第三話 汐音先輩の悩み
叩きつけるような鋭い音。
大粒の雨が滝のように流れていく窓ガラスの向こうで雷光が迸り、部屋を白一色に染めた。
再び闇に沈む部屋。
その中で。
………トン……ト、トン……ト……
闇の中、雨音に混じる別の音があった。
……ふふ……あはは……ふふふ………
学校のとある部屋にて。
ひっそりと、誰にも聞かれることなく、その音は響いていた。
◆
女子剣道部と立派な字でしたためられた看板が掲げられた練習場にて。
「素振りあと五十回ねー」
『はい!』
練習着姿の汐音が指示を飛ばすと、後輩の元気な返事が返ってくる。
女子剣道部は、今日も四名がせっせと朝練をこなしていた。
今年で創部十六年目。女子の運動部としては古参な部なのだが、部員数が少ないという問題を抱えていた。部の実力が低いわけではない。事実、練習場の壁には歴代の先輩たちの活躍を称える賞状がたくさん飾られているし、多いときでは三十名くらいいたらしい。
けれど、朝部に参加しているのは二年生が一人(汐音)と、一年生が三人。本来なら部活を引っ張る立場にいるはずの三年生の姿はない。
誰かがサボっているわけではない。
去年、非公式に繰り広げられた第六次女子運動部大戦で歴史的大敗を喫し、新入部員勧誘名スポットの独占権を逃した挙句に、あまりのショックから大戦に参加した三年生三名が幽霊部員となり――新入生が激減しただけだ。
二年生は汐音の他にもう一人いるのだが、こちらは大戦とは関係なく体調的な問題で長期休部届けを出している。彼女が主将代理だから、汐音が副主将代理。
一番早く素振りを終え、まだ竹刀を振り続けている後輩に目をやる。二年生二人で奔走してなんとか引っ張り込むことに成功した一年生たちも、振り方がだいぶ様になってきたように思える。
後輩の成長を嬉しく思いながら、そこでふと、とある部員に違和感を覚えた。目の錯覚だと自分に言い聞かせれば無視できる程度のものだったのだが、やっぱり一度そう思ってしまうとなかなか拭えず。
「ありがとうございましたー!」の挨拶で朝練を終え、更衣室に向かう流れの中にいる彼女を呼び止めた。
「ちぃちゃん、何か悩み事でもあるの?」
まさか呼び止められるとは思っていなかったのだろう。小柄な後輩がびっくりしたように目をぱちくりさせる。
「えっ、いきなりどうしたんですか、汐音先輩?」
「うーん、なんとなく気になって。素振りのときも、心ここにあらずって感じだったから」
「そ、そうですか? そんなつもりはなかったんですけど……すみません、ご心配をかけてしまって……」
「あ、ううん、何もないならいいの。呼び止めてごめんね」
「いえいえ! じゃあ失礼しますね!」
にこっと無邪気な笑顔で挨拶をしてぱたぱたと走り去っていく後輩。その姿はいたって普通なのだけれど……。
「うーん?」
どうもスッキリしない汐音さんであった。
◆
夜。
「むーむむむ……」
春成家の縁側にて、汐音は唸っていた。ちなみに今日は非番だ。
「なんかあったのか?」
汐音が斜め上に視線をやると、風呂上りらしい銀が肩にタオルを引っかけて立っていた。片手には金平糖が山盛りになった器が。
「……なんで金平糖?」
「小萩さんが、『普段考え事をなさらないお嬢様が考え事をしていらっしゃるなんて、さぞや脳内の糖分が不足していることでしょう』って」
「どうせいつも後先考えて行動してませんけどなにか!?」
「まあそう怒るなって……ほら」
ぷんぷん怒る汐音に器を差し出すと、ひったくる勢いで金平糖を鷲掴みにて、そのままボリボリ噛み砕いてしまった。よっぽど糖分使ってたんだろうなぁ、と銀は内心、なんでもお見通しの春成家お手伝いさんに拍手を送っておく。
「で? 一日中なに考えてたんだ?」
「え、なんで知ってるの」
「そりゃお前……居眠り魔が授業中に一睡もしてなかったら、誰でも怪しいと思う――ぐはっ」
余計なことをいう銀の脇腹に汐音の肘鉄が埋まる。
あんなこんなで、汐音はずっと考えていたことを銀に打ち明けた。
「……つまり、部活の後輩の様子がおかしいから気になると?」
「んー。ただの考え過ぎだと思うんだけど、なんかねー」
指先の金平糖を眺めながら、困ったように笑う汐音。
そういうところには人一倍敏感な汐音だ。彼女がそう言うのなら、そうなのだろう。
「代理も大変だな」
帰宅部所属の銀は、苦笑気味にそう言うしかできない。
「銀は? 入りたい部活とか、ないの?」
「もう二年生だしな、今更どっかに入るのも……それに、俺は『半獣』だから。万が一ってこともある」
「でも、入学してから今まで、なにも困るようなことにはなってないじゃない。やりたいことだって、本当はいっぱいあるんでしょ?」
それが汐音なりの気遣いの言葉であることを、銀は理解している。
だから銀は小さく微笑んで、首を横に振った。
「……俺は今の生活に満足してる。これは本当だ」
「ん……ならいいの。ごめんね、余計なこと言って」
会話が途切れる。
沈黙。
金平糖だけがゆっくりと噛み砕かれていく。
「妬けるねえ、お二人さん。しばらく見ない間に、随分と大人な会話するようになっちゃって」
銀と汐音の間で、いきなり声がした。
「ひゃああっ!?」
「ッ!!」
汐音が派手な悲鳴を上げて跳び上がり、金平糖がぶちまけられる。同じくその場から飛び退いた銀は、反射的に身構えて――
そこにいた人物が知り合いであることに、ぽかんと口を開けた。
「……染井、さん?」
「いよう、久しぶりだな」
藍染めの着流しに華やかな柄の羽織をひっかけた大柄な男が、からかいを含んだ笑顔で手を上げてみせる。
「た、たたたた隊長ッ。なんでここに――ていうか、なにも言わずにふらっとどこかに行って何週間経つんです!?」
「まあまあ、そう怒りなさんな。キレイな顔が台無しだ。ほら、土産もあるぞ」
汐音の言葉を聞き流しながら男が取り出したのは、日本酒の瓶だった。
◆
「かーッ! やっぱり仕事終わりの酒は格別……本当にいらんのか?」
「未成年です」
猪口から酒を啜りながらの誘いをきっぱり断る銀。
銀と汐音は男を挟んで、縁側に並んで座っていた。
「相変わらずお堅いねぇ」
気分を害した様子なく、男がくつくつと笑う。
男の名前は、染井花太郎という。
この、全身からあからさまなやる気のなさが溢れている万年無気力ヒゲオヤジが、実はムラクモ屈指の実力者だとは誰も思うまい。
「……で、隊長。今の今までどこに行ってたんですか?」
派手な悲鳴を上げてしまった羞恥心からか、今までずっとうつむいてぶつぶつ言っていた汐音が、やっと染井を見て聞いた。
ムラクモという組織について、少し説明をしておこうと思う。
ムラクモが加盟している異能連合イスタリオンの起源は、今から約四百年前。
それまで世界各地でそれぞれ幻獣討伐を行ってきたなんの統一性もない大小様々な異能者の組織や集団を、当時世界最強と称された一人の異能者が一代でひとつにまとめ上げたことから始まるという。
当然、日本にも古来より幻獣――当時は物の怪や妖と呼ばれていた――がいて、それを討伐することを生業とする者たちがいたことになる。
教科書にも出てくる自然呪術師たる卑弥呼や、現在陰陽道の名家と言われる十二宗家が代々受け継ぐ式神〈十二天将〉を使役したとされる大陰陽師・安倍晴明が代表的だろう。
国家組織として登場したのは、律令制が確立した飛鳥時代に設置された陰陽寮が最初だ。異能は家系や血脈といった先天的資質に大きく左右されるので、日本国内の異能者で陰陽師が圧倒的多数を占めるのはそのため。ちなみに、ムラクモとしてイスタリオンに加盟してからも、表向きには陰陽寮の看板を掲げてきたが、陰陽寮自体は明治時代になって廃止されている。
何はともあれ、陰陽師たちは現代に至るまで裏舞台で活躍を続けてきたわけだ。
現在、ムラクモはここ波木町にある本部と各地に点在するいくつかの支部を含めて、運営に携わる一般職員と実働部隊である異能者によって構成されていて、前者によって支えられている部署は五つある。
現場検証や幻獣研究を担当する『研究局』。
対幻獣用の武器や兵器の開発と整備を担当する『開発局』。
情報の収集・処理・伝達を担当する『情報総括局』。
医療関連を担当する『医療局』。
事務・雑務全般を担当する『総合管理局』。
陰陽師たちが万全の体勢で最前線にて幻獣を狩れるのも、彼らのサポートがあってこそなのである。
後者については、各宗家を中心とした十二の大隊に分かれて、それぞれが支部を運営しつつ、幻獣出現率の高い地域を中心に日本各地に散らばっているという感じだ。各大隊の中でも中隊やら小隊やら細かい単位があるのだが、それはまた後日。
ざっと説明すると、ムラクモとはこんな感じで構成された組織だ。
そして、ここからは染井花太郎という人物についての説明になる。
先程、十二宗家がそれぞれ個別の大隊を持っていて、それがムラクモの中核をなしていると記述した。けれど、正確には、ムラクモにはもうひとつの部隊がある。
他の十二の大隊とは一線を画する、十三番目の特殊小隊。
その名も『零番隊』、通称『番号なし』。
隊員は五人。たった五人、されど五人。
かつ、ムラクモで最強なのは誰かと問われれば必ず五指に入る実力者たち。
染井はその中の一人だ。
余談だが、汐音が染井のことを「隊長」と呼んだことからわかるとおり、染井は個人の部隊として『戦神衆』を率いていて、汐音はその見習い隊員なのだ。汐音とペアを組む銀もこの所属になる。
大仰な名前ではあるが、所属隊員の平均年齢は他のどの部隊よりも若く、次世代の戦力育成を掲げている。……もっとも、率いている隊長本人は放任主義だが。
汐音の質問に、染井は視線を宙に漂わせて考える。
「ん~? そうさなぁ……北?」
「隊長……怒りますよ」
「そう言われてもなぁ……とりあえず詳しい説明もないまま空間転移でぽーんと放り出されたからなぁ。しかも、転移先が霊脈の狂った山奥ときた。引き寄せられて幻獣が湧いてくる湧いてくる。退屈はしなかったが」
顎の無精髭を撫でながらガハハと笑う染井。
「ということは、今までずっと霊脈の修復を?」
「ん、まぁそんなとこだ」
「……だからって、隊員に何も言わずに出かけるのはどうかと」
「なんだ、心配してくれてたのか」
「そ、そんなのじゃないですからッ!?」
染井のからかいに汐音は顔を真っ赤にして立ち上がり、廊下をばたばたと駆けていった。
「ははぁ~まだまだからかい甲斐があるな、あいつは」
「……からかいすぎですよ、染井さん。あいつ、本気で心配してたんですから」
ため息を漏らす銀。
染井は空になった猪口に最後の一杯を注ぎながら苦笑。
「心配されるのが久しぶりでね、ちょっとからかってみただけだ。他の連中だとああはいかんぞ。『え、隊長? そう言えばここしばらく見てませんね。それが何か?』なんて日常茶飯事だからな。……あいつらも昔は素直でちっこくて可愛げがあったのになぁ」
「はあ……」
普段からそういう場面を目撃しているので、なんと言ったらいいものか。
「で、お前はどうなんだ? ちったぁ腕磨いたか?」
「最近、下二級から下一級に昇進しました」
「よし、今度組手でもするか」
しばらく何気ない会話をしていたが、突如として黒いカラスが舞い降りてきたことで中断された。
染井が猪口を持っていない方の腕を掲げ、カラスを止まらせる。
『隊長、お久しぶりでーす。ついさっき帰還したって聞いて、ココだろうなって思ったんですけど、正解でしたねー。銀君も元気してる?』
カラスの口から人語が飛び出したことには動じなかった。通信用の式神だ。
「りりこか。どうした?」
りりこというのは戦神衆の先輩で、面倒見がよくてはきはきした性格から自然と参謀的ポジションに就いている女性だ。
『任務明けでお疲れのところ申し訳ないんですけど、ご報告が。二時間前から見回りに出てた服部と名木沢なんですけど、幻獣に不意打ち食らったらしくて。緊急応援要請を受けて駆けつけたらけっこう深手負ってたんですよねー。こっちで治療はしたんで喋れるくらいには回復したんですけど、幻獣が逃げちゃったみたいで』
「種類は?」
『蟲型〈土蜘蛛〉。レベルⅠだと推測してるんですけど、とりあえず数がハンパなかったみたいです。そこそこ統率もとれてたみたいで、もしかしたらレベルⅡあたりを中心とした群れを形成してるのかもしれないですね』
「了解した。なにがどうあれ、二人が無事だったのが一番だわな。そんじゃ、上への報告は頼んだぞ」
『はいはい、そういうと思ってましたよー』
そこで通信が途絶えて、カラスは星空へと飛び立っていった。
「蟲型幻獣ですか……」
「出現ポイントは遠いが、討伐されるまで気を抜くなよ。……酒もなくなったし、そろそろここらでお暇しましょうかね」
よっこらせと立ち上がり、「じゃあな」と銀の肩を叩いて、空になった酒瓶を片手に玄関へ向かう染井。
軽く会釈して、去っていく着物姿の背中をなんとなく見ていると。
「隊長っ!」
廊下の反対側からどたどたと駆けてくる足音が。汐音だ。まるで獲物に飛びかかる寸前の肉食獣のようにフーフーと荒い息をしている。
「ん~?」と振り返る染井。
汐音は、頬にまだ赤色を残したまま、キッと染井を見据えて。
「無事の帰還、何よりですっ」
……きっと、その言葉を誰よりも最初に伝えたかったに違いない。
呆気にとられた表情のまま佇立する染井。やがてそれは穏やかなものへと変わり。
「ああ」
片手を挙げて見せ再び玄関へ向かう染井の背に向かって、頭を下げる汐音。その横顔はとても嬉しそうで。
(やっぱ敵わないなぁ)
そんな様子を微笑ましく見守っていた銀は、そう思うのだ。
2013/12/01:文章訂正
2014/03/19:加筆修正