記憶の底から這い出した
その後、スポドリを少しずつ摂取し、由花のハンディファンのおかげで体温も下がってきたのか、女の子の体調は目に見えてよくなっていった。
熱中症のなりかけのようなところだったのだろう。症状がひどくなる前に出会えたのは、幸運だったかもしれないと多希は思った。
「あの、だいぶ気分がよくなってきました。ご迷惑をおかけしてすみません」
だいぶ顔の赤みがひいてきた女の子が、丁寧な動作で頭を下げる。あまりにも綺麗で洗練されたその所作に、多希は迷惑じゃないと否定することも忘れて見入ってしまった。
それは由花も同様だったのだろう。それだけ少女の所作は一つ一つが洗練されていて、とても同じ学校の生徒には見えなかった。
それこそ最初に多希が抱いた印象の通りに深窓の令嬢か、どこかのお嬢様学校の生徒とかの方が似合いそうですらある。
「ぁ、あの、本当にすみませんでした」
多希と由花が喋らないことで勘違いしてしまったのだろう。女の子が心底申し訳なさそうに、もう一度深々と頭を下げ、そこで多希はやっと我に返ることができた。
「全然大丈夫! 回復してよかった」
「うんうん! むしろ役に立ってよかったよね」
多希と由花が笑顔で否定すると、女の子も少し安心してくれたようだ。迷惑をかけてしまったとこわばっていた表情がゆるむ。
「本当になんとお礼を言ったらいいか。飲み物までわざわざ買って頂いて…あ、代金お返ししますね!」
お金を出させたという状況に今気づいたのだろう。女の子は慌てて鞄を開いた。が、すぐに先ほどより何倍もどんよりとした表情になってしまう。
「も、申し訳ありません。その、今はお財布を持っていませんでした」
「気にしないで。体調が悪い時は誰かに頼った方がいいんだから」
「そうそう! 困った時はお互い様だし、飲み物代くらい気にしないでよ」
今にも泣き出してしまいそうな少女を、多希は由花と一緒になって必死に慰めた。その甲斐あってか、女の子は泣き出すこともなく落ち着いてくれ、その様子を見て多希は胸をなでおろした。
「保健室は? 本当に行かなくても大丈夫そう?」
「はい。あとは帰るだけなので、我が家の車も駐車場にありますから」
「そっか、迎えが来てるなら一安心だね」
「はい、心配までしていただいて、重ね重ね本当にありがとうございます」
深々とお辞儀をする女の子。いちいち動作が丁寧で、多希は変にドキドキしてしまう自分の心を落ち着けるのに苦労した。
「もしよかったら車まで付き添うよ……由花が」
「いや私かよ!? あ、嫌ってわけじゃなくてね、なんで私だけ?」
「僕はほら、さっきあったばかりの男がそこまでは、ねぇ?」
多希の言葉に由花は理解を示してくれたが、意外なところから反論の声が上がってくる。
「あの、善意で言ってくださっている方に、そんな失礼なことは思いませんから!」
「そ、そう? じゃあ僕もついていく?」
「え、あ、えっと、送ってほしいと言ったわけではなくですね!」
その後、はしたないことを言ってしまったと慌てる女の子を落ち着かせ、多希は由花と一緒に駐車場まで送った。のだが、そこでまた予想外の展開に遭遇することになった。
「え!? お迎えの車ってあの車なの!?」
驚きを隠すこともなく声を上げた由花。声こそ上げなかったが、その気持ちは多希も同じだった。
あれです。と女の子が指さしたのは、なんと多希と由花が話題にしていた車だっからだ。
高価であるという一点のみは、ご令嬢のような女の子にあっていると言えるかもしれない。が、ひときわ目をひく派手な車体は、丁寧でおしとやかな少女のイメージとはあまりにもかけ離れていた。
「ま、まぁ運転するのは親御さんだもんね?」
「えぇ、あの車は父の趣味でして」
車からもこちらの姿が見えたのだろう。ドアが開き、中から穏やかそうな顔をした男性が降りてくる。
「終わったのかい千聖? その子たちは?」
父親らしき男性が、多希に戸惑ったような視線を向けてくる。娘が知らない男、まぁ由花もいるが、見知らぬ男と一緒に戻ってくれば、父親の心労は計り知れないものなのだろう。
「えぇ無事に。それでお父さん、この方たちはですね」
そんな父親に少女、千聖と呼ばれた女の子が事情を説明してくれた。多希はその名前にどこか聞き覚えがあったような気がしたが、似た名前の人がいただけかもと、深く考えずに事情説明が終わるのを待つことにした。
「そ、そうだったんだね。体調は? もう歩いて平気かい?」
「はい。お二人のおかげでこうして帰ってくることができました。重ね重ね感謝を」
「私からもお礼を、うちの娘は身体が弱くてね。本当にありがとう」
親子そろって深々と頭を下げる二人。父親は見た目通りの優しい心をした人なのだろう。娘の話しを心配そうに聞いていた時の表情や、こうしてあったばかりの子供にまで、丁寧に頭を下げてくれる紳士的な姿から、多希はそう判断した。
初対面の大人から、しっかりと頭を下げられた由花はかなり恐縮しているようだ。
「私たちはたまたま通りかかっただけなので」
「そんなに気になさらないでください。それじゃあ僕たちはこれで」
この父親が一緒にいれば大丈夫だろう。多希は安心して帰ろうとしたのだが、気が付くと笑顔の女の子に回り込まれていた。
「待ってください。お礼どころか私、まだお二人の名前すら聞いていませんでした。どうか教えて頂けないでしょうか?」
「いや、お礼なんて、ホント気にしないで」
「そういうわけにはいきません。大事な娘の恩人ですから、私からもお願いします」
女の子とその父親に詰め寄られる。鬼気迫る様子の二人から、多希はこのままただでは帰さないという気迫を感じ取った。
困り顔の由花も同じものを感じ取ったのだろう。引き気味になりがらも先に自己紹介を始めてくれた。
「あはは、私は江田由花。一年生だよ」
「僕は梶谷多希です。同じく一年」
「え?」
その瞬間、場に流れていた和やかな空気が、一瞬で霧散したのが多希にはわかった。
それくらいわかりやすく、目の前の少女は明らかに表情を変えたのだ。いや、少女だけではない。穏やかな表情をしていた父親でさえ、今はその顔に驚愕の感情をはり付けている。
二人が表情を変えたのは、明らかに多希が自己紹介をした瞬間。多希は自分が、何かのブラックリストにでも載っているのではと不安になった。
「本当に、あの多希君なのかい?」
少女の父親からかけられた言葉に、多希は違和感しか感じない。何故か親し気な声色も、懐かしいものを見るかのような表情も、その全てが多希には理解できなかった。
「あのと言われてもどのッ!?」
ただ困惑していた多希だったが、勢いよく女の子に抱き着かれたことを理解した瞬間、もう言葉が出なくなった。
隣から由花の悲鳴じみた小さな声が聞こえる。
真っ白になりかけている頭で、多希はなんとか状況を整理しようと心みるが、どうして初対面の女の子から抱き着かれているのか、そんなことが分かるはずもなかった。
「多希君。本当に多希君なんだ」
「ぼ、僕は確かに多希だけど」
「私だよ多希君。覚えてない? 千聖だよ。鷺沼千聖」
鷺沼千聖。勘違いではない。その名前をきいたとき、多希にはやはり既視感のようなものがあった。
一度聞いたことがある。なんてその程度のことではなく。何度も呼んでいたかのように、親しみの持てる名前。
自分が何か大切なことを忘れているような気がして、多希は女の子に抱き着かれていることすら忘れて記憶を辿った。
「私は覚えてるよ。あの日、引っ越して離れ離れになった日から毎日、一日たりとも忘れたことなんてなかった」
千聖と名乗った少女は、その瞳から恥も外聞もなく、大粒の涙を流している。それはきっと嬉し涙。混乱している多希にもはっきりと分かるほど、千聖は歓喜に満ちているように見えた。
まるで長年探していた大切なものを見つけたかのような喜び方。
多希は千聖の言葉を反芻する。『引っ越して離れ離れになった日』そのワードの意味を考えたとき、多希は忘れていた過去を、濁流のような勢いで全て思い出した。
とても幼い頃のこと、多希には幼馴染がいた。
由花ではない。由花は当時売りに出され空いていた、隣の家に引っ越してきたのだ。
その空き家には、元はある家族が住んでいた。両親と女の子の三人家族。その女の子と多希は同い年で、毎日のように一緒にすごしていた。その女の子の名前が、
「ぇ、ぅそ、千聖ちゃん?」
多希が声をかけると、少女はその宝石のような瞳から、さらに涙をあふれさせた。
「そうだよ! 幼馴染の千聖だよ。隣の家に住んでた千聖。ずっと一緒に遊んでた……ぅ、ぅう」
「ち、千聖ちゃん!?」
「ぁ、逢えた……また逢えてよかった」
多希の胸に顔を押し付けるようにして泣いている千聖。子供のように恥ずかし気もなく泣いている姿を見れば、本心から再開を喜んでいるのだと、それを疑う者はいないだろう。
目じりに涙をためた父親にも肩を抱かれる。多希はふたりに抱きしめられて、ただされるがまま困惑していた。
一人目の幼馴染と再会したのだという実感が、徐々に湧いてきてはいるのだが、それでもここまで熱烈に喜んでもらえていることが、多希にはどうしても疑問だったから。
結局、親子二人が落ち着くまで、多希は千聖に触れないように、ホールドアップの体制を貫いたのだった。




