婚約破棄騒動事件7
重力を感じる。
宙に体を投げ出された瞬間というのは一瞬でも無重力を体感するものだと思っていたが、恐らくは浮く以上に遠心力で飛ばされている感覚が強いからだろう。
――冷静に分析してる場合じゃなくて!
どうやって動けば無事に着地できるのかとか、もしかしたら階段から落とされることもあるかもしれないとか、頭の中だけは光の速さで思考が流れていくのに、肝心の体が動かせない。
せめて何が足に当たったのかを見られたらと必死に頭を動かす。その拍子に体全体が上向きに変わる。
階段の上には誰もおらず、糸が仕掛けられていたのでもなかった。
待て、と細かく見える箇所すべてに目を向けつつ、一瞬前のことを思い出す。
つまづいたから、足に引っ掛かったからではない。
足が、動かなかった。
縫い留められたかのように、一歩を踏み出せられなかった。
その場合ではないと自分で焦っておきながらも分析している間にもアレイヤは階段から落下し続けている。
助けを求めるよりも原因を探していた。
視界がいよいよ階段の段差を捉えてから声を出さないとと意識を切り替える。
「「アレイヤ嬢!」」
二人分の重なった声が名前を叫んでいる。
「おうわああああああああっ!」
名前を呼ばれてから、それまでスローモーションで世界が見えていたことが分かって途端に恐怖に襲われた。
可愛げもなければ淑女らしくもない悲鳴を出してしまっているが、気にする余裕はもうない。
「彼の者を運ぶ風となれ!」
クロードが聞いたことのない魔法の詠唱でアレイヤの体が再び上がる。
地面直撃までの時間が稼がれた間にルーフェンがアレイヤの真下に駆けた。
「……っと!」
とさっと受け止められて事なきを得た。
いくら絨毯が敷き詰められているといっても直撃すればダメージは免れないが、それでも騎士に横抱き状態で受け止められるのもダメージはある。
主にメンタルに。
「ご無事ですか、お嬢様?」
馬車でのことを思い出してもそうだが、ルーフェンの騎士ではなく王子様ムーブにはときめきを禁じ得ない。
前世も今世も一般庶民だったアレイヤにとって、お嬢様やお姫様扱いには弱い。かと言って恋愛に発展したり推しになったりはしないのだけれど。
「アレイヤ嬢、大丈夫ですか?」
その証拠に、平気ですと言おうとしたらクロードの心配する声に遮られた。
いつ聞いても褪せない美声に耳が熱くなった。
ひゃい……と顔を覆いながら情けない声で返事をする。
どうしてもその声には抗えない。
「ア……お嬢様?」
「だっ、大丈夫です! 下ろしてください! もう大丈夫ですので!」
お姫様抱っこ状態で暴れるアレイヤにバランスを取ることで安全性を保っていたルーフェンは一度クロードに目をやった。クロードは目を丸くしていたが、ルーフェンからの視線に気付くと「やってしまった」とばかりに口を手で覆った。
訝しみながらもそっとアレイヤを下ろす。
「申し訳ありません。最後まで護衛すると決めたにも関わらず貴女を危険に晒してしまいました……」
騎士としてあり得ない失態だと深く頭を下げるルーフェンは、そのまま跪く。
まさか階段から投げ出される形で落とされるなんて誰も想像しなかったのだから無理もないし、きちんと階段に異常なしであることを確認した上で別行動したのだからルーフェンの非は一つとしてない。
「ルーフェン様は悪くありません。それに、この展開は私が望んでいたことでもあります」
もう一度階段を見上げる。
アレイヤの悲鳴を聞きつけて二階の部屋からゼリニカとその侍女たちが顔を見せている。少し離れた位置には、さっきすれ違った女子生徒がいた。あの女子生徒ならきっと何か知っているはずだと視線を固定した。
犯人かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
それでもこれまでの事件で残っていた違和感の正体には近付けるはずだと信じる。
斬髪事件の時の首の傷。
魔力暴走事件の時のプリズムの入手経路。
毒入りスイーツの時の合成植物が生まれた経緯。
トーマスの件は何も関係はなかったが、今回のカリオの行動。
もしかしたら、繋がっているのかもしれない。
+++
「今からでもあの教師と変わった方がいいのではないですか? 騎士や衛兵を呼んで警備を増やして……」
「そんなことをしたら、犯人に警戒されてしまうではないですか。大丈夫です。ルーフェン様はここにいてください」
「しかし」
「ここにいてください」
あまり他人を近付けたくないのだと、アレイヤは訴える。
これから起きるだろうことを思えば、アレイヤの側には騎士であるルーフェンだけいることが適任だった。さらに会場の中央に陣取るよりも壁際に並んで、後方への配慮もない方が楽なのだ。
大講堂内へ入る前の打ち合わせだと言って、二人は一度外に出ていた。
クロードは試験結果の紙の束を三階の教職員専用控え室へと持って行き、その際にアレイヤが見ていた女子生徒を連れて行っていた。そんな役目を自ら請け負ってくれたクロードに対して「今からアレイヤの相手を代わってほしい」なんて本気で言えるとはルーフェンも思っていない。
「……分かりました。今日今宵までは貴女を守る騎士です。お言葉に従います」
「ああ、あと」
胸に手を当て頭を下げるルーフェンの顔を覗き込む。
「アレイヤと、さっき呼んでくださってましたよね? どうぞ、気にせずそう呼んでください。お嬢様はちょっと……恥ずかしいですし」
せっかくこうして一緒に夜会に来ているわけですし、と言って、重々しく階段から落ちたことを責める騎士の顔を上げさせた。
「騎士様としてのルーフェン様を頼りにしていますが、守られるだけの私でないことはもうご存じのはずです」
やられると分かっているのなら、犯人を見つけなければ。
今回はやっと尻尾を出したのだから、先の先だけでも掴まなければ。
同時進行でカリオの思惑を外さないといけない。
大丈夫。フラグは何一つとして立てていない。
前世では立派なオタクだったアレイヤである。頭の足りない貴族男が婚約破棄をして破綻する小説もコミカライズされたものも読み込んでいた。娯楽が少ない現世では前世の創作物を思い出すことしか楽しみを増やせない今、記憶は鮮明と言っても間違いではない。
絡みがあるからイベントが発生して成立してしまうのであり、絡みを作らなければイベントが発生したところで白けるだけなのである。
「やあ、アレイヤ嬢。素敵なドレスだね。よく似合っているよ」
打ち合わせも名前呼びのことも話し終え、あとは会場に入るだけだとなった頃に多くの従者を連れたレオニールが現れた。
白を基調とした煌びやかな衣装に身を包んだ第二王子に道を譲る位置に移動して頭を下げる。
「ありがとうございます、レオニール殿下。殿下もさすがの装いですね。なんというかもう……ありがとうございます」
「なんで二回礼を言ったの?」
純粋に疑問に思ったレオニールが首を傾げているが、眼福だと率直に声に出すのは憚られる。
なんせ、半歩後ろに控えているのはノーマン・ドルトロッソだったのだから。
二人が着飾った姿で並べば、ああこれが我が国の将来のイメージなのかもしれないと思えて胸が苦しい。
未来の画からすれば今は過去の、若かりし頃の二人というタイトルのスチルになり得るものだ。
ノーマンが宰相になるかどうかは分からないし、三男という立場からすれば現実味のない話ではあるけれど。
「ほら、ノーマンも遠慮せずアレイヤ嬢を褒めるといい」
背を叩いて前に押し出そうとする楽しそうな顔のレオニールに逆らえないノーマンが前に出た。
星空をバックに視界の中心に躍り出たノーマンに気絶しそうになった。
「……こんばんは、アレイヤ嬢」
「ノーマン様、こんばんは。お会いできて光栄です」
ドレスの裾を摘まんで礼をする間にもアレイヤの顔は徐々に赤くなっている。その様を見ながら笑うのを必死に堪えるレオニールに、ルーフェンは珍しいと目を瞠った。
「レオニール殿下も仰いましたが、今夜のドレスもよくお似合いです。……後でダンスに誘っても?」
「えっ……えーと」
ダンスを踊る気がまったくなかったアレイヤにとって、寝耳に水なお誘いでしかない。
ちらりとルーフェンを見れば、「踊られないのですか?」の目で見返された。
味方がいない、と察して、小さくこくんと頷いて返事をした。
騎士もダンスは踊れるのかとか、ダンスは授業で何度か行われたが、遠巻きにされていたアレイヤは誰とも組んで踊ったことがない。やり方だけはしっかりと目に焼き付けるほど見たが、実践となればまた違うのだろう。
――不安しかない。
ここにきて新しく一番厄介かもしれない問題が浮上したことに冷や汗が流れた。
「それから……」
一歩、また一歩と前に出るノーマンが、顔を寄せて来る。
足を引きそうになったが、ノーマンはクロードとは違ってその声に特別な想いはない。揶揄うような性格でないことも把握しているので意識して足を止めた。
「トランシ―伯爵家について少し調べました。どうやら五年ほど前から領地の経営状況が良くないようです。現状、ロベルタ家との縁談を破棄すると困るのはカリオ・トランシ―側。そしてトランシ―家はカリオ氏の行動を知りません。貴女に言い寄っているのも彼の独断で間違いありません」
潜められた内容に勢いをつけてノーマンと顔を合わせる。肌が触れ合いそうな距離にも関わらず、アレイヤの目は驚きに満ちていた。
「調べたのですか?」
「個人的に気になったもので」
柔らかな笑顔を浮かべて距離を取ったノーマンに、アレイヤは好みの顔ということを差し置いてじっと見つめる。
カリオ・トランシ―伯爵子息は家の資金繰りが悪いことを知っている。
ララ・ロベルタ伯爵令嬢と婚約することは資金繰りの解決にも一役買うことを知っていたはずで、それなのにララ――ロベルタ家との婚約を破棄してアレイヤと婚約を望む理由とは何なのか。
アレイヤは――ノルマンド家は子爵位だ。伯爵位とは比べる間もない下位貴族。
さらに最近入れられた養子であることは有名な話だ。
光属性の魔法を使えるからと言って国から褒章を得ているわけでもない。
「カリオ・トランシ―の件、これで解決できそうですか?」
ノーマンの言葉に、アレイヤは「やってみます」とだけ返した。本当に今ある情報だけでカリオの違和感を解決できるかどうかは分からない。分からないが、恐らく難しい問題ではないだろう。
カリオ個人の問題だけならば。
腕を組みながら唇に右手の人差し指を当てて考える。
ゼリニカが協力してくれているから、これから夜会で起こるだろうイベントは滞りなく終えられると分かっているが、同時進行で別の事件にも巻き込まれている最中なので油断できない。
きちんと対処しておかなければ、間違いなく命を狙われる。
髪でも目でも味覚でもなく、命そのものを。
「アレイヤ嬢、全然関係ない話なんだけどいいかな?」
思考の海に沈みかけるアレイヤを浮き上がらせたレオニールに、「なんでしょう?」と顔を上げた。組んでいた腕も解く。
「うん。今ちらっと見えたのだけど、君の髪を飾っているリボンって騎士団の礼装用じゃないかと気になってね。見てみればルーフェンのリボンも騎士団のものと違っているし、もしかして君たち――交換した?」
仲良いね、と含みしかない笑顔にアレイヤは実は、とネクタイについて話そうと口を開いたが、それよりもノーマンが放った強い気配に声が出せなかった。
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