明日の活力の源はこの肴、この一杯
初夏あたりのイメージです。
主人公はアラフォー男の独身貴族である。
名前はまだない!
カァン、カァン、カァン、カァン、カァン……
俺の行く手を黄色と黒色の縞模様の遮断機が無情にも塞ぐ。
「ちっ!」
もう少し早く来れば、もう少し電車が遅ければと思って、つい舌打ちが出た。
踏切でのこんな出来事は日常茶飯事だし、僅かに数分のことでしかないのだが……仕事も終わり疲れた体は、この程度の些細なことでもイラつかせてしまうほど、精神を蝕んでいたようだ。
それに……
俺は手に持つビニール袋の中の数本の缶に目をやる。
早く帰ってこのビールをグイッとやりたい。
その瞬間、俺は部屋でビールを手に持つ自分を想像してしまった。
カシャッ!シュワワワァ〜
その音と光景が俺の頭によぎったせいか、無意識に踏切の赤いランプが左右交互に点滅するのを恨みがましく睨み付けた。電車が早く通過しないかとイライラする。踏切の点滅する赤い光が余計に俺を逆なでる。
俺は早く自分の部屋でゆっくりまったり肴を摘まみながら飲みたいんだよ!
やがてカァン、カァンとなる踏切の警報音を遮って……
プァ〜ン
と電車が遠くからやってくる警笛音が聞こえてくる。
やっと来たか。
ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン……
俺の目の前を通過していく車両。だがいつもよりゆっくりに感じる。
しまった!鈍行だ!!
ゴォンゴォンゴォンゴォン……
カンカンカンカンカンカン……
電車のゆっくり走る鈍い走行音と、一段と甲高く聞こえる踏み切りの警報音。またもや俺の神経を逆なでる出来事が。早く行け!
おっと熱くなり過ぎた。
いかんいかん。
クールになれ。
Be cool!
この程度のことでいちいちイラついても仕方あるまい。落ち着け俺。家まではあと少しじゃないか。どうやら今の世知辛いご時世が、俺から心の余裕を奪っていたようだ。
ジリジリと心を蝕む閉塞感の蔓延する今こそ、ドォーンと構えて泰然自若としていないとな。
俺が心の内でそんな葛藤をしている間に、ドップラー効果を残響に電車が通り過ぎて行った。間をおいてゆっくりと遮断機が上がっていく。
タッタッタッタッ……
俺は踏み切りを渡り家路へと再び進める足は自然と速まった。落ち着いたと思っていたが、はやる気持ちの余韻がまだ残っていたようだ。
だがそれもいいだろう。
こういった気持ちの昂りも、よく冷えたビールと美味い肴を味わう時のいいスパイスだ。
そんなことを取り留めもなく考えていると、俄かに……
ごぉぉぉん、ごぉぉぉぉん、ごぉぉぉぉぉん……
暮なずむ街を包む様に、山の上の寺から鐘を打つ音が響いてくる。どこかもの悲しくもあり、郷愁を誘う様な寂しさもあり、ふと俺は足を止めた。
その低く広がる音は不思議と俺の気持ちを沈めてくれる。まだ僅かに燻っていた苛立ちも嘘のように消えていく。
ふと寺のある山の方に目を向ければ、真っ赤に燃えた夕陽が逆光で黒く見える山の尾根をまるで山火事のように朱に染め上げていた。
なんて美しいんだ。
いつも見慣れているはずの町の中にある小さな裏山だ。だが、踏み切り如きで一喜一憂する、小さな俺に比べれば遥かに雄大な自然だ。言葉もなくし、少し感傷的な気分に浸る。
そんな自然の一部であるカラスの
カァ〜カァ〜
カァ〜カァ〜
と鳴き声が聞こえてきた。
ヤツらも家路を急いでいるのかと俺は苦笑いした。
さあ俺も帰ろう!
ノスタルジックな気持ちを引っ提げて、今度はゆっくりとした歩みで家路につく。
ぽよんぽよん♪
ん?
俺の前方から何やら淫靡な雰囲気が漂ってくる。
こちら側に歩いて来る女が一人。
近所の夭い女だ。名前は知らない。
美人だ。愛想がよいので挨拶くらいはする。
ユッサユッサ……
そしてスタイルも抜群だ。
だんだんと近づいてくれば、その素晴らしい双丘が否が応でも男の本能を刺激する。
くっ!ダメだとは分かっているんだ。
「こんばんは―――クスッ」
「こ、こんばんは……」
透き通った綺麗な声だ。笑顔を絶やさぬ魅力的な顔。彼女の明るい挨拶に後ろめたさも相まって、俺は年甲斐もなくどぎまぎしてしまった。
今の笑い……どうやら俺の視線が、ついついその大きく形のよい彼女の胸に吸い寄せられていたことがバレていたようだ。これも男の愛嬌と、笑って許す彼女の度量に感謝しよう。ふぃ~痴漢と言われなくてよかった。
しかし、ちょっとおセンチになっていた俺を、その素晴らしいバストが漢のパトスを呼び起こし、俺に現実というものを諭してくれた。
やはり感傷では腹は膨れぬ。心の渇きは癒せぬ。
俺に必要なのは一品の肴と一杯の酒。
通り過ぎて行った夭い女を一度振り返り、その形のよい尻に向かって、欲望こそ人間の活力だと教えてくれたことを感謝し、俺は家に向かって再び歩き始めた。
ようやく賃貸マンションの俺の部屋の前につくと、ポケットから鍵を出そうとポケットを漁る。
チャリチャリ……
ガチャ!
カチャン!
ギィ~
ふぅ~
何やかんやと色々あったが、なんとか帰り着いたぜ。
冷蔵庫に買ってきたビールを放り込み、俺はスーツの上着をソファーに「ばふっ」と脱ぎ棄てると、シャツの袖を捲って台所に立つ。
さて本日の至高の一品は……出し巻き卵!
あとは付け合わせの大根おろし
残った大根とかしわで煮物だな
最後は一杯やったあとの、カツオ風味の澄まし汁か
―――ごくり
想像しただけで涎が出そうだ。
ん?炭水化物がないだと?そんなもんはビールがあるからいらん!
え?不健康だ?待ちに待った週末の一杯だぞ。そんなこと考えるか!
まずは鰹一番だしだ。
俺は鍋を取り出し水を1L入れて強火にかけた。
沸騰するまでに大根を先端部と中間部に切り分け皮を剥く。
グツグツグツ……
沸騰してきたようだ。
火を止め、市販の鰹節を60gほど投下する。
シナシナシナ……
ん~カツブシのいい匂いがしやがる。
ちょっと置いて、キッチンペーパーで濾せばできあがりだ。
続いて鰹二番だし。
さっきのダシガラを鍋に入れて水を500ml入れて火にかけて、沸騰したら弱火で数分放置だ。
グツグツグツ……
よし追い鰹で完成だ。
大根の中間部を適当な大きさに切り分け、ラップをかけて電子レンジへGO!
うぃ~~~~~ん
便利な世の中だ。もうレンジなしでは生きてはいけぬ。
さて、この間に鶏肉を切り分け塩コショウ振ってさっと炒める……
チン!
おっと大根もできたか。こいつもフライパンに投下だ。
そして二番だしを注ぎ、砂糖、塩、しょうゆ、みりんを入れて後は煮込むだけ。
次は大根おろしだな。
出し巻き卵を少し甘めに作るからには大根下部で辛めのおろしを作るべし。
大根は垂直に立てて繊維を壊すように擦るべし。
シュッシュッシュッシュッシュ……
続いて具材をカマボコ、三つ葉と一番ダシの一部に塩、しょうゆで味付けして澄まし汁を作製し、次はいよいよメインディッシュ『出し巻き卵』だ。
コンコンコン……
カシャン!
トポトポトポ
卵3つにお手製一番ダシ50cc、砂糖、塩、しょうゆを少々。
そして、素早く滑らかに、そしてよく混ぜるべし!
ちゃっちゃっちゃっちゃっ……
卵焼き用のフライパンに余熱をかけて……
ジュッ!
流し込めばダシと卵の香りが漂う。
いい感じだ。
さらに卵を流し込む。
シュ~
トントン!
卵を注いでは丸めていくのを繰り返し完成だ。
おっとダシガラが勿体ないな。
俺は残ったダシガラに少々のしょうゆとたっぷりのマヨネーズを投入する。
高脂肪で健康に悪いだと?知るか!カロリーが一番うまいんだよ!
俺はできた肴をテーブルに並べると冷蔵庫から缶ビールを一本取り出した。とーぜん500ml缶だ。
カシャッ!シュワワワァ〜
グビリグビリ!
ぷっはぁぁぁ!
「ん~~~~~~!―――んまい!!!」
やはり酒はいい!
今まで無意識に入っていた力が抜けて、脱力する感じがサイコーだ!
がぶり!むしゃむしゃ……
俺は箸をとって肴を食らう。
旨い!カツブシをケチらなかったお陰で、ダシの風味がサイコーだ!
そして再びビールをグビリ!そして再び食らうガブリ!
さらにグビリ!さらに食らう!それを無言で繰り返す。
男が酒をやるのに言葉話いらぬ。
ふぅぅぅ~
ビール缶の中は空になったが、腹はじゅうぶん膨れた。
だが、もう少し飲みたいな。
冷蔵庫からもう一本缶ビールを取り出すと、俺はそれを持ってベランダに出た。
もうすっかり暗くなっている。
5階の部屋ではそんないい眺めでもないのだが……
キリキリキリキリキリ……
虫の鳴き声を聞きながら、なんとなし缶ビールを片手に手すりに身を預けた。
カシャッ!
チビリチビリとビールに口をつける。
今日も一日嫌なことがいっぱいあった。
仕事じゃトラブル、同僚たちはピリピリ、どいつもこいつも余裕がねえ。
少々、不貞腐れぎみにだれていると、ふわっと優しい風が俺の全身を包む。
少し涼しく感じる。酔いで火照った肌に心地よい。
その風に揺られて風鈴の
チリ~ン、チリ~ン
という音が聞こえてきた。
ふと夜空を見上げれば、煌々(こうこう)と照る満月が俺を見下ろしていた。
黙って見上げていた俺は、ビールの缶を輝く満月に掲げて「乾杯」と呟いた。
グビグビグビ!
ぷっはぁぁぁ!!
ウマい!!!
ああ、今日も色々なことがあったな。仕事じゃ、きつくて嫌なことがいっぱいだった。
だが、この一杯のために頑張れた。
きっと明日も同じはず。
きつくて、辛くて、嫌なことがあるはずだ。
だけど明日もこの一杯がある。
さあ明日も一日頑張ろう!