佐伯雅美④ 恩赦かあるいはへたれか。
朕は、彼女の感情を知っている。
前世では何人も見てきた。君主として、何人もの部下や敵が、そういう感情を持ったのを見たのだ。
姉さん――佐伯海美がいま持つ感情は、【絶望】である。
姉さんは一頻り涙を流した後で、ようやく身体を除けてくれた。あんまり重くもなかったし、痛みもなかったのだけど。少しばかり、朕の身体も軽くなったように思う。
大体にして、こんな包帯とギプスで拘束された弟にのっかかろうなんて、姉さんもだいぶん精神的に参っていたのだろう。
だから、いまのこの状態も、理解できないわけでない。
「――――、――――、――――、」
姉さんは、完全に表情を失って、でも顔を真っ青にして。静かな病室なのに聞き取れないくらいに小さい声で、何事かを呟いていた。
細細と動く唇を見ていると――読唇術の心得はないけれども、うっすらと見てとれた。
【ごめんなさい】と。姉さんはずーっと繰り返し呟いていた。日本人らしい薄い唇を懸命に動かして。彼女は延々と謝罪の言葉を口にしていた。
唇は水分を失い、見る間にして荒れていく。僅かずつ乾燥した皮膚が捲れあがる。姉さんはそれを気に留めない。ひたすらに、謝罪の言葉を、とても小さな声で述べるだけだった。
紛れもない絶望という感情。
己の心に穴を掘り、そこに心の全部を押し込んで。入りきらないから、どんどんと深みに嵌まっていく。心の穴は段々に深くなる。周囲の声や光が届かない、とても深い場所まで、掘り進められていく。
朕はその穴を絶望と呼ぶ。
その穴に潜り込んだ人間は、そう易々と出てこれない。
よほど強い感情がない限りは、永遠に脱出できない。
絶望は絶望を呼び寄せる。なにせもう、ひとり分が通れる穴は空いているのだ。
ひとりの絶望は、また誰かの絶望を生む。この場合はおそらく――父さんか母さんか。身近な人間を、巻き込んでいくのだろう。周りの親しい人間までも不幸にして、絶望の穴に進ませる――それは朕にとって。いや、ぼくにとって、望ましいものでなかった。
下手を打てば、姉さんは絶望の穴の道の向こう側まで行き着く。ちょうどかつてのぼくがそうであったように。
絶望の穴の先にあるのは――自害である。己の命を自主的に諦める手段だ。
もしくは。さらに弱い人間は、自分で自分の結末を迎えさせることもできないから――ちょうど暴発する鉄砲玉のように、突飛な行動に出る。世間でごくたまに騒がれる、連続殺人だの通り魔だの銃乱射事件だのの犯人は、おそらくは絶望を窮めた人間だと、朕は確信している。
そして自殺志願者の通った深い穴に、また続々と、絶望にうちひしがれた人間が入っていくのだ。
さて。ここで困ったことになった。
朕は心の中で頭を抱えてしまう。
見返してやろうと思っていた存在が、いざ見返してやりたい瞬間に、この世にいない――そんなのは容認できない。
姉さんはそこまで弱い人間だと思っていなかった。朕の言うことなど歯牙にも掛けぬ、強い心を持っていると勝手に考えていた。
おそらくは、朕の自殺をきっかけにして、自身の良心に呵責を感じていたのだろう。真っ青な顔の目元には、隠しきれぬくまがある。思い悩み、夜に寝られなかった証拠だ。
だから、神経が衰弱していたから、易々と朕なんかの言葉を真に受けて、絶望した。いつもの正とした凛々しい姿は成りを潜め、弱った猫のように、身を丸くしている。
なんだか、可哀想になってしまった。
「――なーんて、ね」
つい朕は、そんな言葉を、呟いてしまった。
「えっ?」
「冗談――ではないけどさ。姉さん、朕はそれほど怒ったりしていないよ? 嫌いになれ、なんて本気で言うわけないじゃない」
まあ、嘘だけれども。嫌いになってもらった方が、今後の朕のモチベーションが維持されるのだ。
ただ、それと姉さんの将来や命なんかを量りにかけたときに、どちらが重いのか。そりゃもちろん姉さんだ。
自分でも甘いとは思う。けど、人間どうしたって、【嫌い】と言われるよりは【好き】と言ってもらった方が嬉しいに決まっている。
――元々の前世での皇帝ぶりが嘘のような、あまっちょろい考えだ。どうやら朕は、佐伯雅美の意識と同化して、平均で平凡な、一市民に成り下がったらしい。
「許して――くれる、の?」
ずっと謝罪の言葉を小さく口にしていた姉さんは、一筋の光を見つけた穴ぐらの民みたいに、顔を上げる。
もうすっかり涙も枯渇していて、真っ赤に腫れた瞳が酷く痛々しい。
「見返してやりたい気持ちは変わらない。それに、勘違いしてもらっちゃ困るけど、全部が全部冗談というわけでもない。
――本当に、心の底から、さっきみたいなことを考えて、姉さんに言っていたとしたら? 姉さんは反論できなかったでしょ?
姉さんの考える最悪の結末も有り得た、とだけは認識して欲しい」
そんな姉さんに、朕は言う。別に先程と内容が大きく変わるわけでない。
一瞬明るくなった表情を、すぐにまた曇らせて、姉さんは俯いた。
「姉さんがなにを思って朕に辛く当たっていたか解らないけどさ。もし少しでも優しくしてくれていたら、朕はこんな風じゃなかったかもしれない。もし救いの手を伸ばしてくれていたのなら、普通に仲の良い姉弟で済んでいたかもしれない」
「それは、分かっている、わ。反省してる、してます。ごめんなさい――」
姉さんは顔を下に向けたまま、両の掌をぎゅっと握っていた。
「じゃあ、今回はこれで終わり。嫌いになれ、なんて言わないよ。姉さんは、しっかり者で、朕の尊敬するひとなんだ――いつかそんな姉さんを、ぎゃふんと言わせるよう、頑張るよ」
「――ありがとう、雅美」
姉さんはそれだけ言った。
すっかり涸れた涙の水源は、まだ復活していないらしい。
うん、とりあえずはこれでいい。甘すぎるかもしれないけど、今は満足していよう。
「さあ、もう泣くのはおよしよ。いまから朕らは、またいつも通りの、少し仲の悪い姉弟だ」
これは恩赦か。あるいはへたれだったか。どちらかを判断するのは、きっと先のことだろう。
朕は左手で、優しく姉さんの頭を撫でてやった。
そうしたら。今度こそ、姉さんは落涙した。
「ねえ、雅美」
「なに?」
「ひとつだけ、どうしても言わなきゃいけないんだけど。聞いてくれる?」
「なんだい」
「文句というか、苦情よ」
「――聞くよ、もちろん。姉弟なんだから。間違いがあればお互いに正すのは当然だ」
「『薄っぺらい身体』とは大変な侮辱よ。さすがに聞き逃せない。あんたなんて――ほーけーのくせに」
お付き合いいただきありがとうございますm(_ _)m