湖のほとりの令嬢は水面に笑う
「公爵令嬢アメリア=ヴィオレット、そなたとの婚約は破棄する」
王太子セドリックの声が、静寂の舞踏会場に響いた。
誰もが目を見開いた。
令息や令嬢たちの仮面のような笑顔が、同情と興味に歪む。
アメリアはただ、涼やかに片眉を上げただけだった。
「理由は?」
王太子が隣に立つ、薄桃色のドレスの娘を振り返る。
「彼女が、私の心のすべてなのだ。エルミナ・クロエ、平民の出だが、清らかで正直な女性だ」
──なるほど、そう来たのね。
アメリアはうっすらと微笑んだ。
まるで芝居の台本をなぞるような、見事な構図だった。
平民令嬢との純愛。高貴で傲慢な悪役令嬢の排除。
民衆は喝采を送り、宮廷は喝采に乗る。
「わかりましたわ。破棄、承知いたします。
ただひとつ、お願いがございますの」
静かに、アメリアは扇子を閉じる。
「この身を、湖の城にて幽閉してくださいませ」
ざわめきが広がる。
王族も貴族も知っている。幽閉を願い出たあの湖は、人が消える湖だった。
霧が深く、底が見えず、夜になると水音が笑い声のように響くという。
だが王太子は快く了承した。
「それでいいなら、好きにするとよい」
その瞬間、アメリアの瞳が、誰にも気づかれないほど小さく揺れた。
——始まるわ。
アメリアが湖の城に移されてから、十五日が経った。
古い石造りの小城には、召使いもいなければ警備もない。
ただ一人、使用人として与えられたのは口のきけぬ老女だけだった。
アメリアはそれを好都合と受け止めた。
この静寂こそが、彼女が望んだものだったからだ。
水辺の暮らしは静かだった。
窓を開ければ一面の湖。霧に沈む対岸。
夜になると、時折、遠くで水音がした。
ぽちゃん、と。
すい……すい……と、泳ぐような、這うような気配。
けれど、アメリアはそれを怖がらなかった。
むしろ、懐かしさを感じていた。
ある夜、寝室の鏡の前に立ったとき、彼女は“それ”に気づいた。
水差しの水面が、静かに揺れている。
誰も触れていないのに。
覗き込むと、自分の顔が映っていた。だがそれは、微かに笑っていた。彼女自身が笑っていないにも関わらず。
「……お久しぶりね」
アメリアがそう囁くと、鏡の水面がゆっくりと歪み、声が返ってきた。
「あなたの願い、叶えてあげましょうか」
アメリアは瞼を伏せ、そっと微笑んだ。
「ええ。……けれど、順番がありますの。じんわりと確実に」
「平民の娘、そしてあの王太子……彼らには、水の中で本当の姿を見てもらいますわ」
その夜から、王都では異変が始まった。
湖にほど近い村民がたちが水死体として見つかった。
王都では騎士団長が入浴中に心臓を止めた。
どちらの死体も、顔を水面に向けて笑っていたという。
まるで誰かが、湖の底から引きずっていったように。
王都には鐘の音が響いていた。
明日は、王太子セドリックと平民出身の令嬢エルミナの婚礼である。
街には白い花が飾られ、通りには金の紙吹雪が舞う。
人々は口々に「新しい時代の幕開け」と囁き合った。
だがその夜、街のあちこちで妙なことが起きた。
井戸が突然溢れ出し、屋根の上から雨もないのに雫が落ちる。
床下から水音がし、誰もいない浴場に足跡が残される。
城の鏡に映るべき姿が、一瞬だけ別人になる。
水が、近づいていた。
そして午前零時。
エルミナは婚礼を前にして、女官たちを下がらせ、白いナイトガウンのままひとり鏡の前に立っていた。
月の光が薄く差し込む鏡台。
ブラシを持ったまま、少しだけ微笑む。
もうすぐ私は、王妃になるのだ。
そのとき——
背後から、誰もいないはずの部屋で、低く甘やかな声が響いた。
「おめでとうございますわ、花嫁さま」
びくりと肩を震わせ、振り返る。
だがそこには誰もいない。
……しかし、鏡の中には、いた。
そこには、銀糸のような髪を垂らしたアメリア=ヴィオレットが映っていた。
エルミナは息を呑む。
「あなた……!どうしてここに来たの!?」
「ええ、ただ……挨拶にね」
アメリアは涼しい声で言った。
「お祝いの言葉だけでは失礼ですもの。“真実の贈り物”をお持ちしましたの」
「なにを言って……!」
アメリアはゆっくりと鏡の中で歩き、エルミナの背後に立つように見えた。
そのとき、鏡に映るエルミナの顔が変わった。
口元に笑み。目元に軽蔑の色。そして、血に濡れた手。
「……あなたが“清らかな平民”という仮面を被るために、どれだけのものを踏みにじったか──彼は知っているかしら?」
「なっ……」
「あなたの実家が火事になったのは、偶然じゃなかった」
「あなたが“唯一の生き残り”として王宮に拾われたのも、脚本通りだった」
「ねえエルミナ、あなた、自分の姉を井戸に突き落としたのよ」
エルミナの顔から血の気が引いた。
「……やめて……そんなの、知らない……私は……!」
「ええ、忘れたふりをしていただけ。あなたはいつもそうだった。誰かが傷つくたび、“かわいそうなわたし”だけを見せて生き延びてきた」
アメリアは、鏡越しに小さく微笑む。
「あなた、知らないのね。水面ってね、真実しか映さないのよ」
その瞬間、鏡がばきりとひび割れ、そこから水がこぼれ落ちた。冷たい水は音もなく、床を這い、エルミナの足首を包み込んだ。
「ひっ……やだ、やめて……!」
しかし、エルミナの足はもう動かなかった。
鏡の中では、“幼い姉”が冷たく濡れた手を伸ばしている。
「ねえ、どうして突き落としたの?」
王都がまだ眠る深夜、
王太子セドリックは、豪奢な私室の湯殿にいた。
婚礼の前夜、緊張のほぐれぬ身体を湯に沈めながら、天井を見上げる。
鏡のように静かな水面が、ほの暗い蝋燭の火を反射して揺れていた。
セドリックはふと、自身の姿を水面に映してみる。
完璧な笑顔。民に愛される横顔。将来を約束された若き王の顔。
だが、次の瞬間、映ったのは“自分ではない誰かの顔”だった。
「やあ、セドリック様。おひさしぶりですわね」
——それは、水面に浮かんだアメリアの微笑だった。
セドリックの背筋に冷たいものが走る。
「なんのつもりだ……! おまえは湖に……!」
「そうですわ。わたくしが望んだの。
あの時、あなたが“わたくしを捧げた”から」
「……なにを……」
アメリアの顔が、水面でゆらゆらと揺れる。
そして、囁くように語った。
「あなた、覚えていないの?
“水の精霊”を生け贄に捧げれば、王族に災いが訪れないと……
……あなたが密かに手配して、わたくしを湖に沈めるよう手配したこと」
「ちが……俺は……そんなこと……!」
「それが本当なら、どうして逃げ出したわたくしを拾ったの?」
「名門公爵家に押しつければ、後腐れなく“処理できる”とお考えになったのではなくて?」
セドリックの脳裏に、幼い頃、祈祷師から聞かされた言葉が蘇る。
──“この世には、湖に選ばれた子がいる。
その者を水に還さねば、王家に呪いが降る”──
“呪い”を避けるために、極秘裏に探し出した彼女を差し出した。
彼女が助かったと知った時、すぐに“口封じ”として婚約の話を仕組んだ。
「すべては……民のためだった……」
震える声で言い訳を口にした瞬間、湯船の底から、白い手が現れた。
それは、少年時代に一度だけ見た幻と同じ手。
水の精霊の、冷たい幼い手。
「真実ごと、沈めて差し上げますわ」
その声を最後に、王太子セドリックは湯殿の水面に顔を沈めた。
助けも叫びも届かず、ただ静かに、微笑みながら、泡を一つ吐いて。
翌朝。
婚礼は中止された。
王太子セドリックは、部屋の風呂場で溺死していた。
エルミナは鏡の前で、目を見開いたまま口から水を吐き、意識を失っていた。
医師が言った。
「肺に溜まっていた水が……あの湖の水でした」
王太子セドリックとエルミナの婚礼は中止され、王都はその動揺とともに急速に沈静化していった。
だが、アメリアはその後も静かに湖の城で過ごしていた。
彼女にとって、すべては予定通りのことだった。
王太子やエルミナがその本性を暴かれ溺れたのも、ただの序章に過ぎなかった。
彼女が望んだのは、彼らが深く感じる後悔と恐怖だった。
水面に映る真実。
アメリアは、湖の底に眠る記憶を蘇らせたかった。
それは、過去の罪を償わせるための方法だった。
すべてを水の中で清算する。
湖の底は、真実を隠す場所でもあったが、同時に解放の場所でもあったのだ。
――アメリア・ヴィオレットの本当の名前。
――彼女の本当の運命。
そして、彼女が水面に戻った理由。
彼女は水の精霊に生まれ、湖に捧げられた存在だった。
アメリアが幼い頃、王宮から派遣された騎士団長や国に冷遇されたくない村の者たちは彼女を生け贄にしようとした。
しかし、その儀式を避けたのはアメリア自身だった。
彼女は人間として生きることを選び、王族に拾われ、名門家に育てられ口封じという名の婚姻を仕組まれた。
その代償として、アメリアの心の奥底には、湖からの呼び声が常に響き続けた。
「あなたのものは、最終的にすべて戻ってくる」
王太子セドリックとエルミナは、彼女にとって最も憎しみを抱く相手だった。
彼らがどれだけの罪を犯し、どれだけ彼女を踏みつけたか。
それを知っているのは、水面だけだった。
湖の底に沈む村人たち、王太子、エルミナ。そして、あの日、彼女を裏切ったすべての者たち。
彼らはアメリアが望むように、水面に映る真実の顔を見ていた。
だが、アメリアが手にしたのは復讐だけではなかった。
すべてを清算するためには、命をひとつも奪わなければならなかった。
最後にアメリアは、湖の中で一人、微笑みながら呟いた。
「水はすべてを清め、すべてを返す。」
そのとき、彼女の眼前に現れたのは、消えたはずの母親だった。
アメリアを湖に捧げようとした母親の影が、今や水面から現れ、彼女を迎えに来た。
アメリアは静かに手を伸ばし、水の中にその手を引き寄せられた。
彼女の身体が、完全に湖に引き込まれるとき、王太子とエルミナの死が決して無駄ではなかったことが、ようやくわかった。
アメリアは自らの復讐を成し遂げ、最終的には水の中に戻った。
すべてが水の中に消えていったのだ。