4話
「『マリーザの憂鬱』を読みました」
クロエがそう告げた瞬間、聖堂内の「時」が物理的に止まりました。司祭の笑顔はゆっくりと崩れていき、まるでパブロ・ピカソの絵画のようになっています。
*
『マリーザの憂鬱』とは、今からおよそ三十年前に出版され、瞬く間に禁書に指定された、先代聖女マリーザの自伝です。
農家の娘から突如として「聖女」に祭り上げられた彼女が、その短い在任期間中に綴っていたのは、神の奇跡などではなく、教会のあまりにも生々しい醜聞の数々でした。
弱者救済の名の下に強いられた、二十四時間体制の過酷な労働。自らの意思で行動する権限は一切与えられず、命じられるがまま各地を奔走させられる日々です。
同僚から向けられる嫉妬の視線。聞こえるようにわざと囁かれる根も葉もない噂。生まれの卑しさを侮蔑する言葉。「聖女のくせに………」「聖女なのだから………」「あれで聖女………
?」
ある時からマリーザは必要な言葉以外を喋るのを止めました。切り取られ、歪曲され、拡散されてしまうからです。
味方はひとりもいませんでした。
さらには、信仰の指導者であるはずの大司祭から執拗に愛人になるよう迫られたことや、権力者たちの宴会に、コンパニオンとして駆り出された屈辱的な経験が、詳細に記されています。
黄金に輝いていく聖堂と、煌びやかになっていく権力者たちの服装。
やがて彼女は、自分が民を救うための聖女ではなく、教会を肥やし、権力者を喜ばせるための「お飾り」に過ぎないという事実に直面しました。
この頃になると、宝石のように輝いていた『聖女』という言葉を聞くだけで、吐き気を催すようになっていました。
その深い絶望に呼応するかのように、ある日を境に、彼女は一切の魔法が使えなくなってしまいます。本来、絶望であるはずのそれは、彼女に安らぎを与えました。
聖女をしなくていいんだ。
手のひらを返した教会は、マリーザに聖女失格の烙印を押し、身一つで放り出しました。「所詮は農婦か………」。大司教の最後の言葉を彼女は生涯忘れることは出来ませんでした。
自伝の最後のページに刻まれた一文――
「神様は信じてもいいけれど、宗教は糞です」
この言葉は世界の禁忌として、今もなお強烈なインパクトを残し続けています。
*
「……というわけで、聖女は辞退の方向でお願いします」
「辞退の……方向……?」
司祭の口がだらしなく開き、糸を引いた涎が祭壇へと垂れ落ちました。彼は自分の耳が信じられないというように、焦点の定まらない目でクロエを見つめています。
「なんだそれは。お前は、ワシの理解できぬ言葉を喋っているな。辞退……ほうこう? なんだ、それは一体……。聖女は神に選ばれるものだ。選ばれたら最後、死ぬまで聖女だ。辞退……方向などという選択肢は、この世のどこにも、存在せん……」
ぶつぶつと、壊れた機械のように繰り返す司祭を前に、クロエは意を決した表情へと変わりました。
「分かりやすく言いましょうか。――聖女はお断りです! というわけで、私はこれで帰らせてもらいます。めちゃくちゃ寒いので」
その瞬間、司祭が「へ、へらっ」と、場違いな笑い声を漏らしました。彼はがっくりと項垂れ、肩を小刻みに震わせます。
「なるほどな……。なるほど、そういうことか。お前は……お前という女は、愚かな民衆には、いくら言葉をかけても無駄だということだ……。分かっていた、それは分かっていたことだ……」
司祭が、ゆっくりと顔を上げました。
その白目は、激昂のあまりか、あるいは血管が切れたのか、不気味な赤色に染まっています。
「者共!! この不届きな馬鹿を捕らえろぉぉぉーーー!!」
その声を皮切りに、法衣を纏った男たちが一斉に飛び出しました。
「聖女様、世界のためです! お許しください!」
「逃がすな!捕らえて縛れ! 」
「抗えば神への反逆だぞ!」
それは、もはや聖職者というよりも、狩人、あるいはゾンビでした。
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