表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/9

フェネガンとわたし氏、玲奈の家を訪問す

「人を探してほしいんです」

 そのひとが言うと、フェネガンは片手を挙げ、続きの言葉を遮った。この仕草を今日一日で何度見たかな――。

「それは、あなたの……、大切なひとですね?」

 わたしはフェネガンのセリフを訳して伝えた――そりゃそうに決まってんじゃん、と内心に思いながら。

 彼女は「ええ」と小さくうなずいた。

「わたしの弟です。探していただきたいのは」

 女性は松下玲奈(れいな)と名乗った。

 玲奈はフェネガンの求めに応じ取り出した一本の万年筆を両手で――その指が細くて綺麗なことにわたしでさえ少しドギマギするほどだった――差し出した。弟さんの愛用していたものだそう。

 フェネガンは万年筆を左の手のひらに載せ、転ばぬように右手で軽くおさえながら、しげしげと眺めた。しばらくの沈黙の後に彼は言った。

「興味深い……、非常に興味深い」

 いったん沈黙が戻り、それを彼女が破った。

「弟は生きているのでしょうか」

 玲奈の問いにフェネガンは、少し考えるような様子を示してから、「ええ、そう感じられます」と答えた。

 彼女の弟は大学院に通う学生だそうだ。両親姉弟の四人家族で首都近郊のベッドタウンに住んでいるとのことだが、問題の弟氏はここ二ヶ月近く家に帰っていない。携帯もつながらない。当初は夏休みが始まったところだったし、どうせ友人の下宿にでも転がり込んでるんだろうと家族の誰もが気に留めていなかったが、夏休みも終わりとなると母親が騒ぎ出した。隆志は事件か何かに巻き込まれたんじゃないか――と。

 そんなめったなことはないだろ、と最初のうちは母親の心配を年寄りの戯言と決めつけていた玲奈も、日が経つにつれて深刻に事態を受け止めたほうが良いのではないかという考えに傾いた。それで母親と一緒に警察に相談してみたのだが、学生とはいえ弟氏は成人男性であり、それまで特にトラブルのようなものもなかったということで、応対してくれた警官はさほど親身になってくれることもなく「捜索願が出されりゃ受け取りますがね、それで警察が積極的に動くというわけじゃないんですよ、事件性がありそうってことなら別ですがね」とのたまったそうだ。

 なんのトラブルもなかったのに突然家に帰ってこなくなったほうがよっぽどだって考えないんでしょうか――玲奈は腹立たしそうに言った。そんなこと言われてもなぁ、と思いつつ訳してフェネガンに伝えると、彼はとても同情に満ちた表情でうなずいてみせた。演技でなけりゃ相当にいいヒトだ。

 ――ま、でも、自分らも当初は弟さんが友達の家かなんかに泊まってるのだろうと思ったんでしょ? こういうのは得てして第一印象が当たってるモンなんだよなぁ、警察が相手にしなかったっつうのも無理なかろ――などとわたしは心のなかで考えてた。

「弟さんは大学でなにを学んでおられるのですか?」

 フェネガンが訊くと、玲奈は答えた。

「機械工学です。といっても具体的なことは私にはなにもわからないのですが」

 機械工学か。ウチの本部事務局でバイトしてる淳一と同じじゃん――わたしは反射的にその青年のことを思い浮かべた。いっつもMacBookを手にしていて、ところ構わずパタパタとキーを叩いている姿を。

 そうだ、さっきからなにか引っかかるものを感じてたんだけど、今、それがわかったような気が――万年筆だ。今時の若者が万年筆なんて愛用する? ましてや理系の院生でしょ? パソコンやタブレットを片時も手放さず、手書きなんてかったるっ、てのが普通じゃね?

 わたしは顔をあげ、いまだフェネガンの手のひらにある万年筆に目を向けた。

 ――それに、愛用してたと言うのなら、なぜいま、その万年筆はここにあるというの。常に持ち歩くモンじゃないの?

 そんなことを考えてたら急にフェネガンはわたしを見て、肘掛け椅子から少し身を乗り出すようにして顔を近づけ、控えめの声でこう言った。

「美希サン、もし君がなにか疑問に思っていることがあるのなら、それを彼女に質問してみてくれ。自分がここに居合わせていることに意味がある、そう考えるんだ」

 えっ、どういうこと? わたしは通訳でしかないのに……。ま、確かに今朝の最初のセッションでいきなり自分から余計なことを言っちゃったりもしたのも事実だけど。それにしても、わたしが疑問に思っていることがあるなんてお見通しってワケか。そんなに顔に出てたかな。

 気づくと玲奈がわたしのことをジッと見てた。フェネガンが話したことをわたしが訳さないので、どういうことかと思ってるよう。

「あっ、あの、その万年筆は弟さんの愛用品とのことですが、常に持ち歩いたりはしていなかったのでしょうか。なぜいま、それがここにあるんでしょう」

 咄嗟にわたしはそう口にしていた。玲奈はうなずいて、フェネガンに視線を戻した。わたしの今の質問はフェネガンの言葉を訳したものと受け取ってくれたようだ。

 それから彼女が説明したところによると、その万年筆は彼女が大学入学祝いにプレゼントしたものだったが、弟氏も最初のうちは喜んで持ち歩いていたものの、しょせん使う機会があまりなく、結局は机の筆立てに入れっぱなしにされてしまっていたそうだ。

 それを聞いたフェネガンは大きくうなずいた。

「なるほど、それでわかりました。その万年筆からは女性の想いのようなものを強く感じました。あなたは非常に弟思いのようだ」

 続いてフェネガンは、他になにか弟氏の愛用品を持っていないかと尋ねたが、玲奈は恐縮した表情で首を振った。「すいません……。どんなものを持ってくればいいのかわからなかったもので……」

 フェネガンは大袈裟な表情になって両手で彼女を制するポーズを見せ、「気にしないでください。なんの問題もありません。リラックスしてください」と言った。それから彼自身、椅子の背もたれに寄りかかり、顎に手をあてて続けた。

「……だが正直に言いましょう。あなたの弟さんは今現在も元気に活動されている。しかし彼の置かれている状況は、ある種、きわどいものだ――そういうイメージが感じられる。トラブルというよりかは、なにかの大きなたくらみのようなものに巻き込まれているように感じる。極めて危険だ。より詳細にリーディングをする必要があるだろう」

 フェネガンは椅子に座り直した。

「そこでひとつ提案がある。私たちは今日はもう他の予定がない。これから私たちがあなたの家にまで行き、弟さんの部屋でリーディングをする。それでどうでしょう?」

 ――やれやれ大変なことになってきたゾ、と。残業手当とか出してくれんのかな?


 フェネガンと玲奈、そして、わたし。三人がぞろぞろとタクシーから降りた(エリーは家族の世話があるからとついてこなかった)。すでに日は落ちてるけど、西の空にはわずかに明るさが残ってた。穏やかな秋の空。わたしは辺りをぐるっと見回した。ここはどこ?――都内か埼玉県内かのどちらか。少なくとも23区内でないのは確か。

 車がギリすれ違えるかってくらいの狭い道路。その両側に、景観もへったくれもないってばかりに建ぺい率アンド容積率の上限めいっぱいに建てられた住宅がびっしりと並んでる。そんななか、目の前にある家だけが空間に余裕を持たせた小ぶりなサイズで、ダンプカーの隊列に紛れ込んでしまったセダンを思わせた。この住宅街が整備された当初はすべての家がこのサイズだったんだろうなあ。

 そんなことを勝手に想像し、玲奈の家に好感を持った。

「すいません、大変に散らかっているかと思いますけど……。まさかウチに来てくださるなんて思いもしなかったので――」

 言い訳がましく口にしつつ、玲奈は玄関のドアを開けた。

「ただいま。お母さん、いる?」

 玲奈が家のなかに向かって呼びかけた。だが返事はない。

「きっと買い物に行ったんだ、お客様を連れて帰るってメール入れておいたから」

 独り言のように彼女は言い、それからわたしたちのほうを向いて、「どうぞお入りください」と続けた。

「おじゃまします」とわたしが言うと、フェネガンも「オジャマシマス」と口にし、わたしを見てニヤリと――日本語ちゃんと言えただろアピール的な――した。若干苦笑気味の表情を浮かべつつ、わたしはサムアップした。

 彼女の言葉とは裏腹に家のなかは綺麗に整頓されていて掃除もしてあった。事前にわたしたちの来訪を知らされた母親が片付けたのだろうか。その母親は買い物に出てるということだけど、主婦が買い物するにしては遅い時間じゃない? 想定外の掃除に時間がとられたせいで時間が遅くなったんだと考えれば辻褄が合う。そういうタイプの母親かぁ――それ、もしかしてヤバいのでは?

 玄関で靴を脱ぎながらわたしは考えを巡らせてた。玲奈のさっきの発言は「お客様を連れて帰るとメールしたから母親は買い物に出た」って意味だろう。ということは……早々に用を済ませて退散すべきでしょ、とわたしの脳みそが結論をハジキ出した。でないとこの家で夕飯までご馳走されてしまう未来が見えた。わたし、ヨソの家の手料理ってやつがちょっと苦手なのよ。しかもヒトんちで食卓を囲みながら通訳までしなくてはならないなんて状況はキビシすぎ。それだけは避けたい。

「すぐに弟さんの部屋を見せてもらう、ってことでいいですよね?」

 わたしはそうフェネガンに尋ね、彼は少し面白そうに「オーケイ」と返してきた。

「まずはお茶でも……」そう言いかけた玲奈に、即座にわたしは返した。

「いえ、おかまいなく。ローランドはすぐにリーディングを開始すると言ってますので」

 若干、通訳の立場を濫用している気がしないでもなかった。

「では、どうぞ、弟の部屋に……」

 玲奈はそう言って、玄関のすぐ先にある階段をのぼり始めた。フェネガンとわたしもそれに続いた。

 フェネガンは米国人男性としては特に巨体というカンジじゃない(太めではある)けど、それでもこの標準サイズの日本の家のなかではデカく見えた。その彼が通るだけでやっとという感じの狭い階段をのぼりきったところに、左と右のそれぞれの部屋へ通じるドアがあった。玲奈は左のドアのノブに手をかけ、一瞬、戸惑ったようにも見えたけれど、そのまま押し開けた。

 まずフェネガンがなかへと入り(そこまではずっとレディーファーストでわたしを先にしてたんだが)、次にわたし、それから玲奈の順で続いた。

 そこにはたくさんの本があった。部屋の主はよほどの読書家だろう。南側に掃き出しの窓。北側に小さな窓。北の窓に向いて机が置かれ、座ったまま手が届く距離で両側に本棚が並んでいた。そのせいで机の周囲は非常に狭苦しさを感じさせる。まるでコクピットみたいな感じ。本棚を見ると、多くは文庫本でミステリーやSFなんかが多く目につくけど、純文学も少なくなかった。文庫以外はハードカバーの専門書(タイトルからして機械工学関連)や、コミック本も多い。

 部屋の南側にはベッドがあったが、その下にマンガ雑誌がぎっしりと積み重ねた形で突っ込まれている。

 床、抜けちゃわないかな、って心配になった。わたしたち三人の体重で200キロくらい(もちろん半分以上がフェネガン)床の負荷が増してるだろうから。いや、シャレじゃなく本当に。

 そんなわたしの心配をよそに、フェネガンは玲奈に断ってから机の椅子に座った。左右に余分なスペースがないので一歩下がったところからわたしは彼の背中を眺めるしかない。その後ろに玲奈。

 フェネガンが大きく息を吸う音がした。

 それ以外に動きがない。当然、わたしからは彼がどんな表情をしているか見えない。ま、おそらくは目を閉じてるだろう、と思った。今日の昼間に何度も見た。

 この家はたぶん築年が三十は過ぎてるだろう。昭和に建てられたのかもしれない。おそらくは建売住宅。そんな典型的な古臭い日本の住宅の狭苦しい一室に、場違いな白人男性と、その通訳、部屋の主の姉――そんな三人が縦並びにただ黙ってじっとしているという、ハタから見ればむっちゃ奇妙な光景。それが五分ばかりも続いた。いや、実際には三分もなかったかも。でも長く感じられた。

「玲奈サン」

 机に向いたままの姿勢でフェネガンが口を開いた。わたしは振り返って玲奈に顔を向けたが、口は開かなかった。名を呼んだだけなので訳す必要はないと思った。プロの通訳ならこういうのもいちいち訳すのかもしれないが。

「はい」

 玲奈が答えた。その返事を訳してフェネガンに伝えるべきか一瞬迷ったが、わたしが口を開く前に彼は続けた。

「弟さんは呼吸器系のトラブルを抱えていたようだね、ここに座っていると、彼の息苦しさが感じられる」

 わたしはそれを訳しながら、息苦しさを感じるのは単にその場所がフェネガンには狭すぎるからじゃね? と思ったけど、玲奈からは次の返事がきた。

「ええ、弟は喘息持ちでした。子供の頃からです」

 玲奈はため息をついた。それは弟の健康を思ってのものだろう。

「この引き出しを開けてみてもいいですか?」

 玲奈は「どうぞ」と答えた。

 フェネガンは、そこで初めて体をひねり、半分だけ振り返った体勢でなぜだか後ろにいるわたしの目を見て、意味ありげにうなずいてみせた。

 ん? どういう意味だろ。一緒に見てくれ、ってこと? 中身をちょろまかしたりしてないことの証人になってくれっつうことかな……?

 その意図はよくわからなかったが、わたしが背後から彼の手元をのぞき込むように身を乗り出すと、フェネガンは机に向き直った。

 ダークブラウンの木製の、いわゆる学習机だ。一番上に幅広の薄い引き出しがあって、右手側にそれぞれ深さの異なる三つの引き出しが縦に並んでる、ごく普通のヤツ。机の上にはあまり物が置かれておらず、筆立て(たくさんペンがささってる。あの万年筆もここにあったんだろうな、と思った)と、ブックエンドに挟まった何冊かの辞書くらい。

 フェネガンは最初に一番下の引き出しを開けた。その手が止まった。

 わたしも覗き込んだ。意外にもそこにはほとんど物が入っておらず、ぽっかりと空いた状態だ。フェネガンは、中身のないその空間をにらんだまま、固まっている。どういうこと? とわたしは思う。さらに近くに顔を寄せてみた。

 引き出しの底には古新聞が敷かれていた。そこになんかのシミがある――油みたいな。ん、なんか嗅ぎ慣れない匂いがするな。その油のだろうけど、なんか独特な匂い。フェネガンもそれが気になってるのかな?

 しばらく固まったあと、フェネガンは急に左手で自分のこめかみのあたりを押さえた。少しフラついているように見えた。

 それからフェネガンは残りの引き出しを次々に確認していった。全部、チラ見しただけですぐに閉じた。わたしが見た限り、ごく普通に引き出しのなかにありそうなものがあっただけだった。

 フェネガンは振り返った。顔色が悪いように見えた。

「美希サン、ここでの作業は完了だ。少し休みたい。そのあと結果を彼女にフィードバックする」

 そう言って彼は立ち上がろうとしたけど、体はフラフラしてて、横の本棚に手をついてなんとかバランスをとる有様だ。思わずわたしは彼を支えようと腕を伸ばした。

「すいません、ローランドが少し休みたいと言ってます」

 玲奈に告げた。彼女もフェネガンの様子に気づいて慌てたように「では居間にソファがありますので、一階へ――」と言って、移動をうながす仕草をした。

 わたしたちは階下におりて、やや狭苦しい感じのリビングにある革張りのソファに身を落ち着けた。

 そのときにはもうフェネガンの顔色はほとんど戻っているように見えたので、わたしはひとまず安心した。

「コーヒーでも淹れますね」

 玲奈は台所に立った。

「砂糖とミルクをたっぷり入れてください」とフェネガンは言った。わたしはそれを訳したあとで、「それと、ごめんなさい、わたしの分はミルクだけで」と付け加えた。玲奈は振り返ってニッコリとうなずいた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ