13話 黒女
「こんばんは」
淡々とした小さな声だった。混乱していた俺の耳にも不思議と良く聞こえた。
自分の情けなさに泣き叫びながら廃ホテルを逃げ出した俺は、少しでも遠ざかるように無我夢中で走っていた。
心臓はバクバクと破裂しそうなくらいだった。
限界が来てもう動けなくなり、倒れるように座り込んだ時だった。声をかけられた。
声を・・・かけられてしまった。
淡々とした小さな声だったが、不思議と聞き逃がせない特徴のある美しい声だった。
声のする方を見ると・・・黒い服を着たおぞましい気配を纏った女がいた。
黒いのは服だけじゃない、腰まで伸びている長い髪も目も靴も装飾品も手にした傘も全てが不吉な黒色をしていた。
側に置いてあるスーツケースの色さえも黒だった。
それとは対象的に、厚着した服の隙間からチラリと見える首筋の色は白かった。日の光に全く当たっていない病的な白さと言っても良いかもしれない。
「こんばんは」
何も答えない俺に対しておぞましい黒い女はもう一度声をかけてきた。
先ほどと全く同じ口調だった。
「あ、ああ、こんばんは・・・」
「大変でしたね。これからもっと大変になりますが・・・」
女は丁寧な所作でこちらを見ながら慇懃に語りかけてきた。
よく見ると纏っている黒い服の輪郭がぼやけていた。
服というよりはまるで闇そのものを纏っているような・・・そして女の目を見た瞬間にゾッとした。
こちらを見る目には女の個人的な興味や関心といったものは全く感じられなかった。
ただ・・・これから処分される予定の家畜を見るような憐れみを含んだような目で俺を見ていた。
「どういう・・・ことかな?」
身体だけでなく声も震えていたと思う。
「私は吸血鬼退治の専門家です。あなたが遭遇した吸血鬼を処分するために私はここに来ました・・・その首筋噛まれましたね」
呆然として返事のできない俺をよそに女は淡々と語り続けていた。
「でも大丈夫です。人間が吸血鬼に噛まれて手遅れになるまでには時間がかかります。大抵の人間は一週間ですね。それまではまだかろうじて人間ですよ」
「あなたを噛んだ吸血鬼の本体を一週間以内に滅ぼせばあなたは化け物にならずに済みます。とてもとても・・・難しいですけどね」
決められた台詞を話すかのように語る言葉にはなんの熱も感じられず、女は淡々と俺にそう語った。
女の目は相変わらず処分される予定の家畜を見るような憐れみを含んだ目で俺を見ていた。
・・・・・・・・・・
「期限は一週間です。一週間以内にアナタを噛んだ吸血鬼を倒せばもとに戻れるかもしれません」
女は続けてそう言った。相変わらず処分される予定の家畜を見るような目だった。
「あんた・・・俺たちがアイツと戦っていたのを見てたのか?」
「はい、全てを見ていたわけではありませんが、アイツを処分する準備をしながら観察させて頂きました。おかげでビルに侵入するのが凄く楽でしたしアイツのこともよくわかりました。ありがとうございます」
女は丁寧な仕草でまるで本当に感謝をしているかのように深々とお辞儀をしてそう言った。
「吸血鬼退治の専門家なんだよな?」
「はい、退治の専門家です。誤解して欲しくないのですが退治の専門家ですので誰かを助けることは仕事のうちに入っていません。それは別の人間の仕事ですね」
丁寧な受け答えだった。
何度も聞かれたことを決められた答弁で返すような・・・感情を感じない返事だった。
無性にやるせなかった。
俺と浩平はあの吸血鬼にとっては単なる暇つぶしの玩具兼エサだった。
この黒いおぞましい女にとってはたまたま都合よく手に入った囮だった。
俺達の必死に準備した時間は・・・死ぬ覚悟を決めてあの吸血鬼に立ち向かったのはなんだったんだろう。
浩平の最期の顔が目から離れなかった。
浩平の最期の声が俺の頭の中に響いていた。
弱い馬鹿な俺が悪いとはいえ到底許せることではなかった。
「お互いに時間もありませんし単刀直入に言いますね。ご提案なのですが、アイツを処分するのに協力してくれませんか?アナタがいると色々とやりやすいんです」
「どういうことだ?見ていたならわかるだろ・・・俺は素人だぞ」
俺は女から感じるおぞましい気配に恐怖を感じていた。それと同時に勝手に囮にされたことに怒りを感じながらもそう答えた。
「アイツの特性ですがエモノをすぐに食べずに遊びますよね。しばらく見ていましたがエモノを甚振ることが愉しくて仕方ないといった感じでした。アナタがアイツに戦いを挑んでくれたら・・・きっとアイツは飽きるまで夢中になって愉しむと思うんです。私はその間にあいつを処分する準備をします。既に半分以上は仕込んでますし、あとは仕上げだけなので直ぐですよ。きっとうまくいきます」
アイツに負けず劣らず性格の悪そうな・・・俺たちを勝手に囮にした上に、一切助けずに浩平を見殺しにしたおぞましい黒い女は淡々とそんなことを言った。
「仇・・・取りたいでしょう?あと、家族のことも心配ですよね。最近少し疎遠なようですが大切にしているあなたの妹のリサさん、あの吸血鬼は喜んで血を吸うでしょうね。その事態はお互いに避けたいでしょう?」
本当に性格が悪い。俺のことを下調べした上で話を持ちかけてきている。多分、浩平のことも調査済みだろう。俺じゃなくて浩平が生きていたら同じ話を浩平にしたに違いない・・・。
「吸血鬼は能力の一つで血を吸った相手のことがわかるんです。吸った量にもよりますがその人がどんな人間かはまずわかります。家族がいるかどうかも当然のごとくわかるでしょうね」
返事をしない俺に対しトドメを刺すように女はそう言った。
この女のことを決して信用はしない。
ただ、あの吸血鬼を始末できるなら・・・このおぞましい気配をはなつ性格の最悪な黒い女とでも本物の悪魔とでも手を組む。
浩平の最期の顔と声を思い出しながら・・・俺はそう決断した。




