第零話 ハロー、非日常
それは、ほとんど薄れてしまったずっと昔の記憶。
まだ春成汐音が、普段見ている世界だけが真実ではないと知って間もない頃の話。
「大丈夫か、汐音」
父の低く落ち着いた声に、はっと我に返った。
……一体、どのくらい息を止めていたんだろう。
じっとりと汗ばんだ両手をスカートに押さえつけて、慎重に息を吸い込み、吐き出す。まだ汗は噴き出しているし、心臓は緊張で跳ね回っている。ふいに、どくんどくんという全身を支配する大きな音が外に漏れてしまわないかという不安に駆られる。本当は、今すぐにでも家に帰って、優しい母に抱きつきたかった。頭を撫でながら「大丈夫よ、怖くないわ」と言ってほしかった。それでも、子どもなりの小さなプライドが、汐音を気丈に振る舞わせる。
「……うん、平気」
ごくりと喉を鳴らして、汐音はもう一度『それ』を見た。
普通の人には見えない『それ』を見た。
『それ』は今まで見たこともないような歪な姿をしていた。
かなり離れた茂みの中から見ているので正確な体長は測れないが、かなり大きい。その姿は、頭が大鷲だったり体表が黒かったり背に一対の翼が生えたりしていることを除けば、図鑑でも動物園でも必ず見たことがあるライオンに似ていた。
けれど、そこに埋められない決定的な違いがあることを、汐音は本能的に理解する。
上手く言葉が出てこないけれど、近づいたら食べられてしまうとかそういう問題ではない。
あれは――この世界に存在するには、異質すぎる。
前脚を装飾する鋭い鉤爪の一本一本が、獲物を捕食し生きるためではなく、人間を殺すためだけに備わっているように。
「獣型幻獣――〈鷲獅子〉だ」
父がそう教えてくれる。
「あれが……」
夜闇に紛れて人を喰らうもの。父や、今は散らばって鷲獅子を包囲している父の仲間たちが、ずっと戦ってきたもの。
そして、これから汐音が戦っていくであろう、敵。
「……本当に、お前はいいのか」
不意に、父がそんなことを聞いてきた。見上げると、いつも寡黙で普段からあまり表情を崩さない父が、少し辛そうに眉根を寄せて汐音を見つめていた。
「この道は、決して楽な道ではない。人のために、大切なもののために、守るべきもののために……そして何よりも自分自身と戦い続けなければならない道だ。俺は、お前には普通の生活を送ってほしいと思っている。無理に辛い道を選ぶ必要はない」
幼い汐音は、父の言葉の意味がよく理解できなかった。けれど、汐音に危険なことをしてほしくないんだという、父の不器用な優しさは伝わってきた。もしかしたら、今日この場に連れてきてもらえたのも、汐音にこの世界の厳しさを教えるためだったのかもしれない。危険なこの世界に関わることを諦めてほしかったからなのかもしれない。
ここが交差点。世界の表と裏がすれ違い、そして離れていく場所。そしてここが境界線。今ならまだ引き返せるけれど、一度踏み越えてしまったらもう二度と戻ってはこられないだろう。
でも、汐音は知ってしまったのだ。自分が今までどれだけの人たちに守られてきたのかを。優しい父が今まで語ろうとしなかった世界の一端を。
だから汐音は精一杯の笑顔を浮かべる。少しでも父に安心してもらうために。
「お父さん。わたし、決めたの。これからはわたしがみんなを守るって。わたしが強くなって、みんなが悲しまないようにするって」
守られてばかりのただの女の子にはなりたくない。すべての人を、なんてカッコいいことは言えないけれど、それでも自分の両手が届く範囲の人を守りたい。家族や、学校の友達や先生、近所のおじいちゃんおばあちゃん。自分の大切な人たちを。
「……そうか」
揺るぎのない汐音の双眸からすっと視線を外し、顔をそむけた父は、けれど落胆しているようには見えなかった。子どもの身長で父の横顔を見上げる汐音には、その口元がわずかに綻んでいるように見えた。
「では、俺も覚悟を決めよう。お前は今日から、春成家の陰陽師だ。誰よりも己に厳しくあれ、そして誰よりも他者に優しくあれ――俺がお前に望むたったひとつの願いだ」
大きな手のひらが汐音の頭を少し乱暴に撫でる。
そして父は汐音の頭から離した手を、腰の刀の柄に置いた。
「これが、お前がこれから歩む世界だ。しかと目に焼きつけろ」
すらりと引き抜かれた刃を真上に振り上げ、
「――いけッ」
振り下ろす。
それを合図に、鷲獅子を包囲していた複数の影が動いた。まず投擲された呪符が黒い外皮の上で弾け、鷲獅子の怒号がビリビリと空気を震わせる。腹の底を揺さぶる重低音に汐音は思わず身を強張らせるが、それでも決して目を逸らさなかった。
隣の父が踏み込み――気づけばその姿が消えていた。巻き起こった風が汐音の髪を掻き乱す。父はすでにその間合いに鷲獅子の姿を捉えていた。
これが、人知れず異形と戦い続ける異能者『陰陽師』の世界。
汐音がこれから歩んでゆく世界。
「……絶対に、諦めない」
春成汐音は、こうして日常と非日常の境界線を跨いだ。
2014/03/19:加筆修正