短編『三度目の朝、君のとなりで』──三度目ではなかった。最初の選ばなかった私へ。
三度目の朝、神殿の回廊は霧のような冷気に包まれていた。
一度目の世界でも、二度目の世界でも、彼女は何もできなかった。エーリクが殺され、ディティエが狂い、祈りは上がらず、供物の儀式は失敗し、世界は滅びた。
三度目の人生。ルルティアはようやく、前世二度分の記憶を取り戻す。
そして思い出してしまう。——目の前でやさしく微笑む、幼なじみのアルブレヒトが、あの破滅の中心にいたことを。
「ルル、思い出したんだね。そして……僕を嫌いになったんだね」
その微笑みは、まるで朝露のように清らかで、痛いほどに儚かった。
一度目でも、二度目でも、アルブレヒトは神殿付きの魔術師だった。優秀で、誰より静かに祈りを捧げる人だった。
けれど、あの夜。
供物の儀式の三日前の夜、神殿の回廊を歩いていたルルとアル。ディティエの部屋から出てくるエーリク。その姿を見たアルが、突然魔法を放った。
倒れるエーリクを一瞥もせず、アルはルルだけを見つめて、いつものように微笑んだ。
「やっと、僕を見てくれたね、ルル」
——それが、すべての始まりだった。
* * *
三度目の現在。
供物の儀式は一週間後に迫っていた。
神殿の魔術師室で、ルルはアルと向き合っていた。
「なぜなの?」
「なぜなのか、まだわからない?」
「わからない」
「そうじゃあ、今度も世界は壊れるね。悲しいね」
「悲しくともなんともない声じゃない。どうして?どうしてなの?アル」
「じゃあ、エーリク騎士団長が生きていたとしよう。そのあと、どうなると思う?」
「ディティエが供物の儀式を完遂……エーリク騎士団長は淡々と仕事を続ける……?」
「そうだね。そしたら、君はどうする?」
「私? なんで? 変わらないわよ」
「いや、変わるよね。……君は……」
言いかけて、アルは部屋を出ていった。
ルルは、追いかけることができなかった。
* * *
——祭壇の前。
白と鮮やかな深緑の神殿魔術師の衣をまとい、アルブレヒトは祈りを捧げていた。
その背を遠くから見つめるルル。
アルがふと気づいて振り向いた。
その微笑みは、あまりにも優しく、切なかった。
「花瓶の花を交換するから、水場へ行くんだけど、いっしょに来る?」
「うん」
「どうしたの? 元気がないね」
「それ、あなたが言う?」
「そうだね。おかしいね。僕が世界を終わらせるのに」
「アル……ねえ、どうしてか教えてよ」
「……この季節はアルニカの花がとても綺麗だね。ルルもこの花、好きだっただろう? 少し分けてもらって、髪に挿す? 君の黒髪にこの白い花はとても似合うと思うよ」
「アル!」
「僕は何度も言っているのに、肝心の言葉だけ、君に届かない。どうしてなんだろうね」
「なんのこと?」
* * *
——そして、儀式三日前の夜。
神殿の裏回廊。忍び込んだルルの前に、魔法陣の光が揺れていた。
そこに、アルがいた。
視線の先には、エーリク。
ルルは迷わず、彼の前に飛び出した。
「ばかな!」
アルが叫び、魔法の光が解き放たれた。
ルルの身体を貫き、彼女はエーリクの腕の中へと倒れ込む。
「ルル……ただ、君さえ……君さえいてくれれば、僕は……」
アルの声が、震えていた。
(やっと……聞けた)
「アル……アル……次は……私、間違えないから……」
微笑みながら、ルルは目を閉じた。
* * *
かつて、最初の世界で巫女だったのはルルティアだった。
選ばれ、祈りの座に立ち、ただひとり身を神に捧げて世界を救った。
それは、誰にも抗えない定めだった。
彼女はそれを受け入れ、何も言わず、ただ静かに微笑んで消えていった。
そのとき、彼は初めて「後悔」というものを知った。
アルブレヒト・ハインズブルク。
世界に名を知られる天才魔術師。
彼にとって、理も時の流れもすべて扱うべき対象にすぎなかった。
けれど、彼女が祈りの火の中へ姿を消した瞬間だけは、
どうしても取り戻せなかった。
だから彼は世界と契約した。
理そのものに、自らの魔法を捧げて。
「彼女が、自分の意志で、僕を選ぶまで——」
「何度でも、世界をやり直させてほしい」
それは、果てなき循環の始まりだった。
ルルティアは巫女ではなくなり、ただの少女として転生し、
アルはそのたびに“初めて出会ったふり”を繰り返した。
そしてそのたび、彼は世界を壊し続けた。
愛を告げることもできず、ただそばにいながら、
彼女の“答え”だけを待ち続ける。
それが彼の選んだ罰であり、願いだった。
世界は、ルルがアルの心に気づくまで、
幾度でも滅び、幾度でも巡り、
そしてまた朝を迎える。
それが、“三度目の朝”という名の、
終わらないはじまりだった。