8浪時代
2022年4月-2023年3月
4月
人生2度目の大学受験予備校に通うことになった俺は春から浮かれていた。
今度こそは本気になって勉強するんだ。寝る間を惜しむほど勉強して医学部にぶっちぎりで入ってこれまでの人生の汚点を塗り消すのだと。
そう、予備校に通う前までは思っていた。
テキストが配布され、入学式が執り行われた。
塾長は今の成績は関係ない、8月までは伸び悩んでも何も問題ないと力説していた。
この予備校なら、もしかすると俺は変われるかもしれない。
初めの授業が始まった。
授業のクラスは入学式直前に受けた認定テストで決められた。
俺は数学と化学が上のクラスで英語と物理が下のクラスだった。
もっとも、数学も化学もマーク模試では偏差値53程度だったので得意というものでもなく、その教科への習熟度という観点から見ればどれも似たり寄ったりだった。
全ての教科が下のクラスでなかったことでなんとか保たれた体裁。
己のコンプレックスはこんなところにも潜んでいた。
俺が受講した講座は英数物化国世であった。
高校の教師と違い教える時の熱量は比較的高かった。
特に数学と英語と世界史の先生は凄かった。
世界史はその中でも群を抜いて凄かった。
無味乾燥な受験勉強が一瞬で楽しいものになった。
今まで小中高、映像授業といろんな授業を受けてきたが、この先生の授業はそれらとは一線を画していた。
授業というよりかは漫才を見ているようなものだった。
とにかく喋りが上手くて、世界史の授業があるときは自然と予備校に向かう足が軽くなった。
なぜこんな表現をするのか。
まるで他の科目の授業があるときは足が重かったかのような。
そうなのである。
25歳にして親に100万円を払ってもらって入れてもらった予備校。
5月に入る頃にはだれてきたのである。
初めは苦手科目でも克服できるように授業の予習復習に取り組んでいた。
しかし東進時代からの持病がここに来て自分を襲った。
“このまま予備校の示すカリキュラム通りのことをしていて本当に受かるのか?自分で市販の参考書も進めていった方が良いのでは?”
予備校に通う生徒にとってこの考えを持つものは伸び悩む傾向にある。
本来任せておけば良いものを変に疑って、自己流にこだわる、その癖してその自己流を貫徹できるほどの胆力は持ち合わせていない。
そうしてどちらも中途半端になって秋になっても冬になって成績が上がらないのである。
俺は月に一度ある上のクラスへの昇格試験を毎月受けたが最終的に英語も物理も上がることはなかった。
物理に至っては教師がウザすぎて通うのを辞めた。
あのハゲ。
授業中に女子生徒に「Hey girl」と呼びかける。
それ自体は構わないが、そのような小さなものが積み重なって生理的に無理になったのである。
25歳がとるべき行動ではないのだろう。
本来であればなりふり構わず知識を吸収していくべきだったのだろう。
いい大人が親に金を払ってもらって、こんなことをしていて恥ずかしくないのかと自己否定する心の声が脳内を反響した。
一つ通わなくなるとまた別の授業にも通わなくなる。
物理、英語、化学……
結局最後まで皆勤賞で通った科目は世界史と国語と数学だったか。
現代文の先生は凄かった。
30代までふらふらしていたが、今の予備校講師という仕事に就いてから死に物狂いで仕事をしたそうな。
投資の勉強なんかもして、20代から30代にかけて稼いでなかった分の金を稼いでいるのだとか。
やはりそういう死線を潜り抜けてきてコンプレックスを解消できた人間というのは強い。
その語り口には確かな重さがあった。
現代文に出てくる単語を一つ取り上げるにしても、自分の言葉で語っているのか深みがある。
現代文とは本来こういうものなのかもしれない。
というのは、難しい言葉を無味乾燥に弄り通して紡いだ言葉を並べるだけなのではなく、自分の腑に落ちるところまで落として、経験と混ぜ合わせ、再解釈したところまでしてようやく自分の言葉となるのであって、上辺だけ講釈するのは2流の講師がすることだってことだ。
英語の授業では指定席ではなかったものの、時が経つにつれて各々が指定席のようなものを見つけていくものである。
俺もその例に漏れず自分の席をいつの間にか決めていた。
そしていつの間にか目の前にいる女子の頸を観察していた。
ショートカットに小綺麗に切り揃えられたその髪の毛からは純粋無垢な清楚感を感じさせた。
斜め前にいる女子の太腿は凄かった。
色白のムチムチのボデーはまさに聖翼の権化。
俺は気付けばその2人の頸と太腿を交互に眺めていた。
3ヶ月に一度行われるチューターとの面談。
俺は恥ずかしげに志望校である国立医学部を示した。
俺は過去のトラウマから他人に志望校を言うのを渋っていた。
高校生の時に純粋無垢な心で母親に医学部に行きたいことをいったら、鬼のような形相をしてヒステリックになり猛反対してきたのである。
軽いトラウマである。
だがそれ以来、自分の夢をおいそれと他人には語らなくなった。
本心で思っていることを話したがためにそれを貶されることに俺の精神は耐えられるほど強くはないのだ。
しかし100万円を予備校に払っているだけあって、チューターはさすがプロだった。
「国立医学部を志望してるんだね」
「はい…」
「大丈夫、これから頑張れば充分に合格できるよ」
「はい…(嬉しい)」
こんなことは10月まで続いた。
しかし11月になるとチューターも現実的になり、厳しめになっていく。
「中村くん、最近授業に行ってないどころか予備校にも来てないみたいだね。どうしたの?」
「…いや、まぁ、自分で勉強した方がいい…かな……と」
「うーん、これは中村くんの問題だから僕がどうこう言うものじゃないけど、厳しいこというようだけど真剣にやらないと受からないよ?」
「……。」
25歳まで何でこんなことを言われてるんだ?
何か嫌なことがあると常に出てくる心の声がある。
・中学時代バスケ部に入りさえしなければこんな歪んだ心にはならなかったのに
・高校は私立でもいいからせめて偏差値68以上のところに入っておくべきだった
・25歳にもなってなにやってんだ
いずれもタイムマシンで過去に戻らないと根本的に解決しない問題である。
それ故に無限に言い訳が作れるのである。
何か嫌なことがあれば今その瞬間に解決の糸口を見つけるのが普通の人間の考えだが、鬱病の俺は過去の選択や現在の変えられない事実に対して原因を探る。
そして固定化された原因は変えられることがないので問題が解決されることはない。
嫌なことがあったね。はぁ、嫌な気持ちになっちゃった。
でいつも終わるのだ。
さて、話を遡り4月から冬にかけてあった出来事を順に見ていくとするか。
4月
2020年8月8日にYouTubeにアップしたとある科学の超電磁砲の切り抜き動画の再生数が急上昇する。
佐天涙子がけん玉をするシーンなのだが、元々この動画は8/7に別の人が上げたものを内部録画して再アップしたものなのだ。
つまり転載の転載が爆発的に伸びたということになる。
4月初めには1万再生だったものが、5月末には150万再生となった。
またこの頃、勤めていた忍者学園シックスナインを辞める。
予備校のスケジュールと仕事が被ってしまうからだ。
最終日は可愛い生徒たちから先生やめちゃうの?やめないでと引き止められた。
俺は最期の授業ということで生徒たちに一言言ってやった。
「お前たち、忍者もいいけどよ、俺みたく陰の世界で生きるなよ。いずれは忍者をやめて陽の世界へ行くんだぞ。」
生徒たちはキョトンとした表情をしていた。
無理もない小学校低学年の子供なのだから。
だが、いずれ俺の言った言葉の意味が分かるだろう。
一人暮らし時代に勤めていた寿司屋の忍耐店長が432した。
焼身432だったらしい。
上司のパワハラが関係しているのではないかとニュースでは取り上げられていた。
俺が寿司店を辞める時にいたはずのあの店長。
常にキョドキョドしていたあの人。
432した日がエイプリルフールだったという。
彼が最期なにを思ったのか。
残された俺には何もわからない。
ただ彼の冥福を祈った。
iPadが届く。
去年の秋に壊れて以来、使ってなかったiPadを再度買い直した。
これで予備校の映像授業を見るつもりだったが、結局の用途はソシャゲや下衆なYouTube動画やAmazon Prime Videoでのアニメの視聴に限られていた。
高尚な目的はいつの間にか低俗なものに変わる。
世界を高尚と低俗に分けるなら、世界には常に低俗へと流れる力が働いているのだろう。
6月
京都の修学院に行く。
修学院離宮は、京都市左京区修学院の比叡山麓にある皇室関連施設。17世紀中頃(1653年(承応2年) - 1655年(承応4年))に後水尾上皇の指示で造営された離宮(皇居以外に設けられた天皇や上皇の別邸)である。谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園とその関連建物からなる。桂離宮・仙洞御所とならび、王朝文化の美意識の到達点を示すものとなっている。宮内庁京都事務所が管理している。(wiki調べ)
綺麗な田園風景が広がっていた。
7月
修浪さんと電話で話す。
修浪さんと話すことでしか得られない養分がある。
7月8日
その日はいつものように予備校の自習室で勉強していた。
昼頃、勉強に疲れ、気休めにスマホのニュースサイトを眺めていた。
すると安倍晋三が何者かに銃撃されたという速報が入ってきた。
非現実的なニュースに震撼した。
その日の夕方には晋三のタヒ亡が公表された。
駅のホームの液晶モニターには氏のタヒが全面的に映されていた。
心なしか駅のホームで電車を待つ人たちのオーラがいつもよりも冷めていたような気がした。
日本中が晋三の喪に服しているようだった。
8月
櫻子と大阪でエンカする。
勉強会という体で開いたエンカだったが、勉強は数学を2問程度解いただけで終わり、マクドでジャンクフードを食らい、その後は書店で参考書コーナー巡りを楽しんだ。
9月
一人暮らし時代からツイキャスで頻繁に話していた宿守さんと大阪でエンカした。
某帝国大学に現役で入学したエリートだったが自らの信念の元、中退し全国を放浪していたという。
そのうちの拠点の一つである大阪ではホストをして身を立てているとか。
サイゼリアで飯を奢ってもらって受験の話をした。
今後の模試で医学部A判定が出たら風俗に連れていってくれるというので燃えた。
11月
予備校で受けた模試の結果が返ってきた。
地方の医学部や私立医、早慶の適当な学部、旧帝大などを志望校の欄に書いていた。
高校の時以来、まともな大学の判定は決まってE判定だった。
だがその時は北大総合理系でD判定をとった。
人生初の難関大学のD判定だったのでテンションが上がった。
風俗には足りなかったが、自分が受験生らしいことをしていることに歓喜した。
11月末
宿守さんと大阪でエンカ。
9月からかれこれ5回くらい会っていた。
この時、宿守さんから今年度の受験が駄目だったらシェアハウスをしないかと提案を受けていた。
この時既に実家の暮らしに慣れきっていた俺はわざわざ家賃を払う必要のある生活に戻る必要性を感じられず、提案を渋っていた。
終電が過ぎようとした頃、俺は急いで駅へと向かった。
だが宿守さんはそれを阻む。
終電が過ぎた。
「まぁまぁ酒でも飲んでこれからのことを話そうぜ(ニチャァ)」
俺はその場に崩れ落ちた。
12月になろうとする時期だったので薄手では深夜の外気に耐えられない。
寒さを紛らせようとストゼロ缶を2缶空ける。
途中アルコールに耐えられず吐いた。
「シェアハウス…しよな(ニチャア)」
宿守の洗脳が始まる。
「返せ!俺を家に帰せーー!!!ア"ア"ア"ア"ァ"ァ"ァ"ァァァァ!!!」
必タヒの抵抗虚しく深夜の大阪を2人で歩き回った。
途中何度も介抱されながら。
あんまり寒かったのですき家に入った。
しかしそのすき家もまもなく閉店となったので仕方なく外へ出た。
始発までは暫く時間があったのでネカフェに泊まることにした。
そこで宿守とは別れた。
12月
先の酔い潰れた出来事もあり暫く宿守とは会う気にならなかった。
しかし事件が起きた。
12月11日18時頃、宿守からLINEがくる。
面倒ながらトークルームを確認する。
だが俺はその瞬間全身が凍りつくような悪寒に襲われた。
「ごめん、今から飛び降りてタヒぬわ。今まで迷惑かけてごめんな。」
心臓の動悸が激しくなるのを感じる。
LINEを確認したのが21時、もしかしたら彼はもうこの世にいないかもしれない。
ああ、もっと早くに気付いていれば…
こんなところでタヒなれては一生モンのトラウマになる。寝覚めが悪いなんてものじゃない。
生きていることを願いメッセージを送る。
すると0時に返信が返ってきた。
俺は一先ず安堵した。
翌日、大阪で会うことになった。
彼は一昨日から寝てないらしく廃人と化していた。
勤めていたホストクラブで一悶着あったらしく辞めたとのことだった。
あんまり理不尽なことをされたので、ホストクラブのあるビルから飛び降りて経営陣を道連れにしてやるとか、なにか物騒なことを言い出したので俺は何も言えずに彼の進むままについて行った。
マルハンパチンコ店
それが彼が導き出した答えだった。
彼のなけなしの金をパチンコ台に注ぎ込み6時間ほどパチンコを打った。
前半はとある魔術の禁書目録を、後半は戦姫絶唱シンフォギアを打った。
結果、3万円勝った。
そのうちの1万円をもらった。
翌日、サイゼで会った。
数学の勉強を見てもらった。
432を仄めかされて、俺は自分の言動が彼の生タヒを分けるのではないかと怖かった。
もっともそれは彼の問題であって赤の他人である俺がどうこうしたことで変わるものではないともどこかで思っていた。
彼の財産は尽きていた。
普段奢ってもらっていたが、この日は昨日パチンコでもらったお金で払った。
帰り際、これが彼と今世で逢う最期になるのだろうかとセンチな気分になった。
もう俺がどうこう言って変わるものでもないのだろう。
どこかで諦めのようなものがあった。
それから数日間、彼にLINEを送るのを躊躇った。
返信が返ってこればそれに越したことはない。
しかし、仮に返信が返ってこなかったら、間接的に彼の432が完了したことを知ることになる。
それは耐え難い現実だった。
受験勉強に手がつかず、人が生きタヒについてひたすら考えた。
人はタヒぬとどうなるのだろうか。
長年の浪人生活に疲れていた俺は自然と黄泉の世界へと意識が寄せられた。
ある時はビルから飛び降りた彼がぐちゃぐちゃになった姿で霊安室に安置される姿が脳裏に浮かんだりして震えて現実に戻された。
彼の生タヒが分からぬまま迎えたクリスマス。
しかしそんな時、思わぬ報せが届いた。
彼は生きながらえていたらしい。
あの晩、俺と別れた後に転がり込んだ雀荘の人から誘われて他県の雀荘で働かないかと提案を受けたらしかった。
そのまま夜行バスに乗り、その県の雀荘で働くことになったらしい。
俺はことの一件が落ち着いたのを確信して深い安堵に包まれた。
「宿守劇場はいかがでしたでしょうか」
!?
あれは全て演技だったのか!?
いや…そんなはずはなかろう。
真相は彼にしか分からない。
その後、当面の生活費が足りないとのことでパチンコでもらった1万円のうちの半分を返した。
こうして事件はあるところへ落ち着いた。
1月
受験勉強は12月後半から一月前半にかけての1ヶ月でそれまで全く手をつけていなかった物理と化学の参考書を一周した。
物理は良問の風で、化学は新標準演習の参考書を使った。
俺は8浪のこの時期になるまでまともに物理と化学の参考書を一周したことがなかったのである。
これはかなりの自信に繋がった。
それが終わり次第、共通テストの過去問に手をつけた。
いけるかいけないかじゃない。
25歳にもなって予備校に親の金で入れさせてもらって大学に受からないというのがヤバいのだ。
絶対に失敗できないのである。
残りの日を必死に勉強した。
数学は標準問題精講、英語は長文の音読、世界史は過去問演習。
世界史はセンター時代だと9割安定した。
自分でも信じられない出来が続いてかなりの自信がついた。
そうして迎えた共通テスト前日。
俺は絶望していた。
この世の終わりのような顔をしていた。
それまで見えていた希望の糸はプツンと切れ、暗黒の中をだらーんと浮かんでいた。
結局その日は頭が混乱して1時間しか眠れなかった。
翌日の共通テスト本番は父親に車で送ってもらった。
「リラックスして挑みなさい。それじゃ頑張ってきな!」
「……ぁぁ」
馬鹿だ。
俺は馬鹿だ。
なんで俺は同じ失敗を繰り返してしまうのだ。
こんなことなら…こんなことなら初めから受験なんてしなければよかった……!!!
こんなに苦労して、嫌な思いして、結果得られたのがこれか!!
あはははははは、馬鹿らしい、馬鹿だ!馬鹿!!!
1日目の文系科目が終わった。
世界史は難化していた。
共通テストに変わってからセンター時代の一問一答形式は少なくされ、代わりに現代文のような読ませる問題に変わっていた。
現代文はル・コルビュジエの建築における窓についての文章で、読解に苦労した。
本当に訳がわからないのだ。
昨晩寝ていないのもあって、文章が全然頭に入ってこない。
絶望感に打ちひしがれてキャンパス内でiQOSを吸う。
「キャンパスでタバコ吸ってる受験生いる?いねぇよなぁ笑」
ツイート送信…っと
50いいねついた。
つまんね。
帰宅。
父親から今日の手応えを聞かれる。
去年もこんな感じのやり取りがあったな。
こんな気持ちになるのなら初めから受験なんてやるもんじゃなかった。
俺も親も皆んなが不幸になる。
1日目がズタボロだったので、その晩は却ってすぐに眠れた。
翌日の理系科目。
その日は自転車で向かった。
数学IAの試験監督による受験上の注意はほぼ上の空で聞き流していた。
こんな誰にでもわかることをダラダラと述べる時間、マジで時間の無駄だろ。
何度も思うが、受験上の注意で述べてることと、試験問題のレベルが天と地ほどの差がある。
受験上の注意で述べられている内容が小学生レベルだとすれば、共テの問題は大学生レベルだろう。
受験上の注意の時間を使って共テの答え教えろよこのクソハゲ教官がよ。
イライラしていた。
そして完全に油断していた。
受験番号を書き込み、それをマークした。
…はずだった。
どういうわけか、書き込んだ番号は正しくて、マークした番号が他の受験者の番号になっていた。
要するに受験の根幹となる肝心なところを間違えたのだ。
これまで9回旧センター試験、共通テストを受けてきたが、このような間違いは今回が初めてだった。
しかし、そのことに気付いたのは試験官が最後の確認を受験生にさせた後だった。
より厳格な受験体制を敷く共通テストでは、その後の訂正は一切認められない。
俺は試験官に懇願したがどうにもならないと切り捨てられた。
顔が一瞬にして青ざめた。
医学部は無理だとしても他の学部になら出せるんじゃないかと考えていたからだ。
それすらも怪しくなると俺は一体何のためにこの一年を受験に費やしたのだろうかと。
忽ち頭が真っ白になった。
後悔と共に始まった休み時間で、俺は共通テストの本部に電話をかけて確かめた。
すると確証は持てないけど、名前さえちゃんと書いていればそこは修正されるようだった。
俺は不確かな情報に惑いながらも取り敢えずそれを信じることにした。
その後の数学llBでは只管、今後の人生どうするかを考えていた。
もはや目の前の問題を解き切ることよりも、今後の人生の方が最重要課題となっていた。
もう一年仮に受験してもこの共通テストの問題を満足に解けるようになることは一生ないだろう。
何度やっても医学部に受かることはできないのなら、本当に手遅れにならないうちに進路を切り替えた方がいいのかもしれない。
公務員、教師、歯科技工士、漁師、農家、アニメーター、漫画家……どれがいいか。
昼休みになった。
人気のないキャンパスの隅に行き、iQOSを吸いながら、今朝、母親が作ってくれたお弁当を食べる。
ストレスから手を震わせてTwitterを弄っているとスマホが地面に落とした。
20cm程度だったにも拘らずスマホの画面にヒビが入った。
鬱。
昼休みが明けて、物理と化学が始まった。
物理は思いの外できた。
化学はそれに反してほとんど分からなかった。
明らかに物理と化学のレベルが違うのだ。
問題作成者は馬鹿なのかというほどにこの二つの科目の難易度の差が大きいのだ。
物理は申し訳程度に公式を知っていて、ある程度物理常識を知っていれば8割取れてしまうのに対し、化学はそのレベルの知識の詰め込みだとせいぜい4割なのだ。
それほどまでに中途半端な知識の受験生にとって難しい科目が化学なのだ。
試験が終わり、精神が虚ろになりながらゾロゾロと帰る受験生の群れを撮った。
俺の悪癖の一つである受験場の記念撮影である。
理由は特にない。
帰宅途中、コンビニでビールを買い呑んだ。
シラフじゃ家に帰れなかった。
帰宅すると、親が受験の労を労ってくれた。
申し訳なさを感じた。
その日は風呂に入って、すぐに寝た。
翌日、自己採点をした。
結果は560/900点(62%)
物理が82点、世界史が71点、化学が47点。
他が6割である。
物理が先に述べたように難易度が訳分からないことになっていた為に8割を獲得することができた。
世界史はセンター時代と違い、読ませる問題になったせいで7割程度だった。
さて、この点数では国立医は不可能だ。
俺は教育学部を考えた。
国立の教育学部なら62%だとC判定くらいだった。
俺はここに一縷の望みをかけた。
親に話すとそれがいいと応援してくれた。
当分の間、一応出願した某私立医と国公立の教育学部を目標にした。
共通テストが終わった数日後、修浪さんと電話した。
精神的に参っていた俺は修浪さんに縋るように不安を話した。
共に浪人の苦しみを知るもの同士、いつものように傷を舐め合おうとした。
だが、修浪さんはかつての修浪さんとは違っていた。
なんと数ヶ月前に浪人を辞めて就職したのだ。
なんでもいつまで経っても花が咲かない受験から足を洗って、真っ当に生きようと思ったのだとか。
前のバイト先でのギスギスとした一件があったから、見返してやろうと就職したのだとか。
“修浪さん“は文字通り“就労さん“になってしまったのだ。
俺はちょっぴりおセンチな気持ちなった。
置いていかれたような気持ちになった。
すると、就労さんは一緒に働かねぇかと提案してきた。
目前に迫った受験に希望を見出せない俺は就労さんの話を聞くうちに就職してもいいかという気持ちになった。
一月末
俺はとある私立医学部を受験した。
当初、我が家の財政的に私立医はあり得ないことになっていたが、この期に及んでは借金してでも行った方がいいということになって受けさせてもらった。
試験は何千人という人が受けていた。
それ相応の受験場を大学側が借りて大ホールでの受験となった。
この試験場から正規合格者は100人に7人しか出ないという。
英数物化の試験が終わる。
無理だ…終わった。
当初あれほど馬鹿にしていた私立医にもこのザマ…
俺はなんなんだろうな。
何で生きてるんだろう。
こんなに自分を虐めて何が楽しくて生きてるんだろうか。
帰り道、受験場の入り口でお菓子のトッポを配ってる医専予備校の回し者がいたので配布物を引ったくって、高額な受験費用のせめてもの慰めにポリポリと食べた。
「僕の8年に及ぶ医学部受験は完全に終わりました
今世で医学部を目指すことはもう二度とございません
8年間応援ありがとうございました
クソッタレな夢をありがとう」
Twitterにてツイート
1800いいね
くだらない。
2月
コンサートを聴きに行く。
王道を征く運命と新世界だ。
クラシックは良い。
鑑賞中、感極まって泣いてしまった。
国公立は前期後期共に某国立大学の教育学部に出願した。
色々考えた結果、医学部は今世ではどう足掻いても辿り着けない異世界なのだと結論が出たのだ。
それでその次に自分が定年まで働くのならどんな職がいいかと考えたところ、学校の先生がいいなと思って出願した。
高校時代は学校の先生なんかタヒんでもなりたくないと思っていたのに、今だとなりたいと思うのだから不思議だ。
まぁある意味8浪というのはタヒんでるようなものだから、なりたくなったというのも筋が通っているといえばそうなるのだろうか。
2月25日
国立大教育学部受験日。
試験科目は物理一科目のみ。
勝機は五分五分だった。
共テは数学のミスがなければちょうどC判定だった。
試験場には還暦を迎えたであろうおじさんも受けに来ていた。
さて、試験が始まり問題用紙をめくる。
パラパラと全体に目を通す。
その時、直感で落ちたことを確信した。
分からない。
何も分からない。
俺はこれまでの人生で何をしてきたんだろうか。
独りよがりな学歴思想に没頭してたどり着いた先がこれか……。
俺は本当にどうしようもないゴミだな。
解答用紙には分からないなりにデタラメにそれらしい文字を書き込んでいった。
当然全くの根拠のないデタラメのため解答とは擦りすらしていないだろう。
帰り道、キャンパスを記念撮影した。
この地には二度と訪れることはないだろう。
帰宅すると父親が今日の試験の出来について聞いてきた。
「ぁぁ…まぁ、五分五分かな…」
「そっかぁ、五分五分かぁ、、まぁお疲れ様、もしかしたら受かってるかもしれないけど、念のため後期の勉強もしておこうな」
「…ぁぁ」
俺はどうしようもない馬鹿息子だ。
中村家のアスペの息子とは私のことです。本当ごめんなさい。
小さい頃から障害者のことを馬鹿にしていたが、これは同族嫌悪だったんだなー。
障がい者に優しいアイツは障がい者とは縁遠い容姿と人間性を兼ね備えていたからこの説はかなりの確率で当たっているといって間違いない。
なんだか悲しくなってきちゃった。
3月
ネッ友の比企ヶ谷くんが京都への修学旅行に行ったときの写真が送られてくる。
比企ヶ谷くんは俺ガイルが好きな高校2年生なのだ。自信を比企谷八幡と重ね合わせて京都の各所を練り歩いている最中なのだ。
ふぅ、高校2年生は気楽なもんよ。
まぁ来年はいよいよお前もこちら側の人間だ。
楽しみにしてろよな。
3月某日
国立試験前期に落ちていた。
ついでに言うと私立医学部も落ちていた。
もう後がなくなった。
いよいよ国立後期しか託すものがなくなった。
3月12日
国立大の後期試験の日、俺は電車に乗り会場へ向かった。
今年の総決算となるその受験に対する自信は五分五分だった。
二次試験は小論文のみで、共テの判定はバンザイシステムでB判定、選太君でD判定。
本当に五分五分であった。
ただ今年は例年に比べて出願者数が跳ね上がり不利な戦いだった。
去年なら小論文で4割取れれば合格だったところが、今年は8割とらないと厳しいようだった。
そして俺は試験の2週間前から予備校の小論文講座をとり、マンツーマンで小論文の書き方を一から教えてもらっていた。
これで予備校に課金するのも最後か……。
書き方は大体押さえたし、あとは相性の良い文章が出てきて、ミスなく解ければ合格可能性は十分にあった。
さて、問題用紙が配られて試験が始まった。
恐る恐る問題用紙をめくる。
一題目は難解な哲学の文章だった。
終わった…。
しかしここで折れてはいけない。
なんとしてもベストを尽くすのだ。
俺は練習した通りに大方の下書きを殴り書きして清書した。
試験時間の半分を使って一題目を書き終えた。
しかし直後に心臓が止まった。
大問2の解答用紙に大問1の解答を書いていたのだ。
どちらも600字詰めの原稿用紙だったのでぱっと見、見分けが付かなかった。
急いで大問1の原稿用紙に書き写す。
その後、大問2の解答を消しゴムで消す。
この作業で10分ロスした。
急いで大問2の文章を読む。
こっちはそれほど難解な文章ではなかったが、とにかく時間が押している。
焦りながらできるだけ早く問題を読み、下書きを練り、清書していく。
試験時間残り10分から時間が2倍に加速する。
世界の時間は悪魔的にも加速した!!
待って…待ってくれ……!!
このままじゃ終われないんだ…!!
時間は無慈悲にも過ぎ去っていった。
「試験時間は終わりです。ペンと消しゴムを置いてください。これ以降、ペンと消しゴムを持っている者は、不正と見做します。」
解答用紙には空白が残っていた。
最後の600字詰めの問題が450字で終わっていたのだ。
小論文の試験の暗黙の了解として、600字以内で解答することを求められれば、それは少なくとも8割以上、出来れば9割以上マスを埋めるべきだったのだ。
600字の8割だと480字。俺はその文字数に30字足りなかった。
下書きは出来ていた。
あとはそれを機械の如く写していくだけだったのに……。
俺は悲しくなった。
この世の理不尽に耐えられず、今にも発狂しそうになった。
運動部と受験が生んだ現代社会のモンスター、それが俺こと中村和馬なのだった。
放心状態でキャンパスを出た。
近くの川を眺めながら煙草を吸う。
はー。
何も考えられない。
かれこれ2時間くらい川を見つめていたと思う。
次に近くの神社に参詣してこの世の理不尽について邪神に訴えた。
そこでも何時間か居座った。
辺りはすっかり暗くなった。
のっそりと神社のベンチから立ち上がり帰路についた。
浪人は一人暗い夜道をこの世の全てを憎んだような顔で歩いていた。
不安、後悔、怒り、孤独、無力感、哀れ、不憫、惨め、申し訳ない。
浪人の心は闇に覆われていた
なぜ俺はあの時この選択をしてしまったのだろう。
なぜ俺は自分を信じてこの道を進んでしまったのだろう。
周りは確かに俺を止めていたはずだ。
その制止を振り切ってまで進んだ結果は凄惨たるものだった。
もしもあの時に戻れるなら。
そう思っても時間は絶えず進み続ける。
…どうしてこうなったんだろう。
俺は己の半生を振り返り、小説に書き記すことにした。
そうだな。
小説のタイトルは『馬鹿な浪人の末路』にするか。
願わくばこのような哀しい思いをする人間が この世界から1人でも居なくなることを。。
筆が乗ったので昨日に引き続き投稿
そして時は小説の始まりへ。
第一部完結です。
次回からは現代編になるので投稿の頻度は低くなります。