飛翔
「馬鹿なことをやってるな」
「まァそう言うな、犬懸。打つ手がねぇんだよ」
私の呟きに、宅間は頷きながらも、そう返した。しかし、仮にも医療従事者が、神頼みなどとは。
大日本帝国が臥薪嘗胆を唱えて、いよいよ露西亜帝国と雌雄を決さんとしていた明治三十七年の正月。私は、同僚の宅間と共に五條天神を訪れていた。その由縁を知るものならば、我々が何を祈っているのかも、分かるであろう。
五條天神は、医薬祖神を祀る神社だ。そこに、科学、医学を生業とする人間が参るなど、馬鹿げているとは思うのだが、やはり祈らずにはいられない。それ程までに我々は、追い詰められていた。
研究所に戻れば、またここのところの感染の広がりを調べねばならない。その作業が苦しいのではなく、感染の対策に効果がないのが、私としてはたまらなく苦しいのだ。
黒死病だ。古来より、度々世界で猛威を振るってきた、この死の病は、我々の研究所を創設なされた北里先生も確認した通り、ペスト細菌が、鼠を媒介として感染するのだ。初めて国内での感染が確認されたのは、十年程前であったか。今までは流行という様相を呈さなかったそれが、この大事に際してにわかに首をもたげてきたのだ。国難といってもいいかもしれない。
「ペスト相手では、総理もニコポンでは上手くはいくまいね。ア、官邸から電報まで届いてら」
宅間は、演説調で読み上げる。私は適当に聞き流したが、開戦が迫っているので、感染の収束のために全力を尽くすようにということであるようだった。
「言うのは勝手だがね、今以上のことは無理だと、お上に言ってやりたいね」
「止めろよ、面倒だ」
媒体たる鼠を捕獲し、患者は隔離。居住地域は立ち入りを禁止し、場合によっては焼却処分を行う。ここまでしても尚、感染は広がっていくばかりだ。研究所の面々は、常に頭を抱えていた。
私と宅間の二人が、大阪行きを命じられたのは、その六日後であった。
「新聞を見てると気が滅入る」
宅間は、投げ捨てるように新聞を寄越した。その一面には、陸軍が着々と進軍の準備をしていることが、大々的に報じられていた。死地に赴く若い男たちの表情は、お互いを鼓舞し合うようでありながら、その奥底には、固い凝りのようなものがある。
(我々と同じだ……)
上司は、私たち二人に、ペストの調査のため西に向かえと、それだけを伝えてきた。拒否することもできずに、一日の準備の期間が終わってすぐに、新橋駅から東海道本線に飛び乗るようにして、今に至る。
「私は死ぬのか」
「おい止せ、縁起でもない」
嫌でも胸をよぎるのは、ペスト患者の苦悶と死だ。阿鼻叫喚の中に飛び込もうとしている我々は、自殺をしに行くようなものであった。いや、強制的な力が働いていたために、他殺といってもいいかもしれない。
窓の外を飛ぶ鳥を見ながら、私は、ただぼんやりと、羨ましいとだけ思っていた。その横顔を、宅間は深く勘繰ったらしい。
「そういえば、お前の飼っていた鳥は。持ってきてないのか」
私は頷いた。
「タキ子さんに預けた。確かにあちらには長く留まるだろうが、その間中、休まず世話を続けることはできまい」
宅間は、納得したように相槌を打つ。しかし、私がそれ以上のことを語らないので、辛抱できなくなったのか、それで、彼女はどうしたんだと、促してきた。
「いや、別に。いつもと変わりないさ」
「本当か?」
「…………う」
タキ子さんというのは、私が大学生の時分、下宿していた名家の娘だ。垂れた目が丸く、優しい印象の彼女は、私にいつも詩を作ってきてくれた。器量のよい女性だ。その頃を知る宅間ならば、私が彼女を恋うていたことも分かっているはずだ。
昨日訪ねた時、応対してくれたのは、そのタキ子さんであった。長い髪を編んだ、白い顔が覗いた。
「アラ、犬懸さん。どうしたんです、もうお仕事はよろしいんですか?」
朗らかな声で呼びかけた彼女は、私の顔が暗いことに、遅れて気づいたらしい。はっと口をつぐんだ。そうして、二人が何も言わないまま、少しの時間が経った。
ここで、何か事故があって、私が旅立つこともなければいいのに、と思っていた私は、籠の鳥が鳴いたことで、現実に引き戻された。私は溜まっていた唾を飲み込むと、籠を彼女に押しつけるように渡した。
「急な用事で、大阪に行くことになりました。知り合いに頼もうかとも思ったのですが、生憎都合がつかず……。あの、この鳥の世話を見てやっては貰えないでしょうか」
タキ子さんは、小さな声で、オオサカ、と復唱した。その意味するところは、英明な彼女であれば立ちどころに気づいたであろう。彼女の目が揺らいだ。
「お願いです、すぐに帰ってきます。どうかそれまで、世話をお願いしたいのです」
彼女は、何かを言いかけて、目を伏せた。唇を噛んでいるようにも見えた。
「……ありがとうございます」
私の述べた礼に、彼女はこくりと頷く。それを見届けた私は、大きく深呼吸をした。これですべきことはした、後は明日を待つだけだ。つかえが取れたような心持ちで、私は踵を返す。
「犬懸さん」
その時、後ろで私を呼ぶ声がした。振り返ると、先程と同じように、鳥籠をしっかと抱いたタキ子さんが、決然とした表情を浮かべて立っているのが見えた。
「はい」
私が受け応えると、彼女は一瞬、逡巡するように口の端を動かして、ようやく言葉を紡いだ。
「帰ってきたら、また、お話ししましょうね」
それが彼女の精一杯であった。普段の詩に現れる、美的で麗しい言の葉は、終に現れなかった。それが彼女の本当の言葉なのだと、私は納得した。
「それで終わりか」
「あぁ。悪いのか」
「いや、もっと別れを惜しむのかとも思ったんだが……。まぁいいさ、お前はちゃんと、生きて帰らなきゃな」
宅間の言葉に、私は、鳥のためなのか、タキ子さんのためなのか、どちらにしても当たり前だと、笑顔で応えた。窓外の鳥は、天高く飛翔し、もう見えなくなっていた。
そのやり取りから、数えて三ヶ月後、タキ子は鳥を逃した。籠の中では見ることができなかった、小さな鳥の力強い飛翔を、彼女は窓辺から、いつまでもいつまでも、見つめていた。