紫電改
目黒の坂を滑るように降りながら、トメは自動二輪紫電改24式の爆音に耳を澄ませていた。黒の革外衣が風をさき、制服姿の彼女とはまるで別人のようだった。
背中に背負った罪の重さが、外衣の裾を引きずるように重く感じられる。
今日は、嫌なことがあった。
水。処刑。加賀美。
私の次で亡くなった。いや、時間が経てば——私の球で死んでいたかもしれない。
あの水槽の中で、加賀美の顔が水面に沈んでいく瞬間。
目を逸らさずに見届けたはずなのに、あの目が、あの口元が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
便宜店の前に自動二輪を停め、煙草に火をつける。
紫煙が夜の空気に溶けていく。
小型電影端末を見る。19時02分。
ヒトミからの返信は、まだなかった。
「大丈夫かな…」
あの時の瞳の揺らぎが、脳裏に焼き付いている。
ヒトミの手が震えていた。
鉄球を落とす瞬間、彼女の唇は何かを言おうとしていた。
でも、言葉は出なかった。誰も、声を出せなかった。
気を取り直し、再び紫電改に跨がる。
目指すは海。軍港の灯りが、遠くにちらちらと瞬いている。
潮の匂いが、罪を洗い流してくれる気がした。
このトンネルを抜ければ、すべてが終わる。
そう思いたかった。
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トンネルの入口は、まるで口を開けた獣のように、闇を吐き出していた。
前照灯を灯し、慎重に進む。
壁面には水滴が滲み、空気は異様に湿っている。外衣の裾が濡れ、冷たさが足元から這い上がってくる。
その時——
前方に、一瞬の人影。
「……!」
前輪が水溜りに突っ込み、横滑りを起こす。自動二輪が倒れ、トメの身体は道路を滑っていった。視界がぐるりと回り、世界が歪む。
意識が、遠のく。
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目を覚ますと、世界は静かだった。
体が動かない。前輪がカラカラと空回りしている。
頬に触れる感触——ぬるりとした粘液。
「何これ…粘液…?」
震える手で自動二輪を起こし、再び跨がる。
後部座席に気味の悪い粘膜。
深い濃息をし。
慎重に発動機を回し、自動二輪を走らせる。
とにかくこんな不気味なトンネルを抜けよう。
だが、背後から——視線。
誰かが、見ている。
振り向くと、——
加賀美が座っていた。
濡れた髪が顔に張り付き、腫れた頬が歪んでいる。
目は見開かれ、今にも飛び出しそうだった。
水に沈んだはずのその顔が、今、闇の中に浮かび上がっている。
「…あ……」
声が出ない。
加賀美が、無言でトメに抱きつく。
背中に感じる、加賀美の呼吸。冷たく、湿っていて、生々しい。
まるで水槽の中の空気が、今ここに流れ込んできたようだった。
体が動かない。再び転倒。
自動二輪とトメと加賀美が、滑りながら絡み合う。
その中で——
加賀美が、トメの顔を舐めている。
ベチョベチョ。ペチョ。
「……あ……あああああ!!」
叫びは、トンネルの闇に吸い込まれ、誰にも届かなかった。
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