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ロンリーウルフ・ファンタジア  作者: 早坂美魚
第一章 無彩色デイズ
6/19

第五話 汐音先輩の悩み・解決

 あたしこと朝倉千沙が「先輩」と出会ったのは、本当に偶然だった。

 寝坊していつもより遅い時間の電車に乗り、ラッシュアワーにぶつかってしまった二週間ちょっと前の日の朝。

 ぎゅぎうぎゅう詰めの車内で息苦しい思いをしていると、どこかの駅に停車して、ドアが開いて――

 運悪く、降車する人の流れに呑まれて、バランスを崩してしまった。


(あ、やばっ)


 倒れる、と思わず目を閉じて衝撃に身を固くしていたとき、


「わわっ、大丈夫?」


 咄嗟に腕を引いて助けてくれたのが「先輩」で。

 どうして「先輩」だとわかったのかと言うと、同じ学園の制服を着ていたからだ。制服のよれ具合から、きっと上級生なんだろうと思った。

 大丈夫です、とあたしが小さく返すと、「先輩」はにっこりと素敵な笑顔で「よかった」と言ってくれて。

 そこでまだお礼を言っていなかったことに気づいて、慌てて口を開こうとしたけれど、今度は乗車してくる人の流れに遮られて、けっきょくその後、「先輩」に会うことはなかった。

 これが一目惚れというやつなんだろう。

 授業中も休み時間中も部活中も、ふとした瞬間に「先輩」の笑顔が頭に浮かんでしまう。

 会いたい。

 会って、ちゃんとお礼を言いたい。

 でも、クラスも名前も知らないし……

 頭を抱えていると、さすがにクラスメイトに気づかれてしまった。


「千沙、千沙っ。大丈夫? ぼーっとしちゃって」

「美羽ちゃん……どうしよう、あたし――恋、しちゃったかも」

「はい?」


 情報通な友達に調べてもらって、名前とクラスが判明した。ひとつ年上の、二年生。

 そこまで知ってしまうと、やっぱり会いたいという気持ちが大きくなって。

 悩んで悩んで悩みまくった末に――あたしは大きな挑戦をすることにした。

 ずばり、料理。

 あたしは料理が苦手だ。どのくらい苦手なのかというと、お父さんに台所に立つなと念押しされているくらい、苦手だ。でも、どうしても先輩に会って、気持ちを伝えたくて。苦手な料理に挑戦して、お菓子を作ることができたら、きっと気持ちを伝える自信にも繋がるんじゃないか……そう考えた。

 ただ、問題がひとつ。

 家では台所に立てないということ。

 これには悩んだ。

 友達の家で作らせてもらおうかとも考えたけれど、あたしの「料理」という行為が相当な被害をもたらすことは知っていたから、相談できず。

 そこで、学校の調理室をこっそり使うことにした。

 料理同好会が使うので、チャンスは夜。

 部活もあるからけっこうキツかったし、練習中にあれこれ考えてしまって、先輩にも心配をかけてしまった。

 だけど、これが完成したとき……

 あたしは、ちゃんと自信を持って、「先輩」と向き合える気がする。




 ◆




 朝倉(アサクラ)千沙(チサ)と名乗った女子生徒は、頬を微かに赤く染めて話を締めくくった。

 ……要約すると、彼女は一目惚れしてしまった「先輩」とやらに、手作りチョコレートと一緒に告白しようとしているらしい。


「話は理解した。だけどこんな夜遅くに無断で忍び込むのは、やっぱりよくないと思うよ」

「う……それは、反省してます。でも、もういいんです」

「というと?」

「はいっ。実は、後は固まるのを待つだけで、もう完成目前なんです!」

「そっか、良かったな」

「えへへ……」


 銀が微笑むと、千沙は照れくさそうに笑う。ちなみに、銀が儀礼衣姿であることに関しては、「和服が普段着」という咄嗟の苦しい嘘で納得してくれたらしい。もしかしたら騙されやすいタイプなのかもしれない。

 そこでふと、銀の脳裏に蘇る昼間の奏多の言葉があった。


 ――流行ってるって言っても、そんな大した内容じゃない。『誰もいないはずの校舎で女の子の笑い声がする』だとか『刃物を持って走る影が見える』とか、小学校レベルの噂だ――


 学校の怪談。

 銀と汐音が校舎を巡回していた理由。

 ……考えてみれば、怪談が流行り始めた時期と千沙が学校の調理室を使用し始めた時期は一致するような……。


「なあ、朝倉さん」

「はい、なんでしょう」


 こんなことを本人に面と向かって言うのには抵抗があったが、一応「仕事」の一環として聞かなければならないだろう。


「間違ってたら申し訳ないんだけど……最近流行ってる怪談のモデルって、朝倉さん?」

「………………そうなんですか?」


 きょとんと聞き返す千沙。


「『誰もいないはずの校舎で女の子の笑い声』するっていうのは?」

「あー……自覚はないんですけど、どうもあたし、調理器具を持つと人格変わっちゃうらしいんですよね」

「…………」


 うん、可能性大だな。


「じゃあ『刃物を持って走る影が見える』は?」


 すると千沙は「まさか!」と笑って。


「いくらあたしでも、さすがにそれはないですよ!」


 そうだよな、と返そうとして。



 ぞわり、と――



 まるで、背中を氷の手でつっと撫でられるような――



「伏せろッッッ!!」


 爪先から脳天までを一気に駆け抜けた悪寒に、気づけば隣の千沙を床に突き飛ばし、自分も転がっていた。転がりながら銀が見たのは、先程まで二人がいたあたりに向けて放出された緑色の液体のようなものが、的を失って調理台に降りかかり――あっという間に調理台を腐食させてしまう光景だった。


「腐食能力かっ……!」


 体勢を立て直し、目の前で起こった突然の異変に思考が追いつかない様子の千沙を背後に庇う。

 その幻獣は、天井に張りつくようにして、こちらを見下ろしていた。

 蜘蛛のような幻獣だった。

 ただし、体長が一メートルはありそうな巨大蜘蛛だ。

 照明を受けてぬらりと光る外殻は濃紫色。左右四対の脚が生えていて、爪を天井に喰い込ませて張りついている。八個の紅い目の下で開かれた大きくて強靭そうな顎からは、先程一瞬で調理台を溶かせてみせたのと同じ緑色の液体が零れ、床を腐食させていく。

 蟲型幻獣(モデル・インセクト)〈土蜘蛛〉。


(おいおい、冗談だろ……)


 汐音もいない、封印も未解呪、しかも背後には幻獣が視えない一般人。

 絶望的とはこのことを言うんだろう。

 とにもかくにも、まずは汐音を呼ばなければならない。顎を打ち合わせてギチギチと不快な音を立てる幻獣から視線を逸らさぬまま、後ろ手で取り出した携帯を操作。

 が、銀が何をしようとしているのかを悟ったのか、土蜘蛛が顎の動きを止めた。口にあたる部分ががぱりと開く。

 銀は背後の千沙を抱えて飛び退くが、汐音を呼ぶ前の携帯を犠牲にしなければならなかった。

 開かれた口からあの白濁した液体が降りかかり、それを浴びた携帯が腐食、画面から光が消えた。……確かに登録件数少ないけど!

 次々と吐き出される腐食液を回避しながら、銀はぎりりと歯軋り。


「くそっ、埒が明かないっ」

「い、いったい、なにが……」


 放心状態だった千沙だが、その視界に調理室の隅に置かれた冷蔵庫が映った瞬間、はっと我に返って銀の腕から抜け出す。


「冷蔵庫はだめっっっ!」

「動いちゃだめだッ」


 銀の静止を振り払い、チョコレートが入っている冷蔵庫へ向けて走り出す千沙。その後を追いかけ、背後で土蜘蛛が歓喜に嗤う気配を感じながら、覆い被さるようにして千沙を庇う。

 直撃はなんとか回避したが、腐食液は儀礼衣の掠めた部分の繊維を腐敗させた。背中の皮膚が焼け爛れるような激痛に意識が飛びかけるのを、歯を食いしばって耐える。その後ろの冷蔵庫は腐食液をもろに浴びて見る見るうちに腐食し、穴を開けた。中の冷気が漏れ出てくる。


「せ、せんぱい……?」


 千沙のか細い声に応える余裕はない。きっと背中はグロテスク状態だ。


(これは……本気でヤバいな)


 封印している状態でも一般人より身体能力が高い銀だが、それはあくまでも一般人と比較した場合だ。元々人間ですらない幻獣に、今の銀では太刀打ちできない。

 そして何より、一般人を庇いながらの戦闘を経験したことがない。

 万事休すの四文字が頭に浮かぶ。


「はぁああああああああっ!」


 そんな烈火の声が聞こえたかと思えば――次の瞬間、天井が落ちてきた。

 正確には、調理室の天井の中央のあたりに大穴が開き、コンクリや木材の瓦礫とともに上の階から別の土蜘蛛(ただし体色は鈍色)と、続いて汐音が落っこちてきた。

 無事に着地した汐音は調理室の惨状に驚いたようだったが、銀を見つけるとすぐに状況を判断してくれたらしい。右手の人差し指と中指を立て、ビッと銀に向ける。


「『限定解呪』!」


 途端、銀の半獣としての能力を制限していた封印が限定的に解除され、身体が重力を忘れたように軽くなる。身体能力とともに自己修復能力も向上し、背中の傷が発する激痛がたちまち引いていく。


「銀、そっちの幻獣は!?」

「腐食能力持ち!」

「こっちは金属生成よ! 全身どこからでも刃物が生えてくる! とにかくここは狭いからグラウンドに――」



「しおん、せんぱい……?」



 両手に短刀を握りしめ、今にも飛び出そうとしていた汐音の足がぴたりと停止。振り返った汐音の視線が、銀に庇われた女子生徒に向けられ、


「え、うそ……ちぃちゃん!?」


 ちぃちゃん。

 昨日、汐音の悩みを聞いたときに出てきた後輩の愛称ではなかったか。


「先輩、どうして――」

「え、ええと、これはっ」


 動揺する汐音。

 それが戦闘中の致命的な隙になると判断した銀は、心の中で謝罪しつつ、迷わず千沙の首筋に手刀を打ち込んで気絶させた。もちろん威力は抑えてある。


「集中しろ!」


 一喝。

 それと同時、汐音とともに落ちてきた方の鈍色の土蜘蛛が跳ねるように汐音に襲いかかる。すべての脚の関節から生えているのは、動物の骨が捻じれたような無骨な刃。体当たりするだけで標的を串刺しにできるというわけだ。


「ちぃちゃんには悪いけど……ありがとっ」


 汐音は流れるような動作ですべての刃を受け流し、破壊してみせた。

 ギチギチと顎を鳴らして後方に飛び退く鈍色の土蜘蛛。


「わたしの後輩を傷つけるなんて、許せない」


 汐音の中で呪力が研ぎ澄まされていくのがわかった。練り上げられ密度を増した呪力が手にした双剣に流れ込み、薄紅色の光として可視化。

 大技を繰り出そうとする汐音を嘲笑うかのように、濃紫色の土蜘蛛が顎を打ち鳴らす。

 ミシリ――と、嫌な音がした。


「へ――きゃっ!?」

「汐音ッ」


 天井と同じように、調理室の床のほとんどが崩壊。調理台も食器棚も破砕音を撒き散らしながら落ちて、捩じ切れた水道から水が迸る。退避する暇もなく汐音が落ちて、気絶した千沙を抱えたまま銀も下の階へ。配線が切れたのか、頭上の電気も消えた。

 叩きつけられるということはなかった。

 けれど、叩きつけられるより最悪な事態が待っていた。


「こ、これって……」


 わずかに震える汐音の声は、近くの虚空から。

 千沙を抱えた銀と汐音は、落下して教室の机やら椅子やらに激突する前に、空中で静止していた。

 つまり。


「……ああ、見事に捕まったわけだ」


 調理室に現れた土蜘蛛は囮。腐食能力持ちの土蜘蛛が調理室の床をあらかじめある程度まで腐食させ、崩壊しやすい条件を作っておいたのだろう。そして下の階には蜘蛛の糸を張り巡らせておく。そうすれば、あとは落とすだけでいい。

 暗闇ということもあって聴覚が過敏になり、止まらない放水音以外にも、できれば聞きたくない音まで聞こえてくる。

 カサカサと、カサカサと……。

 音が聞こえてくる方向や音量から推測するに、一匹や二匹ではないだろう。

 五、十……いや、もしかしたらそれよりも多いのでは……?

 四肢に巻きついた蜘蛛の糸は引き千切ろうにも弾力性が強くて難しい。

 幸運か不運か、今まで雲に覆われていた月が姿を現したらしい。視界が急に明るくなる。

 ――そして見てしまった。

 教室中に張り巡らされた蜘蛛の糸。最初に対峙していたのと同じような土蜘蛛が、天井に張りついたり床から目を光らせていたりした状態で、ざっと三十匹ほど。

 それだけでご馳走様と言いたくなる光景なのに、糸に絡めとられて身動きがとれない三人を見下ろすように、今までの土蜘蛛が子供に見えてしまうサイズの土蜘蛛が、牙を剥き出して目の前にいた。

 まるで女王蜘蛛のようだ。

 これだけの数の幻獣を統率できるとなると、きっとレベルⅡ、あるいはそれ以上。

 八つの赤い目が獲物を値踏みするようにぎょろぎょろと動く。おそろしく凶悪な顎が開き、毒だろう液体が滴る牙がぬらりと覗いた。

 その牙の先にいる汐音が「嘘ぉ!?」と悲鳴を上げる。


「も、もももももも燃やすわッ!」


 燃やす?

 今、燃やすって……?

 汐音は身を捩ってなんとか懐から一枚の呪符を取り出し、注ぎ込めるだけの呪力を注ぎ込んで叫んだ。


「――急々如律令!!」


 略式呪句。本来なされるべき詠唱が破棄されたため威力は劣るものの、注ぎ込まれた呪力量が呪力量だったこともあり、猛火が爆発。

 紅蓮の奔流が荒れ狂い、蜘蛛の糸を跡形もなく焼き尽くし、下っ端土蜘蛛の三分の二ほどを消滅させる。溢れる水道水も一瞬で蒸発。もろに直撃を受けた女王蜘蛛は、火達磨になりながらも教室の壁を突き破ってグラウンドへ飛び出した。

 汐音が生み出した炎は銀と銀が抱える千沙に絡まった蜘蛛の糸のみを焼き切ってくれたのだが、炎に呑まれるという体験はやはり気持ちのよいものではなく。しかもそれ以外のことは明らかに考慮されておらず――それが汐音らしいと言えば汐音らしいのだが――直接炎に晒された教室は黒コゲだ。


「少しは周りの被害を考えろよ」

「け、結果オーライなんだから文句言わないでっ」


 真っ赤な顔で噛みつくように叫んで、汐音は取り落していた双刀を拾い上げてグラウンドへ駆けていった。銀は比較的被害の少ない廊下へ出て抱えていた千沙をそっと横たえると、一応保険で簡単な悪鬼除けの呪符を貼りつけておく。外傷もなさそうだし、大丈夫だろう。

 グラウンドに出る。

 女王蜘蛛は無事だった子蜘蛛十五匹ほどを従えて、警戒態勢をとっていた。

 汐音は双刀を振りかざし、持ち前の俊敏な動きをもってどうにか女王蜘蛛に接近しようとしているが、子蜘蛛が吐き出す糸やら強酸やら腐食液やらの妨害を受けてなかなか接近できない状況。


(こういうときに、遠距離攻撃ができる後衛陰陽師がいたら……)


 思わずそう思ってしまったが、思ったところで状況は変わらない。

 前衛専門の二人でどうにかしないといけないのだから。

 覚悟を決める。


「銀っ、道を開くわよ!」

「応!」


 汐音の呼びかけに応えて、銀は呪力を集中させ驚異的な破壊力を秘めた右拳を地面に叩きつけた。大量の土砂を撒き散らされ、お互いの視界を塞ぐ。もちろんそれだけが狙いではない。

 銀が脚を振り上げ、そこに飛び乗った汐音を空高く蹴り上げる。

 まさか空中から攻撃されるとは思っていなかっただろう。子蜘蛛が動きを鈍らせ、数秒遅れてから標準を空中の汐音に向ける。けれどその数秒は汐音に攻撃の猶予を与えるには十分で。


焔影(ホカゲ)流双刀術・攻式八の型――――」


 両の刀を交差させる独特の構え。見据えるのは真下の女王蜘蛛。


「――――【紅蓮飛燕】ッ」


 溜めていた呪力を解き放つ。それは燕が翼を広げるが如く。

 紅い斬撃は周囲にいた子蜘蛛の何匹かを薙ぎ払いつつ、女王蜘蛛の背中に吸い込まれて爆発。女王蜘蛛の絶叫が轟き、八本の脚をめちゃくちゃに振り回して汐音の接近を阻む。それを掻い潜りながら銀の隣まで後退する汐音。その顔には驚きがあった。


「あの幻獣……手負いだわ」

「手負い?」

「うん。上から傷が見えた。深手ってわけではなさそうだけど、もしかしたら回復するまで校舎に潜んでたのかも。でもどうして……」


 そこで汐音が言葉を切る。

 女王蜘蛛が、前脚を高々と振り上げ、近くにいた子蜘蛛を刺し貫いたのだ。

 そして、ばりばりむしゃむしゃと、食べてしまった。

 硬直したように動きを止める他の子蜘蛛に、容赦なくそれを繰り返す。

 強靭な顎が容赦なく子蜘蛛の脚を、腹を、頭を、食い千切り、噛み砕き、咀嚼し、嚥下する。子蜘蛛だったものの破片が零れ、地面に落ちて、黒い塵となって消えていく。

 おぞましい食事が終わった。

 子蜘蛛は一匹も残っていない。

 銀と汐音は動けなかった。

 その間に、女王蜘蛛に更なる変化が起こる。ただでさえ三メートルほどもあった巨躯がミシミシと軋み、膨張を開始。外殻に凶悪な突起が無数に生え、脚の付け根や関節など全身のあらゆる隙間からごぽりと泡を弾けさせて形容しがたい色の液体が溢れてくる。地面に滴ったそれは一瞬にして煙を上げて土を液体に変えた。ぎょろぎょろと動く大きさがバラバラな八つの目は濁った赤色で、すべてが違う方向を向いている。牙は二本から四本に増え、ゆっくりと開かれた顎からも液体が糸を引いて零れ落ちた。


「捕食、能力……?」


 そう漏らしたのがどちらだったかわからない。

 他を喰らい、自らの力とする。それが女王蜘蛛の固有能力なのか。


(……無理だ)


 直感する。

 応援を呼ぶべきだ。

 今の女王蜘蛛はレベルⅢにも届きそうな膨大な呪力を放っている。レベルⅢと言えば、中級クラスの異能者の六人小隊(パーティ)で討伐するのが基本とされている戦闘力を持つ。

 同年代ではかなり珍しい中一級の汐音と、異能者二年生ながら下一級クラスの銀の戦闘力を足しても掛けても、到底太刀打ちできない。


「おい、汐音――」


 応援を呼んだ方がいい、そう言おうとした。

 けれど銀が言い切るより先に、女王蜘蛛が動いた。

 動いたと思ったときには、すでに目の前にいた。


「っ!!」


 弾かれたように二人はその場から飛び退く。女王蜘蛛の毒に濡れた前脚が振るわれて銀の儀礼衣の裾を引っ掻き、その部分が一瞬で溶けた。

 汐音が脚の攻撃をギリギリのところで回避しながら接近、下段から斬り上げる。呪力が込められた斬撃は女王蜘蛛の左脇腹に一条の傷を刻んだが、外殻は破れない。女王蜘蛛にとっては掠り傷程度だろう。硬度も捕食前とは比べ物にならないほど飛躍している。

 焦ったのだろう。汐音に隙ができた。

 振るわれる女王蜘蛛の脚。


「くぅっ……!?」


 血飛沫。

 汐音の左腕が裂けた。

 転がる汐音目がけて一直線に突っ込む女王蜘蛛。彼女の頭上に幻獣の牙が迫ったところで、銀はその横っ面に拳打を叩き込んだ。衝撃は外殻の中まで達したらしい。よろめいて動きを停止させた隙に、銀はへたり込んだ汐音をすくい上げるように抱えて退避。


「おいっ、大丈夫かっ?」

「ど、毒はなかったみたい……っ」


 腕から血を流しながら苦痛の表情を見せる汐音は、それでも立ち上がろうとする。


「よせ!」

「チャンスは今しかないっ。今あいつを倒さないで、誰が倒すのっ!」


 傷ついてもなお強い意志を宿した汐音の目が、銀を真っ直ぐに見据える。


「それが陰陽師(わたしたち)の仕事でしょ!」


 汐音の覚悟に応えるように、その中で呪力が弾ける。薄紅色の光が彼女の周囲で煌めく。その温かくて強い鼓動が、銀にまで伝わってくるようで。

 動きを止めていた女王蜘蛛が、ぴくりと巨躯を揺らした。

 銀は高ぶる気持ちを静め、頷く。


「一撃で、沈める」


 女王蜘蛛が動き出すのと、二人が飛び出したのは同時だった。

 銀の拳打が右側から。汐音の斬撃が左側から。

 全身のありったけの呪力が込められた二つの攻撃が、女王蜘蛛の両脇を駆け抜けた。

 呪力を吐き出し尽くした頭痛と眩暈を無視して二人が振り返る。

 女王蜘蛛は動かない。突進する恰好のまま動きを停止させている。

 やったのか――思わず漏らしそうになった安堵の言葉は、しかし出てこなかった。

 ぎしり、と外殻を軋ませて、女王蜘蛛がこちらへ巨躯を回転させる。二人の攻撃は確かに届いていた。けれど女王蜘蛛の生命力を凌駕することができなかった。砕けた外殻の下から単純なつくりの臓物をぶちまけながら、それでも女王蜘蛛は動いてみせたのだ。八つの目には明らかな狂気と、勝利への歓喜。

 女王蜘蛛が巨躯を引きずるようにして突進してくる。

 呪力の回復が追いつかない。

 急激な呪力の消費が視界を霞ませる。

 ――だからなのか、銀はそれからの光景を冷静に見ていられた。


 それはあまりにも唐突に現れた。


 空から女王蜘蛛目がけて一条の閃光が降り注ぎ――凄まじい轟音を炸裂させて、女王蜘蛛が今度こそ動きを止めた。八つの赤い目から命の光が消え、そして黒い塵となって消滅していく。

 女王蜘蛛がいた地面に深々と突き立っていたそれは、一振りの刀。


「ぃよっこらせ~っと―――よう、お疲れさん」


 そしてそれを引き抜く五指は、華やかな柄の羽織をひっかけた大柄なヒゲオヤジのもので……


「え、え?」


 予想外の人物がそこにいたことに、汐音は目を丸くする。


「この幻獣な、昨日うちの隊の奴が逃がしたやつなんだわ。報告受けただろう?」


 染井の言葉を意識の遠くで聞いていた銀は(ああ、やっぱり……)とすんなり納得することができたものの、汐音は目を白黒させるばかりで……ようやく腕の傷を思い出したようにへたり込む汐音を、背後から受け止める女性がいた。


「また無茶したわねー。ほら、腕診せて。治療したげる」

「あ、ありがとうございます、りりこさん」


 明るい茶髪の若い女性が汐音を座らせ、精霊の力を借りた治癒呪術をかけていく。

 銀は視線を染井に移した。


「ええと、染井さんはどうしてここに……」

「でかい呪力を感じたもんでな。気になって来てみたら~ってやつだ。何にせよ、間に合ってよかった。……もう呪力もすっからかんだろう。掃除屋への連絡はこっちでしておくから、もう帰って休め」


 見れば、グラウンドは荒れ放題、校舎も無残な傷痕を晒している。これを修復するにはかなりの数と時間が必要になるだろう。もしかしたら掃除屋ブラックリストに載ってしまうかもしれない。


「隊長……」


 腕の傷を治してもらって医療用パッチを貼りつけた汐音が立ち上がり、気まずげに染井を見、おもむろに頭を下げた。


「……すみません。応援を呼ぶべきだったのにしなくて、手傷を負いました」

「ん。確かに応援を呼ばなかったのは判断ミスだな。別にお前さんの実力を否定するわけじゃあないが、俺らは無謀な戦いは避けんといかん。戦って死ぬんじゃなくて、生きて戦うのが俺らの仕事だからな。そこんところは反省しろ」

「……はい」


 いつもと変わらない声音だが、染井の言葉は的確で、厳しい。頭を下げた汐音がぐっと唇を噛み締めるのがわかった。


「でも、まあ、なんだ――――――最後の一撃は、なかなか悪くなかったぞ」


 染井の大きな手が、わしゃわしゃと汐音の頭を撫でる。「わわっ」と驚く汐音だが、されるがままになっていた。


「……なんだかんだ言っても、やっぱ隊長は汐音ちゃんのこと気にかけてるのよねー」


 りりこがこっそりと銀に耳打ちする。


「『今あいつを倒さないで、誰が倒すのっ!』『それが陰陽師(わたしたち)の仕事でしょ!』かぁ……汐音ちゃんも言うようになったよねー。ふふふ、先輩として嬉しいなぁ」

「……いつから見てたんですか?」

「えー? それは秘密」

「…………」


 くすくす笑うりりこに、染井が声をかける。


「おーい、りりこ。他の連中も呼んでくれ」

「修復手伝わせる気満々ですね」

「おう、当たり前だろ。最初に討伐できなかった連帯責任だ」

「……ま、あたしは力仕事できないから、いいんですけどー」


 ため息を漏らして携帯を操作し始めるりりこ。

 いつの間にか空は晴れていて、月がやわらかな光を投げかけていた。




 ◆




 数時間後。完璧に修復された調理室にて。


「ちぃちゃんっ」


 まだ意識のはっきりしないまま問答無用に汐音に抱きしめられ、目を白黒させる千沙がいた。


「こんな夜遅くまで家に帰らなかったらみんな心配するでしょ!」

「え、ええっと……あたし……?」


 混乱するのも無理はないだろう。掃除屋の中でも対人呪術のプロがいて、千沙に簡単な記憶操作を施して、銀と調理室で出会うまでの記憶を消去したのだ。

 汐音(ちなみに今着ている私服はりりこが手配してくれたもの)は安心させるように尊大に笑って。


「たまたま予習ノートを学校に忘れちゃって仕方なく取りにきて、たまたま調理室を覗いたら、たまたまちぃちゃんが倒れてたのよ! びっくりしたわ!」


 それは予習をしたことがない奴がついていい嘘ではない。


「は、はあ……」


 そこで千沙が、汐音の後ろにいた銀に気づいた。


「えーと……もしかして、狼坂先輩ですか?」

「うん? ちぃちゃん、こいつ知ってるの?」

「クラスメイトに先輩のファンがいて…………でも、どうして先輩がここにいるんでしょう?」

「わたしみたいなか弱い女の子が夜道を歩いてたら危ないから、その護衛よ」


(どこらへんがか弱いんだ)と心の中で真剣なツッコミを入れたら、ギロリと睨まれた。

 しばらく呆然としていた千沙だったが、突然なにかを思い出したように「あっ」と声を上げると、調理室の隅にある冷蔵庫に向かう。土蜘蛛の腐食液で壊れた冷蔵庫だが、修復してくれた染井の隊の人によると、中身は無事だったという。中のチョコレートがちゃんと固まっていることを確認して、千沙がほっと胸を撫で下ろす。

 それから申し訳なさそうに目を伏せて、汐音に頭を下げた。


「……汐音先輩、あたし、朝練習で先輩に声をかけられたとき、何でもないって言っちゃいましたけど、本当は違うんです。でも、都大会も近いし、忙しい先輩に迷惑をかけたくなくて……本当に、すみません」

「…………」


 汐音は何も言わない。

 それを汐音が怒っていると思ったのか、千沙が頭を下げたまま体を震わせる。け


「好きな人、いるんでしょ? それでお菓子作りしてたのよね?」


 びっくりして顔を上げる千沙に、汐音はにっこりと笑いかけて。


「それってすごく素敵だと思う!」




 ◆




 ……どうしよう、顔が熱い。胸がドキドキする。

 あたしは期待と不安に押し潰されそうになりながら、校舎裏にいた。

 チョコレートが入った箱を抱えて。

 あたしは朝一番で登校して、一目惚れした「先輩」の下駄箱に、『放課後、南校舎裏に来て下さい』と書いた手紙を入れておいた。

 読んでくれたかな。来てくれるかな。そう考えると逃げ出したいくらいの不安に駆られるけど、そのたびに昨日の夜の汐音先輩の言葉を思い出す。

 素敵だって……素敵だって言ってくれたから。

 結果はわからない。

 だけど、あたしは待つ。怖いけど、待つと決めたんだ。

 そして。

 ずっと想い焦がれていた「先輩」の姿が見えた途端、あたしは泣きそうになった。

 ぎゅっと箱を抱きしめる。

「先輩」は戸惑いながらも「この手紙くれたのって、きみ?」と聞いてくれて、あたしはしっかりと「先輩」を見上げて「はい」と答えた。


「先輩、あのっっ!」


 伝えるんだ、あたしの気持ち。

 渡すんだ、あたしの想い。


「先輩はっ―――――――――――――」




 ◆




「腕、もう調子はいいのか?」

「うん、ばっちり! やっぱりりりこさんって凄いわぁ。傷も残ってないのよ」

「そっか。久しぶりだな、怪我するの」

「でも、そのおかげで自分の失敗に気づけたわけだから。あ、でも痛いのはやっぱり嫌だなぁ」


 教室には銀と汐音しか残っていなかった。

 どちらからもあえて話題に出さないが、二人が残っている理由は千沙にある。

 昨日の夜、千沙を家まで送り届けたあと、彼女は言ったのだ。


『あたし、明日、告白します!』


 別に結果が気になるわけではない。成就すればいいとは思うが、それは当事者の問題であるし、銀には関係がない。けれどなんとなく帰宅する気になれず、残っているというわけだ。

 話題がなくなって、沈黙が舞い降りる。

 見るものもなく、ただ窓の外の夕暮れの景色を眺めていると、教室のドアが控えめに開く音がして。

 はっと振り返った汐音の眉が、そこに立っている人物を見て、わずかに下がる。


「えへへへ……やっぱり、ダメでした」


 千沙は泣き腫らした顔で、それでも気丈に笑って見せた。


「……ちぃちゃん」

「汐音先輩、狼坂先輩、あたしのワガママに付き合ってくださって、ありがとうございました。見事に玉砕しちゃいましたけど、お二人には本当に感謝して………っ」

「無理しちゃだめよ」


 ふわり――と。

 窓から離れて歩み寄った汐音は、千沙を抱きしめた。

 千沙が驚いたように息を詰まらせる。


「こんなときは思いっきり泣いて、すっきりしなきゃ」


 千沙の唇が震えて、噛みしめられた口から嗚咽が漏れる。

 汐音の胸に顔を埋めて、千沙が泣き出す。

 泣きじゃくる後輩と、そんな後輩をぎゅっと抱きしめて優しく頭を撫でる先輩――

 そんな二人の姿をガラスの向こう側の出来事のようにただ見ているしかできなかい銀は、寂しそうに小さく微笑むと、静かに教室を出た。



 次の日。


「おっはよ―――――」

「こんの……ばかやろぉぉぉぉぉっ!」

「ごはぁッ!」


 いつものように元気に教室へ足を踏み入れた森宮和葉は、待ち構えていた汐音のアッパーカットを喰らって保健室送りとなったという。

 その原因を知る者はほとんどいない。




 ◆




『先輩はっ――――――く、熊はお好きですかっっ!?』

『熊!? え、ええと……どっちかと言うと、犬の方が……』


 朝倉千沙……熊狩りの父の影響で、熊をこよなく愛する女の子。

 彼女が手渡した特大チョコレートは、見事な熊型だったそうな。

2014/03/19:加筆修正

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