梅花竜娘譚
梅花竜娘譚
「猫飛、空を飛びたいわ」
豪華絢爛な城の中、鮮やかに彩られた中でひときわ輝く美しい姫。艶やかな黒髪に白梅の色をした目を持つこの|花園を治める竜族の花。彼女は私、猫飛の主人、花竜様でございます。
ここは雪月風花竜空。竜が住処としている天空の一部でございます。
竜とは、古来より今は人間の棲む大地大海に棲息し、自然の力と共に生きてきた一族です。ただ、人間が増えすぎ、人間の生活の影響で自然が汚染され、竜たちは地上では棲めなくなりました。そこでまだ汚染されていない天空へと昇り、天空の一部を隔離して、竜の楽園、雪月風花竜空を作ったと言われます。
雪月風花竜空は竜の長四人がそれぞれの園を統治し、竜たちが住みよく過ごせるよう、力を行使しています。竜の力は自然を司るもの。人間のせいで上手く発揮されなくなりましたが、自然から美しいものがなくなることがないよう、長たちはこの空と外の大地に力を送っています。
雪園、月園、風園、花園に分かれた空の中で、幼い命が花開きました。それが花竜様です。
竜は元々蛇のような細長い体に牛の顔を持ち、鹿の角を持ち、立派な鬣を持つものです。ですが、力の消費が少ないということで、人に近い姿を取ります。花竜様は竜としてのお姿も、人としてのお姿も麗しくあせられました。今は人間の姿をしておられますが、艶やかな黒髪は花園に留まらず、竜空中の女竜誰もが羨むほど。白梅の眼差しは微笑まれただけで卒倒する者が現れるほどに美しく、竜の姿でも、紅梅の色に色づいた肢体と菖蒲の色をした鬣が愛らしさを秀麗に魅せています。
自然を司る力も花竜様は目を見張るほどお持ちで、時にはそこにいるだけで花たちがそのかんばせを見にちらほらと咲くほどです。長様も「神の愛し子ではないか」と称しました。
私、猫飛はそんな花竜様の世話係という身に余る栄誉とも言えよう任を請け負っております。
「猫飛!」
「いけません、姫様。外に出られるのでしたら、まず長様にご報告を」
「ちょっと散歩をするだけよ。猫飛と一緒なら楽しいわ」
……参りました。どうもこの猫飛、花竜様に気に入られてしまっているようで……花竜様のわがままには逆らえないのです。普段は麗しい才女の面差しをした花竜様が、私にだけ、誰にも見せない悪戯な笑みを向けて、甘えてくるのです。これにどうして抗えるものでしょうか。
私も甘いのですが、花竜様は長に匹敵する自然性の持ち主。普段は自然に力を流すお役目で大変なのです。それに花竜様がいらっしゃなければ、私などこの花園にすらいられない身。それらを思えば、私が花竜様のわがままを許さない理由がないのです。
私は花竜様のように優れた容姿を持ってはいません。鬣は角に絡まり、それが猫のように見えるから「猫」、そして普通の竜では考えられないほど長い時間飛び続けることができるため「飛」と名付けられたはぐれ竜なのです。
「少しだけですよ?」
「やった!」
花竜様が子どもらしくはしゃぐお姿は、なかなか見られるものではありません。私はこの笑顔を守るためならば、なんでも致しましょう。
今日は快晴。竜空は絶好のお散歩日和です。花園は他の園に比べると、朗らかな天気のことが多く、過ごしやすいです。それは花園が季節で言うところの春を司る場所だからなのだそうで、花園に棲む竜たちは大抵、他の園の天気は過ごしにくいと感じると聞きました。
私ははぐれ竜だからなのかはわかりかねますが、天候に関して不便だと感じることはありません。いつでもどこでも、どのような天候の中でも長く飛べるので「飛」という名前なのです。
窓から身を乗り出せば、ふわりと柔らかな花の香りがします。少し瑞々しさを伴った花の香りは、花園から風園への「節渡しの儀」が滞りなく行われた証。節渡しをすることで、地上の季節は春から夏へと移り変わると言われております。
花園の天候は大きくは変わりませんが、夏への節渡しを終えると花は瑞々しさを持ち、少し水やりを怠るくらいがちょうどよくなるのです。花園というからには拘りに拘り抜かれた花たちが城の庭園に咲くのですが、節渡しの儀が終わってからしばらくは、庭園を管理する庭師たちは休暇を得ます。
私はその庭園を眺め、落ちていきながら、姿を変えました。銀朱の体に紅の鬣。鬣は体を半分以上覆っていて、鱗は見えません。鹿角も鬣がもさもさと覆い、ああ、これはやはり猫だ、と私は改めて思いました。
窓に映る私の顔は手入れのされていない鬣の中から、深い藍の瞳が覗きます。決して美しいとは言えません。
「ふふ、猫飛は今日ももふもふでかわいいね」
それも花竜様に言われれば、誇らしく思えてきます。窓に身を寄せた私に飛び乗り、花竜様は私の鬣をその小さな手で鋤かしました。美しい手から伝わる体温はとても心地よく、思わずうっとりしてしまいそうです。
「では、姫様。しっかり掴まっていてくださいね」
「ええ」
そうして私は蒼穹に飛び出しました。
「節渡しの儀、今回は姫様も参加されたとお聞きしました」
「ええ、とても勉強になったわ。ただ、わたくしたちが恙無く節渡しを終えても、地上の気候は荒れていて、節渡しの儀の効果も微々たるものだというの。どうしたらいいのかしら……」
「それでお悩みでらしたのですね」
私が苦笑いを交えて返すと、花竜様は狼狽えたような驚きの声を上げます。
「猫飛、気づいていたの?」
「ふふ、私がいつから姫様の世話係をしていると思いまして?」
はぐれ竜──どこの馬の骨とも知れぬ私の正確な年齢はわかりませんし、そもそも竜とは年齢という概念に囚われないものですが、姫様と同じ時期に生まれたのだろうと言われています。それから何度、節渡しの儀が行われたことでしょう。私は花竜様がようやくお話しになれるようになった頃に発見され、花竜様が気にいってくださったため、幼少より、世話係をしているのです。
花竜様が病めるときも、悩めるときも、ずっとお側に控えておりました。花竜様の全てとはいかずとも、何に悩み、何に心を痛めてらしているかは察せられるくらいであると自負しております。
「この猫飛、お力になれずとも、姫様の心の支えでありたいのです。せっかく二人きりなのですから、なんでもお話しくださいませ」
「それなら猫飛、わたくしのことを姫様と呼ぶのはやめて。敬語もなしよ。これではお城の中にいるときと同じだわ」
「……花竜様。敬語だけはご勘弁ください」
おそらく人の姿をしていたら、今の私はさぞや苦い顔をしていたことでしょう。けれど、こうして線を引いておかないと、私は忘れてしまうのです。私は花竜様のお目にたまたま留まっただけで、本来ならどの竜の一族の系統かもわからぬ下賎の身だということを。
花竜様のお側にいられるのも、花竜様だけでなく、城に棲む花の一族たちのご厚意故なのです。
花竜様はまだそういう難しい事情を教えられてはいないのでしょう。それで寂しい思いをなさってしまうのをどうにかしたいとは思いますが、いかんせん、私の生まれは変えられませんものですから。
「わたくしは、猫飛といつまでも仲良しでいたいのです……けれど、そうね、誰かに見られて怒られるのは猫飛だわ。おかしな話よね。……そういう違和感をわたくしは変えていきたいの」
私にとっては当然のことも、花竜様にとっては違和感で、頭痛の種になるようです。
「ままならないものですね」
「ええ。それに、わたくしはいずれ、お母様の跡を継いで、老花にならなければならないわ。だから、変えていきたい」
竜の長たちは「老」と呼ばれます。現在、|花園を治める花の一族の長は花竜様のお母様です。
老花は代々女竜が継ぐものとされています。花の一族は女竜が多く生まれるからです。また、花の一族の力も女竜の方が強いとされています。自然性の力を強く操れる竜が長となるのです。花竜様の名が挙がるのは当然と言えるでしょう。
「猫飛、何もできなくてもいいわ。ずっとわたくしの傍にいてくれる?」
「はい、もちろんです」
「ふふ、ありがとう」
ああ、きっと花竜様は今、笑っていらっしゃる。けれど、背に乗せているから、その花のかんばせを見ることは叶いません。
けれど、この笑顔がずっと絶えないように、花竜様のお側にいようと私は思うのです。
「おや、花竜様、あそこをご覧ください。遅咲きの桜です」
「まあ、綺麗……猫飛、降りてくれる?」
私が桜の側に降下すると、花竜様が近づくのに応じて、周りの花たちもその顔を見せ、風に揺られ始めました。
息を飲むような美しさ。白梅の目に微かに桜の色が映って、花の竜の名に相応しい、荘厳で純潔な美しさが窺えました。
「みんな、猫飛のことも歓迎しているわよ。こちらにいらっしゃい」
私がおずおずと近づくと、花竜様は私を抱きしめました。私は何が起こったのかわからず、しばらく固まっておりました。
「猫飛、大好きよ……大好き」
「花竜様……?」
「しばらく、こうさせて」
命じられれば、私は動けません。しばらく人の姿で私を抱きしめていた花竜様ですが、足を竜の尾に変え、私の足に絡めてきます。そのまま、私の瞼に口づけて、徐々に徐々に、花竜様は上昇していきました。
花竜様は肢体を上手に私に絡めます。抱きしめることの延長なのでしょう。ただ、その締め付けがだんだんときつくなっていき、私の気は遠退いていきます。
でも私は苦しいとは言いませんでした。
花竜様に抱きしめられて死ぬなら、それは本望だからです。
結局、意識を閉ざし、目覚めると医務室にいました。
寝ていたことで崩れていた衣服を整えるとき、私は肌に紅梅の色が咲いていることに気づきます。
少し暑く感じるのは、夏に節渡しが行われたからでしょう、きっと。そう思い、私はその紅梅の色を、服の下に隠しました。