!」
厳しい制止の声を上げる白雨に、黒風はべえっと舌を出して。
「お前は頭がお固いんだっつ~の、白雨。雀ちゃんが十二年もひとりで厳しい修業に耐えてきた理由を忘れたのかよ」
「忘れるわけがないだろう! ……しかし姫。そのようなことを、当主様は望まれておりません。一之咲の名を正しく継ぐことができるのは、現時点において姫ただひとり。他に後継者候補がいない今、自らの命をないがしろにするような行為は決して許されません」
「だから雀ちゃんは……」
硬く真面目な表情を崩さない白雨に痺れを切らした黒風が食ってかかろうとするが、雀は手を挙げてそれを制した。
「黒風、ありがとうございます。白雨……確かに、黒風の言うとおり、私は亡きお父様とお母様、兄様と姉様たちの墓前に復讐を誓いました。けれど、私は死ぬつもりはありません。もし、かの幻獣と相見えるときがあれば――――」
ざわり、と強い風が吹く。
「私はこの手で、『銀色の狼』を滅します」
2014/03/19:加筆修正