幕間 茜色ニ染マッテ
汐音と千沙を残して教室を離れた銀が、登下校では利用しないはずの電車に乗って訪れたのは、市内にある総合病院だった。
通い慣れた白い通路を進み、ムラクモが管轄する棟へ。特殊な結界によって呪的に隔離された棟内は静かで、途中で擦れ違う人はいなかった。廊下には銀一人の足音だけが響く。
やがて目的の病室に辿り着き、ドア横のプレートに刻まれた四文字をじっと見つめる。
『久凪真尋』
何度も通っているはずなのに、このドアを開けるときはいつも緊張する。深呼吸をして、薄いドアをノック。返事が返ってくることはないと分かりきっているけれど、そうせずにはいられない。
それほど、「彼」は銀にとって特別な存在なのだから。
中へ入ると、いつ見ても変わらない殺風景な病室がそこにある。斜めに差し込む夕陽が、白いベッドと、そこで眠り続ける「彼」を茜色に染めていた。
ベッド脇のパイプ椅子を引き寄せて座る。ふと視線をやると、小さなテーブルには花瓶があって、まだ新しい花が飾られていた。清涼感のある優しい香りがする。
まだ会ったことも見たこともない、「彼」を見舞う人物が他にもいることを銀は知っている。やって来る頻度は銀よりもずっと少ないけれど、その人は必ず花を飾っていくのだ。
その人は、「彼」とどんな関係なのだろう。
どんな気持ちで花を飾ったのだろう……。
銀にはできないが、その人にはできてしまう。
そのことに、悔しさはない。落胆もない。
ただ、虚しさだけがある。
その人はきっと、自身と「彼」との関係が明確で、その上で花を持ってくるのだろう。
「マヒロ」
沈黙しかないと知っていても、呼びかける。
眠る「彼」の顔は、まるでちょっと昼寝でもしているかのように穏やかで。声をかけたら、眠い目をこすりながら起きてくれそうで。
けれど、銀は「彼」を知らない。
「彼」が銀にとってどういう存在なのか。どんな声で話し、どんな顔で笑い、どんな風に銀の名前を呼ぶのか、何も知らない。
二年前のあの日――自分が人間ではないと知ってしまったあの日、銀は「彼」を含めたそれ以前の記憶を、すべて失ってしまったのだから。
「昨日は、いろいろと大変だったんだ。汐音のやつがな……」
とりとめのない日常を語ることに、大した意味はない。聞こえているのかもわからない。けれど銀は語るのだ。
――目を覚ましたときに、自分が「狼坂銀」だとわかってもらえるように。
語り終えたときにはもう空は藍色で、星が瞬いていた。電気をつけていなかった薄暗い病室で、銀は長い吐息を漏らす。立ち上がって、開いていた窓とカーテンを閉めて、最後に、銀は「彼」に微笑みかける。
「じゃあ……そろそろ帰るよ。マヒロも、元気で」
次も、その次も、そのまた次も、きっと銀は花を持ってこない。
自分と「彼」との関係が明確になるときまで――
ちゃんと「彼」を「真尋」と呼べるときまで――
銀は、茜色に染まりながら眠る「彼」に、語り続けるだろう。
2014/03/19:加筆修正