60.
アルガがバウの家を訪れてから一週間――つまり、マイがバウの家を後にしてから二週間経った時のことだった。
マイは相変わらず、ハンターが立ち入っても良い区域とそうでない区域の境に身を潜めながら、宛もなく足を進め続けていた。
そんな中、持っていた物資が減ってきていたため、一度どこかの村へ寄ろうと、バウにもらっていた地図に目を通し、進む方向を変えた。マイが向かったのは小さな村である。その村には勿論、ギルドは存在していない。ただ、近くに比較的大きめの村が存在し、そちらにあるギルドにて一緒に統括されているような小さな村だった。
何か特別な特産物があるわけではない村であるため、外から来た殆どの人はそちらの大きめの村に流れて行くだろうことから、マイはそちらの小さな村へと足を運んだ。小さいと言っても村は村であるため、最低限のものが売っている店は存在していて、マイが欲しいと思っているのはその最低限のものであり、携帯食料などを適当に買うと、滞在することなくすぐにその村を後にした。
幾らギルドがないと言っても、近くにギルドがあることは確かであるため、いつ誰に見られているか分からないと言う危惧から、本当に些細な時間その村に立ち寄った。時間にしたら十数分くらいのこと。
そして、そんなマイの姿を見つけていたのは、マイにとって最悪の人物だった。
*
村を出て三十分くらい経ち、そこそこ村から離れた時だった。
「――――イレヴン」
後方から、静かにそう呼びかけられたのに、マイは反射的に振り返った。振り返ってしまって、すぐに「振り返らなければよかった」と酷く後悔した。だって、その名で自分を呼ぶ人に、「良い人」など居るはずないのだから。
マイが顔を向けたそこには、一人の男がいた。にこりとした紳士のような笑顔を顔面に貼り付け、細長い身体をギルド装備で包んでいる男。
男の姿を見て、マイはひゅっと変に息を吸い込み、身体を強張らせた。強張った身体は、小さく小刻みに震え出して、マイの顔からは血の気が引いて行く。それは正に、蛇に睨まれた蛙の状態である。
マイには、男の顔に見覚えがあった――否、もっと正しく言うならば「マイ」は知らない。けれど、知っている。
その名前を呼んだことはないから、名前は元より知らない。ただ「先生」と呼んでいた。そう呼ばせられていた。そして、色々なことの全ては、その「先生」から教えられていた。
男はゆっくりと歩みながら、舞台役者のような大袈裟な手振りで、マイを自分の懐に招き入れるよう両手を広げる。
「――ああ、やっぱりイレヴンじゃあないか! 久しいなあ。たまたま立ち寄った村で見かけたから追いかけて来たのだが……」
男の言葉に「違う」と声を出そうとしたが、マイの口からはただ息が漏れるだけで、何も発せなかった。身体が目の前のそいつに対して覚えている感情に、震えてカチカチと歯が当たって音が鳴る。
その間にも、男はマイに対して一歩一歩ゆっくりと歩み寄ってきて、マイはそれに後ずさりしたくて仕方がないというのに、相反して身体は動いてくれなく、半歩後ろに足を引き摺れただけ。どくりどくりと速くなって行く鼓動に、乱れる呼吸に、指先が冷えていく。嫌な汗が頬を伝った。
「長い髪、君によく似合っていたのに切ってしまったんだねえ。とても残念だよ」
「……っが、ぅ」
「君がギルドから居なくなってもう三年程になるのか……ずうっと探していたんだよ? イレヴン」
「ちっ……、が、う」
「あれから何人か指導したけれど、君以上の逸材は現れなかった……迷子はもう終わりにして、一緒に帰ろうじゃないか」
「――――ち、っがうっ! わたし、はイレヴンじゃ、ない!」
引き攣りそうな喉から何とか声を絞り出し、マイは叫ぶようにそう言い、男に対して威嚇するよう顔を顰めて睨みつける。走ったわけでもないのに、走った後のようにぜえぜえと肩で息をしているマイを見て、男は声高らかに笑った。
「――何を言っている? イレヴン、違わないだろう!」
「ち、がうっ……、」
「ああそうだ、その目だよ……忘れたふりをしていても君の身体は覚えている! 私に対しての恐怖をしっかりと覚えているんだろう? 私に恐怖しているその目が物語っているよ……?」
「わ、たし、は……、」
「こんな所に一人で居るくらいだ……君はきっと帰る場所がないんじゃないかい? 仲間も居ない。けど安心したらいい! 我がギルドはずうっと君の帰りを待っていた」
すうっと差し出された手に、マイは肩を震わせる。男の一挙一動にめまいがし、それでもマイは何とか立っていた。
頭の中に浮かんだのは、自分からはもう会わせる顔が無い仲間たちの顔と、失くしてしまった大切だったあの人。ゆらゆらと揺れるマイの心は、まるで風の吹く中に立っている蝋燭の火のようで、酷く不安定だった。
それでもマイの中にはたった一つ、強い思いがあった。
――『君はどうか、』
「さあ……、お帰り? イレヴン」
――『自由に生きて』
差し出された手に、マイは首を何度も横に振る。
「――――わたしはもう、人を殺したくないんだ……!」
全力で叫ぶようにそう言うと、マイは踵を返して走り出した。取り残された男は特に慌てる様子もなく、マイに向かって差し出していた手で自分の顎を撫でる。
「ふむ……、一端に感情が生まれてしまっていたのか」
呟くと男は口を歪ませて笑った。
「――まあ、それを強調し直すのもいいだろう……漸く見つけたんだ。逃しはしないさ、イレヴン……」
そんな独り言を零し、男は緩やかにマイの後を追って行った。
*
マイが男に見つかってしまった時から、時間として一時間くらい前のこと。
ノアールは気球に乗って、上空五十メートルほどの場所に居た。そして、その気球が飛んでいた場所はマイが立ち寄った村にほど近い場所だった。
「――こらノアール! ぼさっとしてねえで手伝わねえか!」
そんな怒号に、文字通りぼんやりとしていたノアールは、びくりと肩を跳ねさせた。
「ご、ごめんノラン叔父さん! 今手伝うっ!」
怒られたことにいそいそとノアールは気球の紐を操作し、安定させるために気球を操作していた叔父であるノランの手元を手伝う。言われた通りに手伝いをするノアールに、ノランはため息を吐いた。
「たく、お前がいきなり“観測手伝うから気球飛ばしてくれ”なんて言いに来た時は驚いたが……」
「うん……ごめん、無理言って」
「なあに、丁度こっちの方面の探索をギルドに頼まれてたから、構いやしねえよ」
気球に乗っていたのはノアールを始め、ノアールの叔父に当たるノランとそのノランが信頼を置き、ノアールとも顔見知りの二人である。竜人族であり、観測隊であるノランは気球を飛ばせる権限を持っている監督者であったため、ノアールはノランにそれを頼み込んだのだ。
――アルガからマイを見かけたという手紙を受け取ってから、ノアールは手紙を読んだその足で、すぐに叔父の元へと向かった。アルガがマイを見かけたという地方は、比較的山の少ないなだらかな地形であり、気球から探せば広くを見渡せるし、見つけられるかもしれないと思った、ノアールのそんな行動である。
手紙を受け取って一週間。消印のその日に届いた手紙であったため、ノアールはそこから人の足が一週間で行ける距離を推測し、また、マイらしき人物が南東へ向かったという情報も独自で掴んでいたため、大凡の位置でノランに気球を飛ばして貰ったのだ。
「――ところで、お前さんが探してるってのは……恋人かなんかか?」
「えっ、ち、違うよ! 仲間だよ! 一緒に狩りに行く仲間!!」
「ほお~……それにしたって俺に頼みに来た時のお前の慌てようと来たら……まあ、お前にとって大事な人なんだろうなあ」
「……うん。大事で、すっごく大切なんだよ。オレらにとって」
叔父の言葉に頷いて、ノアールは思う。大切で、大切で、掛け替えのない、唯一の、ただの仲間じゃない、それこそ家族のようなものだといつしか思うようになっていた。
だから不思議と、何の疑いもなく、ずっと一緒に居られるものだと思っていたのだ。
――「お前への好きだけは、特別だったよ」――
不意に思い出してしまったマイの言葉に、ノアールは独りでにどきりとし、赤面して首を横に振る。
(――いやいやそうじゃなくって! も~ノラン叔父さんが恋人かなんて言うから……!)
「どうした、頭抱え込んで」
「え!? べ、別にっ」
聞かれたことに焦りながらも言葉を返しつつ、思うのはただただマイのこと。
別れを告げられ、無様にも引き留めることも、何かを言うことも、自分はあの時できなかった。仲間だというのに、家族のようなものだと思っていたのに、彼女の決心を前にして何も出来なかった。
それを、ノアールは今もずっと後悔している。無理やりにでも引き留めて、引き摺ってでも一緒に帰って、みんなで話し合ったらよかったと――そんな風に、何度も何度も後悔していた。あの時の不甲斐ない自分が、どうしても許せない。
「――しっかし、狩りの仲間ってえことは……ハンターさんか」
「えっ? ああ、うん、そうだよ」
「随分と優秀なハンターさんなんだなあ、その子は」
「え……どうして?」
「そりゃあ、お前はよく仲間の話を自慢げに話してくれてたが……三人が三人ともそれはそれは優秀なハンターさんなんだろうってことは分かった。で、ノアール、お前もハンターとしては優秀だろう?」
「う〜ん……自信はないけど、多分? 高難易度のライセンスも持ってるから……」
「だろう? そんな優秀なハンター三人に追っかけられて、今まで尻尾も掴めなかったわけだ。そりゃあ、随分優秀なハンターさんだろうよ」
言われたそんなことに、ノアールは目を見開いた。
――マイが自分たちの元から姿を消して約半年。
あれから、ノアールは自分なりにありとあらゆる方法でマイのことを探していた。そしてそれは、ロクとアルガもそうだったろう。けれど、一週間前のアルガからの手紙が、やっと、初めてちゃんとマイの行動を掴んだものだった。
それまでは少なくともノアールは、何の手掛かりもなく闇雲に探していたのが事実である。
それらを思って、ノランの言葉にノアールは皮肉った笑みを零した。
「本当……優秀すぎて、困ってるよ」
「早く見つかるといいなあ」
「うん――あ、オレ見つけたらすぐにその子の所行くつもりだから……手伝い放り出しちゃうかも~……」
「元々こっちは三人で充分なんだ。お前が抜けたって変わりゃしねえよ」
申し訳なさそうなノアールに対し、がっはっはっと笑いながら言ったノランの気前のいい言葉に、ノアールは感謝しかなかった。
気球が安定するとノランから「もういいぞ」と言われ、ノアールは辺りを見回そうと腰のホルダーに入れてあった双眼鏡に手を伸ばし、そんな中でふと左足のホルダーに入れてある赤い筒が視界に入る。
――これは、アルガに渡されたものだ。空に向かって筒についている紐を引くと、煙の合図が上がる発煙筒。マイが去った翌日、各々動き出す前にアルガから渡されていた。もしマイを見つけたら、各自これを空に向かって打ち上げる約束になっている。
アルガから手紙が届いて一週間、ノアールは毎日三百六十度昼夜問わず空を見回していたが、この合図が打ち上げられた様子はない。それを思ってつい、はあっとため息を吐き、ノアールは気球の籠の縁に手を着いて項垂れる。
「……マイちゃん、まだ誰にも見つけて貰えてないのかなあ」
ぼそりとノアールが呟いた時だった。「おっ?」というノランの声が聞こえ、ノアールは顔を上げてノランに振り返る。見てみると、ノランは双眼鏡を覗いて何処かを注視していた。
「どうしたの?」
「いや、ハンターさんが居てな。ありゃこっちには気付いてなさそうだが」
そんなノランの言葉に、ノアールは身を乗り出す勢いで叔父が双眼鏡を向ける方角に目を向ける。
「――どこっ!? どっち!?」
「落ち着けっ、双眼鏡貸してやるからよ……ほら、あっちだ。分かるか? あの岩壁沿い」
指差され、ノランから双眼鏡を受け取ろうとしつつ、指差すそこに目を向けたノアールは思わず息を止めた。双眼鏡を受け取らず、動きを止めてしまったノアールに対し、ノランは首を傾げつつ「おい?」と声を掛け、ノアールの顔を見て驚く。
ここ数日、行動を共にしていたノアールだったけれど、それは、その中で初めて見る“生きた”表情だったのだ。探しているその子の安否をずっと気にしていたのだろう、ノアールは常にどこか寂しそうで、ずっと不安そうだった。心の何処かにぽっかり穴が空いてしまっているような、そんな顔しかしていなかったけれど、今は違う。
ノアールの表情と目に、輝きが満ち溢れて、嬉しそうな表情で、無意識にだろうノアールは笑みを浮かべていた。
「――――……マイちゃんだ」
ぽつりと呟かれたその子の名前に、ノランも思わず肉眼でそちらへ目を向けた。けれど、肉眼で確認できるほど近い距離ではなく、数キロは離れている点にも等しい人影である。
ノランはマイに出会ったことも無いため、当然それがマイかは分からないし、そもそもそんな米粒のような人影が、男なのか女なのかも、肉眼では判別つかなかった。双眼鏡で覗いてやっと見える距離である。
それなのに、ノアールはそれが“マイ”だと断言した。
何より、ノアールは自分で自分に驚いていた。あんな距離のあんな人影、普通、誰なのか分からないだろう。でも、見た瞬間に「ああ、マイちゃんだ」と心の何処かが叫んだのだ。そんな自分に驚きつつも、湧き上がる歓喜の感情を抑えることが出来なかった。
だって、この半年間、ずっとずっと、その姿を探し続けてた。
「”マイちゃん”って、お前が探してる子か!? 双眼鏡でも確かめて――……」
「双眼鏡なんか使わなくったって分かるよ! あれ、マイちゃんだ! ――――ごめん、叔父さん! オレ、行かなきゃ!!」
「あ、ああ、ならすぐに気球下ろして――……」
ノランがそう言い掛けている途中でだった。ぐらりと気球の籠が傾き、それに気付いてノランが止めようと思った時には、もう既にノアールの姿は籠の中から消えていた。
何の躊躇いもなく、ノアールは気球から飛び降りたのだった。それにより、気球の籠はぐわんっと揺れる。思ってもいなかったノアールの行動に、ノランは一度籠の中で転倒し、他の二人も「うわあっ」と声を上げて尻餅をついていた。揺れが収まると、ノランは急いで立ち上がって、気球の安全を一旦確認し、辛うじて見えていたノアールが飛び降りた方向に顔を出す。
「――ばっかやろうノアール! 危ねえだろうが!!」
ノランの怒号に対して、既に遥か下方に居たノアールから「ごめん叔父さん今度なんかお礼する~~……」と段々と小さくなっていく声が聞こえたのだった。
そうして、どうやって着地したのかはよく見えなくて分からなかったが、ノアールはどうやら無事地面に着地をし、先程指差していた岩壁の方へと向かって駆けて行く。その姿はすぐに森の木々に紛れ見えなくなった。
ノアールの姿が見えなくなり、ノランは仲間二人に指示を出し、人が一人居なくなった比重に対し、不安定になった気球を安定させるよう操作する。そんな中、思わず大きなため息を吐いた。
「――――たく、とんでもねえもんだな……、ハンターさんってのは」
その呟きは、どこか安堵に満ちた優しいものだった。




