3話
「クロエよ、お前は今のこの街を……この世界をどう思う?」
グラス司祭は、震える手をクロエの肩に置きました。
「えーと……個人的には、とても満足しています。まず家族仲が良いというのが大きいですね。お父様は面白くて、お母さまは料理がとても上手です。おじいさまもおばあさまも優しいですし、飼っている猫は懐いてくれています。友達もいますし、結構お金持ちでもあるので、学院を卒業したら働かずに家でずっとぐだぐだしていようと思っています。これで文句を言えば罰が当たってしまうな、と思うくらいには」
「かつて、ゼカリアの教えは絶対であった……」
クロエは、会話が成立していないことを悟りました。グラス司祭は斜め上の方を見ながら、ゆっくりと語り出します。
「王の戴冠も、民の婚姻も、死者の安らぎも、すべてはこの聖堂の鐘の音と共にあったのだ。……だが、今はどうだ? 人々は空を見上げるのをやめ、足元の『数字』と『理屈』ばかりを見るようになった」
司祭は、吐き捨てるように言葉を続けます。
「遠い地では、神の奇跡を『自然現象』と呼び変える不届きな学者が現れ、王たちは教会への献金を惜しみ、自らの兵力と財にのみ縋っておる。……教会の権威は、かつての栄光の影にすぎん。このままでは、ゼカリアの光は消え、世界はただの『欲』という名の暗闇に包まれるだろう」
司祭は一歩、クロエに歩み寄り、その肩を強く掴みました。
「だからこそ……お前なのだ、クロエ。この混迷の時代に、虹色の雲を纏って現れた真の聖女。人々は理屈では動かん。だが、圧倒的な『奇跡』の前では、膝を屈するしかないのだ。お前がその手で人々に神の威光を見せつければ、離れていった羊たちも再びこの門を叩く。……お前が、この腐りかけた民衆を、そして神の秩序を救うのだ」
「しかし……」
クロエの細い肩を掴む司祭の力は、さらに強まっていきます。
「クロエよ、聖女とはこの地上の地獄に差し込む、たった一筋の天の光なのだ」
司祭の声は低く、聖堂の壁に反響して重なり合います。
「想像せよ。疫病に身を焼かれ、孤独に震えながら死を待つ者を。泥を啜り、明日をも知れぬ貧困に喘ぐ弱き者たちを。彼らに必要なのは、学者の理屈でも、王の法律でもない。……目の前で起きる『奇跡』なのだよ。絶望の底にいる者が、お前の起こす奇跡を仰ぎ見て神の慈悲を確信し、安らかに天へと召されていく……。その最後の魂の救済こそが、聖女の務めだ」
司祭は一度言葉を切り、深い嘆息を漏らしました。
「この百数十年……ゼカリアの地には聖女が不在であった。人々は導き手を失い、魂は乾き、救いのない死が世界を覆った。だが、神は見捨ててはおられなかった。この暗黒の時代に、お前にその使命を託されたのだ。お前のその手には、数多の民を絶望から掬い上げ、信仰の灯火を再び点す力が宿っている」
笑顔を浮かべている司祭の顔には、深い皺の陰影が刻まれていました。
「お前は、神が我らに遣わした最後の希望なのだ。この運命から逃れることはできぬ。さあ、その資質を、その奇跡を、民のために捧げるのだ」
訪れた静寂は、クロエが了承の言葉を発するのを待っていました。
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