序
此処には、森があった。
此処に、彼処に、あの傍に・・・
確かに『森』は存在した。
ヒトには見えない、かの『森』が――
移ろい逝く世界に取り残された
凝りしモノを解かすため
確かに、『森』は存在した。
人には見えない、かの『森』が・・・。
移ろいの森
『空漠の瞳』
鬱蒼と茂った森が、其処にあった。
燦々と降り注ぐ陽光を、そのまますべて吸収してしまうかのような、その森。緑と言うよりは黒に近いその色。生けるものの気配、何一つ無いその森は、果てしなく続いていた。
そんな森に、一筋の傷が見える。
細い、だが引きつれたようなそれ。人間が『道』と呼ぶその傷は、森が広がるそのままに、醜く跡を残していた。
そして、『道』を呼ばれるところを進む影一つ。
男、であろう。身体をゆったりとした布で包んだ旅装に、そこのあつい長靴。しかも、相当にくたびれ、すり切れているところもある。
男は、その大地の傷の上を、ゆっくりと、何か刻みつけるかのように、歩いていた。
と、視線の先、黒くわだかまるモノがある。
男は、だが歩みを揺るがせもせず、一歩一歩踏みしめるように前へ進み。
「死体があるとは・・・物騒だな。
行き倒れ--か、盗賊にでもやられたか。
ま、どちらにしろ、私には関係ない・・・か」
黒い、ぼろ切れの塊。かろうじて、横の方から枯れ枝のような腕が伸びている。
生きているとは思えないそれを一瞥し、男は横をすり抜けて道を急ぐ。
-ズリッ
重い物を引きずるような音。男はぎょっとして振り返った。
骨と皮ばかりの、土色の腕。それが、前へ進もうと虚空をつかむ。
彼は数瞬硬直し・・・
びくつきながらも、その塊に近づいていった。
―パチパチ、パチパチ
焚き火のはぜる音が、静かな子守歌のように、あたりに響いていた。
「う・・うぅん」
ボロキレの塊が、声を出した。もぞもぞと、形を変える。
「・・・おまえさまが、助けてくださったのかえ」
身体を丸めるように起こし、何処ともしれぬところから、声が放たれた。しわがれた、けれど不思議と深みのある声。ボロキレの奥から、かろうじてしわの刻まれた口元が見える。
「あ・・あ」
気圧されたかのように、男は呟いた。そして妙な考えを振り切るかのように、頭を振る。
「あんた、人間、だよな・・・」
ぽつりと漏らしたその問いは、くだんの老人に一笑される。
「おまえさまが、自分を化け物と思わない程度には、人間じゃろうて」
人を食った物言い。とぼけた仕草は年齢をうかがわせるほど堂に入ったもの。男は少し、警戒を緩めた。
彼は、無言で水の入った杯を差し出した。
しなびた老人の手がゆるゆると前にのび、それをつかんだ。ゆっくりと口元まで近づけられ、長い――男にとって長く思える時間が過ぎ、水が飲み干される。
「うまい水じゃ・・・。
さて。ワシは、物語売りのラリアという。
おまえさま・・は?」
杯を返し、老人は詠うように告げた。その拍子にフードが後ろに落ち、柔和な顔があらわになる。
男はしばし迷い・・・
「只の、旅人だ」
「そうさのう・・・。おまえさまに、礼がしたいんじゃが、はて、何が・・・。
おお、そうじゃ。物語は、いかがかのう」
「物語?」
「そうじゃ、『物語』じゃよ。
今宵は新月。月が、死の床に入る夜。魔物たちが横行する夜でもある。
夜明かしに、物語はいらんかえ」
老人の口が、にいっと笑みを形作った。黄色い、いくつか欠けた歯が、愛嬌を醸し出している、無邪気は笑み。それは春の日溜まりを思わせる笑みで・・・。
「聞くだけは、聞こう。
眠くなったら、止めてもらうからな」
ぶっきらぼうに、男はいった。その言い様に、老人はふっと苦笑し・・・。
そして、話し出す。