悪役令嬢のペットな執事 逆転した乙女ゲームの世界は破滅フラグが一杯です
先日、俺は魔術科高等学校へ至る狭き門である入試を突破した。優秀な魔術師だった姉の背中を追い続けてきた俺にとっての一区切りだ。
そうして息抜きで街へと出掛けた俺はそこで運命の出会いを果たした――といっても、ウィンドウショップで見つけたパッケージの女の子と、だが。
どうやらそれは『光と闇のカンタービレ』という乙女ゲームらしい。ずいぶんと人気のようで、シリーズ化もされている。俺が見つけたのは再入荷された一作目のようだ。
乙女ゲームをプレイしたことはないが、プレイヤーの自己投影する女の子がヒロイン。複数いるイケメン攻略対象の誰かと結ばれるのが目的のゲームらしい。
中世くらいの貴族社会が舞台となっている。現実とは違って人がホウキで空を飛ぶこともなく、貴族は馬車で移動するわりと不便な世界。
自キャラにあたるヒロインはエリスという平民の女の子。
彼女は平民の身でありながら光の精霊の加護を得る。それが原因で王子や貴族、それに騎士なんかに注目され――というのが本筋だが、俺が興味を持ったのはそっちじゃない。
パッケージでヒロインと対極に描かれている公爵令嬢。闇の精霊の加護を受けた闇の巫女、リディアという女の子のイラストに一目惚れをしたのだ。
桜の花びらを溶かし込んだかのような銀色の髪に、揺るぎない意志を秘めた深紅の瞳。少し強気そうな顔つきながらも、何処か優しさと気品に満ちた立ち姿。
ガラにもなく、本気で可愛いと惚れ込んでしまった。彼女の物語が見たくて、俺はやったこともない乙女ゲームである『光と闇のカンタービレ』を購入した。
だが、俺は先にも言った通りに乙女ゲームをプレイしたことはない。だから、パッケージにヒロインと対峙するように女性キャラが描かれている意味をよく理解していなかった。
リディアはいわゆる、悪役令嬢というポジションのキャラだったのだ。
悪役令嬢を知っている者なら、ここで「あぁ」と察したことだろう。だが、知らない者のために軽く説明すると、悪役令嬢とはギャルゲーで言うところの嫌味なイケメンキャラだ。
外見や家柄は良いのに性格は最悪で、主人公にはやたらと嫌味をぶつけてくる敵対者。
しかもわりと異性にモテたりして、プレイヤーのヘイトを一身に集める立ち位置。そうして最後は情けない姿を晒し、プレイヤーにヒロインを奪われる。
要するにざまぁ対象、プレイヤーの負けん気を引き出すための噛ませ犬である。
リディアは、乙女ゲームにおけるその役割を担っていたのだ。
すなわち、見た目は最高で家柄も最高。だというのに、光の巫女と持て囃されるヒロインが許せなくて様々な悪事を働いて信頼を失い、最終的には過去の醜聞が原因で破滅する。
その醜聞というのは王子以外の男との不貞(浮気)。
その噂は誤りで、事実は背後から見知らぬ異性に抱きつかれただけ。彼女自身は、赤ちゃんは天使が運んでくるなんて信じているくらい性に疎いお嬢様で不貞などあり得ない。
だが、数々の悪事を働いていたのは事実で、取り巻き達にも見放される。最後は因果応報、これでもかと叩かれて破滅する救いようのないキャラだ。
しかも、彼女は悪役令嬢という役回りをたった一人で果たしている。
つまり、ヒロインが各種攻略対象を攻略するたびに、毎回違う方法でヒロインを貶めようとしては、毎回ざまぁされて破滅してしまう根っからの悪女なのだ。
ヒロイン視点で見れば、むかつくキャラがやられてスカッとするのだろう。
だが、リディアを気に入ってプレイした俺的には、攻略対象の数だけ、お気に入りのキャラの卑怯な部分と情けない部分を見せられるだけのゲームだった。
しかも腹が立つことに、リディアの性格が歪んでいるのには、なにやら事情がありそうな描写があるのだが……隅から隅までプレイしても、そういう事実は一切描写されていなかった。
ちょっとシナリオライター、この伏線の回収忘れてるっ! なんて嘆いてみたが、結果は変わらない。そうして最悪の気分でプレイを終えた俺はベッドに倒れ込んだ。
そして気付いたら見知らぬ街角に立っていた。
「……え? どこだ、ここ」
さっきまで自宅のベッドに転がっていたはずだ。なのに気付いたら街角に立っている。しかも、その街並みが明らかにおかしい。
人々の服装がぜんぜん違うし、建物の様式も違い、表通りには馬車が走っている。まるで数百年くらい昔の街を再現した映画のセットのようだ。
どっかで見たような……って、そうだ、スチル。これ『光と闇のカンタービレ』のスチルに描かれてた街並みにそっくりじゃないか?
え、なに、どういうこと?
夢でも見ているのだろうかと自分の頬を抓ってみるが普通に痛い。
まさか、召喚魔術……?
いや、あれは姉が書いた論文の仮説でしかなくて、実在はしないはずだ。
そもそも――と、俺は自分の足下を見下ろした。部屋で寝ていたはずなのに靴を履いている。それに服も部屋着ではなく外出着になっている。
仮に召喚魔術だったとしても、服装が替わっている説明が付かない。
そもそも、飛ばされた先も謎である。どこか別の国ならともかく、ゲームの世界、もしくはそれに準ずる世界に召喚する魔術なんて聞いたこともない。
夢というのが一番ありそうな結論なんだが……感覚がリアルすぎるんだよな。
俺が見る夢はモノクロがせいぜいだ。基本的には小説のように情報で補完された世界で、こんな風に見渡す限りカラーの夢なんて一度だって見たことがない。
せっかくだし、少し散歩してみるか――ということで、俺は古風な街並みを歩く。
中世くらいが舞台だが、上下水道は完備されているらしい。石畳の表通りはもちろん、砂利道である裏通りもそれほど汚れてはいないようだ。
もっとも、これが乙女ゲームの世界であるなら、それもある意味必然だ。
攻略対象の中には平民の男もいて、ヒロインが平民としての暮らしを選択するルートも存在する。その実情が上下水道もない生活――というのは、現代の乙女的に辛いだろう。
いわゆる、物語上の都合、というヤツだ。
街には活気があって、聞こえてくる言語も問題なく理解できる。
明らかに異国風の街並みなのに、言語が理解できるのは本来なら不自然。だが、ここが乙女ゲームの世界であるのなら、言語が同じなのもある意味では必然と言える。
それ以前、夢であるのなら当然とも言えるのだが……
「お腹すいた」
お腹を押さえて溜め息をついた。
これが夢なら食べなくても死にはしないかもしれないが、とにかく空腹は耐え難い。なんとかしなければと思うのだが、残念ながら金目の物は持っていなかった。
かといって、働き口が見つかるかどうか……と俺は周囲を見回した。
ゲームの舞台は貴族社会が中心で、庶民の暮らしはあまり掘り下げていない。身分証や住民票の類いが存在するのか否か。要するにいまの自分が雇ってもらえるかどうかも分からない。
分からないけど……このままじゃどうしようもないな。
「すみません、ちょっと良いですか?」
俺はなるだけ愛想の良さそうなおばさんに声を掛けた。おばさんは声を掛けられた瞬間怪訝な顔をしたが、俺を見るなり愛想の良く笑い始めた。
「なんだい、私をナンパしようって言うのかい? このあとならもちろん空いてるよ」
「いえ、その……少し聞きたいことがあるのですが……実は働き口がないか、と」
おばさんのジョークへの対応に苦心しつつ、なんとか用件を伝える。一度は怪訝な顔をしたおばさんだが、彼女はすぐににやっと笑った。
「もしかして……そういうお誘いかい?」
「は? え……?」
誘う? なにが?
いや、まさか……? と俺は混乱する。だがおばさんは俺の困惑に気付かずに、これくらいでどうだい? と指を二本立ててきた。
――どころか、尻をさわさわと撫でられた。
「~~~っ。す、すみません、急用を思い出しました!」
「え、あ、おい、ちょっとっ」
おばさんがなにかを言おうとするが、俺は踵を返して全力疾走で逃げ出した。
姉が天才魔術師で、その背中を追う優秀な魔術師の卵。そんなステータスを持つ俺は友人も多く、その中には異性もたくさんいた。
だが、まだ十六歳でしかなく、女性に耐性があるとは言いがたい。当然、さっきみたいなことも初めてで、俺はとにかくパニックになった。
そうして無我夢中で走ったら、なにやら雰囲気の違う区画に入り込んでいた。
表通りにあった建物とは違う、何処かぼろっちい建物が並んでいる。ゲームの設定に合ったスラム街かもしれない。なんだか嫌な予感がする。
早く表通りに戻ろうとうろついていると、お世辞にも綺麗な服とは言えないワンピース姿のお姉さんと出くわした。
「おや? 妙に身なりの良い坊ちゃんだね。ここはあんたみたいなのが来るところじゃないよ。痛い目に見ないうちに帰りな」
「いや、その……俺はちょっと道に迷って……」
「道に迷って? ……仕方ないね。あたしが表通りまで連れていってやるよ」
「えっと……良いんですか?」
「ま、案内くらいならね。ついてきな、こっちだよ」
見かけは貧民っぽい見た目だが親切なお姉さんらしい。俺は感謝の言葉を投げかけて、先に歩き始めたお姉さんの横に並ぶ。
「にしても、あんたの保護者はなにをやってるんだ?」
「保護者……? いえ、俺は一人で来ました」
「……ふぅん。そうかい。それは……災難だったね」
「災難?」
どういう意味だ?
まさか、異世界から召喚されて災難だった――という意味じゃないよな? 知ってるはずはないし……でも、一人なのが災難って他に理由がないし……あれ?
「なぁ、ここ、行き止まりじゃ――うわっ!?」
向かっている先が袋小路だったことに疑問を抱いた瞬間、俺は彼女に突き飛ばされた。すかさず、転んだ俺の上に彼女が覆い被さってくる。
「いってぇ……なんの、つもりですか――って、なぜ脱ぐ!?」
お姉さんが唐突にワンピースをぐいっとまくり上げる。ワンピース以上にぼろっちい彼女のブラとショーツが露わになった。まるで意味が分からない。
「まだ分からないのか? 表通りまで案内するお礼をしてもらおうと思ってね」
「お礼……え、いや、冗談だよな?」
まさかの痴女? え、嘘だろ? 見た目だけならわりと綺麗なお姉さんだぞ。それがなんで、こんな……まさか、ショタコン的な……?
いや、いまはそれより、この状況をなんとかしないと。
「えっと……悪いけど、遠慮させてくれませんか?」
「はぁん? ここまで来てそんな言い分が通ると思ってるのかい?」
「いや、通るとか通らないとかじゃなくて、俺が遠慮したいんだが」
「ええい、ごちゃごちゃうるさいね。諦めろって言ってるんだよ!」
問答無用でシャツのボタンを引きちぎられる。
なにがなんだか分からないが、どうやら貞操の危機らしいとようやく思考が追いついた。
落ち着け、考えるのはあとだ。
いまはとにかく、この状況をなんとかしないと。
腕力ではさすがに勝っていると思うが、いかんせんマウントを取られている。この状況で腕力に頼るのは不確実だ。魔術を使った方が無難だろう。
高等学校にはまだ通っていないが、中等部でもそれなりに訓練を受けている。魔術を一般人に使うことは禁止されているけど、いまはそんなことを言っている場合じゃない。
俺は意識を集中して、彼女を吹き飛ばすための風の魔術を構築、即座に解放した。
だけど――
「ふふっ、良い子だね。そのまま大人しくしてたら痛くはしないさ。すぐに終わるから、あんたは目でも瞑ってな」
お姉さん改め痴女のお姉さんは変わらず、破けたシャツの中に手を潜り込ませてくる。
って言うか、風の魔術が――発動してない?
この状況で集中力が途切れたか?
落ち着け、大丈夫だ。
俺は非常時に魔術を発動させる訓練も受けている。さすがに女性に貞操を奪われそうになるような状況は想定してないけど――
マインドリセットを試み、フラットな状態で再び魔術を構成。今度はしっかりと集中して魔術の構成が完璧であることを確認するが――やはり望んだ現象を引き起こせない。
他に要因が……そういえば、『光と闇のカンタービレ』の世界には魔術がなかったな。それが原因で、魔術が発動しない、ということか?
いや、だけど構成を組めると言うことは――って、検証はあとだ!
とにかく、いまは貞操の危機から逃げることが先決だ。
この女は、俺が怯えて抵抗出来ないと思い込んでいるのか、俺の身体に悪戯することに集中し始めている。この隙を逃す手はない。
彼女が俺のズボンを脱がそうと腰を浮かした瞬間、俺は彼女を力一杯突き飛ばした。もとより体重の軽い彼女はそのまま後ろに転がる。
その瞬間、俺は彼女の下から抜け出して飛び起きる。
「あっ、あんた、待ちなさい!」
「誰が待つかっ!」
声を上げて全力でその場から走り去る。
狭いスラムの裏路地を右へ左へと全力で走る。だが、相手は地の利があるようで、俺の行く手を度々阻むように回り込んでくる。
時に引き返し、全力で走り続けた俺は息も絶え絶えにようやく彼女の追尾を振り切って表通りへと旅出したのだが――そこへ馬の嘶く声。
気付けば、俺は馬車の進路上へと飛び出していた。
「――っ」
避けなくてはと思うが、既に限界を迎えていた俺は足をもつれさせてしまう。地面に盛大にダイブした俺に馬車が迫ってくる。
轢かれると思った寸前、馬車は動きを止めた。
「何事ですか?」
「すみません、お嬢様。路地から人が飛び出して来まして」
「……人? あれは――クラリッサ」
限界まで走った俺は既に限界を迎えていたのだろう。転んだ俺は立ち上がれず、それどころか意識が遠くなっていく。
辛うじて声の方へと視線を向けた俺は、馬車の御者とメイド、それにドレス姿の物凄い美少女を視界に収め――そのまま意識を手放した。
目が覚めた俺はベッドで眠っていた。
なんだ夢だったか……と安心したのも束の間、どう見ても部屋の内装が自室じゃない。
アンティーク風の部屋は『光と闇のカンタービレ』のスチルに出てくる貴族のお屋敷にそっくりで、これが夢の続き――もしくは新しい現実だと思い知らされる。
「目が覚めたようですね」
穏やかな声に話しかけられて、俺は初めて部屋に女性がいることに気付く。俺はあの痴女に捕まったのかと飛び起きるが、ベッドサイドにいたのはメイドさんだった。
「……えっと、ここは?」
「ここはとある貴族のお屋敷です。覚えていますか? 貴方は馬車の前に飛び出してきて、そのまま意識を失ったんですよ?」
「……馬車の前」
そう言えば、スラム街で変態お姉さんに貞操を奪われ掛けたんだったな。そう思いだして自分を見下ろせば、破かれたシャツを着替えさせられている。
「ご心配なく、貴方の着替えをおこなったのは男の使用人です」
「え、あ……はい、ご配慮に感謝します」
俺が女性に貞操を奪われそうになったことを知っているのだろうかと、少しだけ引っかかりを覚えた。だがいまはそれよりも現状把握と感謝が先だ。
「遅くなりましたが、助けてくださってありがとうございます」
「すべては貴方に興味を抱かれたお嬢様のご意志です」
「そうですか。では、そのお嬢様に感謝しているとお伝えいただけますか?」
「分かりました、間違いなくお伝えいたします」
そんなやりとりを経て、俺は少しだけ安堵した。立て続けに変な女性と出会って焦ったが、ようやくまともな人間に出会えたからだ。
話が通じるって素晴らしい。
「ところで、貴方にいくつか質問があります」
「はい、なんでしょう? 俺――いえ、私に答えられることならなんでも」
「では、まずはお名前を伺ってもよろしいでしょうか? 破れてしまってはいましたが、ずいぶんと上質なお召し物を身に着けておりましたが……」
「あぁ……いえ、私はただの平民です。シオンと呼んでください」
やんごとなき身分かと問われていることに気付いた俺は、一瞬だけ迷って平民を名乗る。
ここが『光と闇のカンタービレ』の世界なら、貴族を騙るのは重罪だ。苗字を名乗ったからといって貴族を名乗ることにはならないが、よけいなリスクは避けるべきだろう。
「分かりました。ではシオンさん。貴方は病気や怪我をしていますか?」
「病気はしてないです。怪我は……擦り傷くらいですかね」
「なるほど、健康体である、と。報告通り、問題なさそうですね」
「……あの?」
どうしてそんな質問をするのかと首を傾げる。もっとこう、おまえは何者だ? とか不審者的な扱いで尋問されると思っていた。
「単刀直入にお伺いします。執事としてお嬢様にお仕えするつもりはありますか?」
「……雇って、もらえるのですか?」
「最初に申しましたが、この家のご令嬢が、貴方に興味を示しておいでです。それを踏まえた上で、貴方にその覚悟があれば、ですが」
「覚悟……?」
俺が異世界から飛ばされてきた――なんて知ってるとは思えない。だとすれば、家を出て働く覚悟とか、守秘義務とかその辺りの覚悟、ということだろうか?
だけど、俺にとってそれらは問題になり得ない。
なぜなら、このままなら俺は野垂れ死にするのが関の山だからだ――と俺はベッドから降り立ってメイドのお姉さんと向き合い、それから深々と頭を下げた。
「お願いします。私をそのお嬢様に仕えさせてください」
「……良いのですね? 年頃のお嬢様が、貴方を執事として雇うと言っているのですよ。それ相応の苦労があることを覚悟の上、なのですね?」
「はい、身の程はわきまえているつもりです。ですから、よろしくお願いします」
頭を下げたまま希う。
しばらくの沈黙の後、メイドさんは小さく息を吐いた。
「分かりました。貴方にその覚悟があるのならもうなにも申しません」
「それじゃあ……?」
「はい、採用です。ただ、平民にしてはしっかりしているようですが、執事としては言葉遣いや立ち居振る舞いに不安があります。最初は見習いとして勉強していただきます。お嬢様にお仕えするのは、それからとなります」
「わかり――いえ、かしこまりました。よろしくお願いします」
「よろしい。では最初に――お風呂に入っていただきます」
「……あ、そうですね、すみません」
いまは部屋着のようなものを着せられているが、一日中走り回って汗まみれ。俺自身がかなり汚れているはずだ。
ということで、メイドさんに案内されて、俺はお屋敷の浴槽へと連れて行かれた。
「ここが使用人の風呂場です。着替えは貴方がお風呂に入っているあいだに用意するので、しっかりと身体を洗ってきてください。……出来ますね?」
「はい、なにからなにまですみません。えっと……」
「これは、名乗るのが遅くなりました。私はクラリッサと申します」
「分かりました。ありがとうございます、クラリッサさん」
「いいえ、お気になさらず。では、後ほど」
クラリッサさんは踵を返して脱衣所を後にした。
それを見送った俺は服を脱いで風呂場へと向かう。使用人用の風呂場という話だったが、わりと大きな作りをしている。複数人が同時に入れるようになっているみたいだ。
元の世界と違ってこの世界に魔術はない。よって魔導具もなく、お湯の出る仕組みもあるはずがない――と思っていたのだが、壁には手押しポンプが設置されている。
それを操作すると、驚くことにお湯が出てきた。温度を調整することは不可能なようだが、思ったよりも技術が発達しているようだ。
「まぁ……考えてみたら当然か」
ここが乙女ゲームの世界なら、女性が好むような華やかな設定になっているはずだ。史実の貴族社会があった頃の文明と比べると、それなりに暮らしやすい環境だろう。
魔術がないことは凄く不便だけど、な。
「そういや……魔術は本当に使えないのか?」
俺は石鹸を使って身体を洗いながら、魔術について考えを巡らせる。
魔術というのは、魔力によって構成を編み、その構成に魔力を流すことで物理現象を引き起こす術のことである。
俺はあのとき、その魔術を発動させようと構成を編んだ。つまり、構成を編むために必要な魔力は存在しているし、俺の魔術の才能がなくなったわけでもない。
……いや、正確には違うな。
構成を編む魔力は自分の体内に宿る魔力を使うが、構成に流し込むのは魔力素子、つまりは大気中に存在する魔力の素となる力を使っている。
魔術が発動しないのは、大気中の魔力素子が存在していないから、か?
もしそうなら、発動に自分の魔力を使えば解決するかもしれない。大規模な魔術を扱うのは難しいかもしれないが、自分だけが魔術を使えるのならアドバンテージになり得る。
実験してみる価値はあるだろう。
――とはいえ、いまは執事としての振る舞いを身に付けるのが最優先だ。魔術師としての教育を受けてきた俺にとって、執事としての教養は未知の世界、だからな。
見習いとして雇ってはもらえたようだが、お嬢様の機嫌を損ねたら簡単に解雇されるだろう。そうなったら、俺には生きていく術がない。野垂れ死にコースまっしぐらだ。
なんとしてもお嬢様の執事として認められる必要がある。
とはいえ、それなりに勝算もある。ここが本当に乙女ゲームの世界なら、俺はいくつかの未来を知っていることになる。それを利用すれば成り上がることも可能だろう。
というわけで、風呂から上がって用意された服に着替えた俺は、さっそくメイドのクラリッサから執事としての心得を学ぶこととなった。
執事としての訓練は厳しいものだった。
だがこの世界の一般的な平民と比べ、中等部に通っていた俺の教養はそれなりに高かったようで、一般教養は早々に合格。おかげで執事としての教養に集中することが出来た。
そんなわけで、俺は三ヶ月で見習いから下級執事に昇格することとなった。
そうして今日、俺はついにお嬢様と面会することになった。
お嬢様はどんな方だろうと俺はドキドキしていた。実は今日まで、俺はお嬢様の名前はもちろん、この家の家名も教えてもらっていない。その辺りの情報が伏せられていたのだ。
情報管理がしっかりしている。
それだけ身分の高いお貴族様、ということなのだろう。
そんなわけで応接間でお嬢様を待っていると、ほどなく少女が部屋に姿を現した。
年の頃は俺より二つ三つ年下だろうか? ゆるふわなピンクゴールドのロングヘヤーに、吸い込まれそうなエメラルドブルーの瞳。
どこか気の強そうな顔立ちをしているが、そこに浮かぶ表情は柔らかい。ちょっと現実ではお目にかかれないようなお嬢様だが……はて、何処かで見たことがあるような気がする。
「わたくしはリディア。ローズフィールド公爵家の娘です」
「お初にお目にかかります、お嬢様。私はシオン。馬車の前で倒れた私を、お嬢様が助けてくださったとうかがっています。その節はありがとうございました」
感謝の言葉を伝えながら、まさかという思いが沸き上がる。
リディア・ローズフィールド。その名前を見たのはもう三ヶ月ほど前になるが、さすがにまだ覚えている。それは、光と闇のカンタービレに登場する悪役令嬢と同じ名前だ。
……え、悪役令嬢? ってことは……なんだ? 目の前のお嬢様が、将来ヒロインに数々の悪事を働いて破滅するお嬢様、なのか?
え、ちょっと待って。俺は彼女の執事として雇われたんだよな? でも彼女の執事って、悪事の実行役として処刑されるんじゃなかったか……?
……え、あれ、まずくないか?
「す、すみません。ローズフィールド公爵家のリディア様とおっしゃいましたか?」
「ええ、そうよ」
「アデライト国の……?」
「そうだと言っているでしょう。あなた、まさかわたくしの名に不満でもあるのかしら?」
「い、いえ、そのようなことは決してございません。ただ、自分のお仕えするお嬢様が公爵家のお方とは思いもよりせんでしたので、少々驚いてしまいました」
「ふふ、そうよね。このわたくしに不満を抱くなんてあるはずがないわよね」
「え、ええ、もちろんでございます」
落ち着け、俺。大丈夫、大丈夫だ。
彼女と共に執事が処刑されると言っても、それは名もなき実行役の執事というモブなので、それが俺だと決まったわけじゃない。
俺が彼女の執事になっても、悪事に加担しなければ問題ないはずだ。
もちろん、俺が処刑から逃れる一番の安全策はお嬢様の執事にならないことだ。
ただ、既に引き受けた仕事を断ることで別の問題が発生するかもしれないし、そもそも俺はここを出たとしても一人で生活するあてがない。
処刑はされない代わりに、野垂れ死にする可能性が高いと言えるだろう。
つまり、俺が生き延びる可能性が最も高いのは、彼女に執事として仕えた上で、なんとかして破滅する未来を回避することだ。
そしてそのためには、ここでお嬢様の不況を買うわけにはいかない。俺は事前に教えられていたとおり、お嬢様の前に膝をついた。
「シオン、わたくしの執事として仕え、その身を捧げることを誓いますか?」
「――はい。この身の持てる全てを捧げます」
彼女の差し出した手の取って、その甲に額を押し当てる。
「……良いでしょう。では、貴方はこれよりわたくしの執事です」
「ありがとう存じます」
一呼吸置いて顔を上げると、彼女はふわりと微笑んでいた。
悪役令嬢らしからぬ優しい顔に、俺は思わず見惚れてしまった。あらゆる手を使ってヒロインを貶めようとする悪女のはずなのに……不思議だな。
そういえば、原作には彼女の闇堕ちには理由があると示唆する描写があった。結局その理由について語られることはなかったが、探せばそれが見つかるかもしれない。
それに、リディアは原作よりも幼く、もうすぐ十六歳の俺よりも少し年下くらいに見える。
つまり、彼女はまだ王子と婚約していない。
破滅する原因である、パーティーで異性に抱きつかれるという事件が発生するのもまださきの話で、俺が注意すれば防ぐことも可能だろう。
つまり、お嬢様を闇堕ちから救う道も少なからず残っている。これから上手く立ち回れば、お嬢様を破滅させずに済む未来もある。
その未来を勝ち取れたのなら、必然的に俺の未来も安泰となるだろう。
そもそも、彼女の容姿はヒロインを上回るほど愛らしい。性格さえ悪くなければ、王子をヒロインに奪われることもない。
どうせなら彼女の王子役になりたかったが……それはさすがに不相応な願いかな。ひとまず彼女と自分の破滅を避けつつ、自分がこの世界で生きていけるように頑張ろう。
こうしてリディアお嬢様に仕えることになった俺はさっそく彼女のお世話を始める。
といっても、着替えやらなんやかんやは同性のメイドがするので、俺がお世話するのはもっぱら、紅茶を入れるとか買い物のお供とか、そういったお仕事がほとんどだ。
だが、さすが未来の悪役令嬢。
彼女は現在十四歳で俺より一つ年下だった。ゲームで悪役令嬢としてその猛威を振るうまでは二年ほどあるのだが、既に悪役令嬢としての片鱗を見せている。
要するに、わがままな要望が多いのだ。
たとえば――
「リディアお嬢様、ミルクティーをお持ちいたしました」
「なにを言っているの? わたくしが頼んだのはストレートティーよ」
「失礼いたしました」
深々と頭を下げるが、もちろん俺は注文を聞き違えたりはしていない。
最初は間違ったのかと思った頃もあったが、そう思ってしっかりと確認するようになったにもかかわらず、彼女は俺の淹れた紅茶にこうしてケチを付ける。
おそらくは俺に対するイジワルだろう。
ただし――
「申し訳ありませんが、少々お待ちください。直ちに入れ直してまいります」
「いいえ、その必要はないわ。貴方が間違ったとはいえ、その紅茶には罪がないもの。ミルクティーを我慢して飲んであげるから、貴方は罰としてわたくしの肩を揉みなさい」
「かしこまりました。では……失礼いたします」
いまのところ、彼女のイジワルは可愛げのあるレベルだ。
俺はお嬢様に断りを入れて背後に回り込み、その肩に指を這わせた。決して彼女が痛がらないように優しく、その肩を揉みほぐしていく。
「――んっ。……はぁ、良い、感じです。腕の付け根や、首筋も揉みなさい。あぁそれじゃダメ。もっとわたくしに身体を寄せなさい。離れていたら力が上手く入らないでしょう?」
お嬢様に身体を寄せるなどとんでもない――と思ったのだが、側に控えているクラリッサに視線を向けると静かに頷かれた。
言う通りにしろと言うことだと判断して身体を寄せる。
俺より小さい身体。
艶やかな髪は、俺がマッサージをしやすいように胸の方に送っている。俺のお腹の辺りに、座っている彼女の背中が触れ、温もりが服越しに伝わってくる。
「――んっ」
彼女の身体がピクリと跳ねた。
というか、マッサージで微妙に色っぽい声を出すのは勘弁して欲しい。
彼女は未来の悪役令嬢で多少わがままな性格とはいえ、外見は俺が一目惚れで乙女ゲームを買ってしまうほどには可愛い女の子なのだ。
俺に肩を揉まれて甘いと息を漏らすとか、どう反応していいか困る。
ぶっちゃけ、微妙にイケナイコトをしている気がする。クラリッサに怒られないか心配したのだが、側に控えている彼女が止める素振りはない。
とまぁそんな感じで、別の意味で俺が困るお嬢様のイジワルは続く。
そんなある日。
お嬢様は俺のマッサージを受けながら本を読んでいた。この世界の文字が読めるか不安だったのだが、後ろから覗き込んだ俺にも問題なくその本が読めた。
でもってお嬢様が読んでいるのは数学――というか、算数レベルの問題だった。彼女はさっきからずっと同じページを開いて唸っている。
「分からないところがあるのですか?」
「ええ、ここよ。だけど、平民の貴方には問題の答えどころか、問題を理解することもままならないのではなくって?」
「いいえ、文字は読めますし、問題も分かりますよ。その問題の答えは1/3です」
「……は? え……嘘? じゃあ、こっちは……?」
「そっちは267、単純な計算ですね」
「凄い……正解よ。なら、さっきの問題がどうして1/3になるか教えなさい」
「かしこまりました。その問題は――」
説明を終えると、お嬢様が振り返って俺を見上げた。
その瞳はいままでみたことがないほどキラキラと輝いていた。
「シオン、貴方、勉強が出来るだけじゃなくて、説明も上手なのね。他の分からないところも教えてもらっても良いかしら?」
「もちろん、お役に立てるのであれば喜んで」
それがターニングポイントだった。
この日より、お嬢様は各科目の勉強で俺を頼るようになった。それはクラリッサに取っても嬉しい誤算だったようで、俺はお嬢様の家庭教師を掛け持つように命令される。
もっとも、俺は数学や読み書きは出来ても、この世界の歴史や地理は分からない。最初は彼女の期待に応えられないこともあったのだが――
「貴方はわたくしの執事なのだから、わたくしの期待に応えられるようになりなさい」
そんな無茶な要求に応えるために、俺はこの世界の歴史や地理なんかを独自に勉強して、お嬢様の質問に答えられるようになっていった。
それから一ヶ月ほどが過ぎたある日。
いつものようにミルクティーを入れると、リディアお嬢様は素直にそれを口にした。今日はいつもと違う難癖のつけ方なのだろうかと身構えるがそれもない。
しかも、いつもありがとうというお礼付きである。
「お嬢様、何処か調子が悪いのですか?」
「どういう意味ですか! わたくしだって素直に感謝するときくらいあります」
「……そうですか」
というか『素直に感謝するときもある』って、難癖付けている自覚はあったんだな。
「それで、なにを悩んでおいでなのですか?」
「シオン、貴方、わたくしの話を聞いていなかったのですか?」
「もちろん、聞いております。ですが、お嬢様が意地っ張りなのはいまに始まったことではありませんから、分かりますよ」
俺がそういって笑うと、お嬢様はむぅっと唇を尖らせた。それから視線を落として紅茶を見つめると、実は――と口を開いた。
「お父様から将来の話をされたのです」
「将来……ですか?」
「ええ。いつかわたくしは、第一王子と婚約することになるだろう、と」
「それは――」
おめでとうございますというセリフは飲み込んだ。
作中ではヒロインに嫌がらせをしたりと、様々な悪事を働くほど第一王子との婚約に固執する彼女だが、第一王子との婚約を喜んでいるようには見えなかったからだ。
「……お嬢様はその婚約を望んでいないのですか?」
「そんなの――っ」
声を荒らげて、だけど彼女はその言葉をぐっと飲み込んだ。まるで、その先は決して口にしてはいけないと、自ら戒めているかのように唇を噛んでいる。
俺は彼女の背後へと回り込み、その肩を揉みほぐしていく。
「……ひゃんっ。ちょっと……んっ。シオン! なにをしているのですか?」
「よけいなことを聞いてしまったようなので、自主的に罰を受けています。ですが……いまここには私とお嬢様しかおりません。話くらいは……聞きますよ?」
信頼されているのかどうかは分からないが、最近は二人っきりなことも多い。
さわさわと肩から首筋を撫でつけて、優しく緊張を揉みほぐしていく。リディアお嬢様は甘い吐息を零すと、「そう、ですね……」と呟き、俺に合図を送った。
真面目な話をするという合図だと受け取り、マッサージを終えて彼女の正面へと移動する。
「ここだけの話に出来ると約束できますか?」
「それがお嬢様のお望みなら」
「望みます。だから聞いてください。わたくしは……政略結婚なんてしたくありません」
「政略結婚……ですか?」
「いま王太子候補になっているのは、第一王子と第二王子のお二方です。陛下は第一王子を推しているのですが、情勢は第二王子に傾いているそうです」
「そういうこと、ですか」
このままでは、第二王子を王太子に選ばざるを得なくなる。
だが、この国で大きな力を持つローズフィールド家の娘と第一王子が婚約すれば、その情勢は一気にひっくり返るだろう。それゆえの政略結婚、という訳だ。
「もちろん、わたくしだって分かっております。ローズフィールド公爵家の娘として生まれた以上、その責務は全うしなくてはいけません。たとえ、自分の感情を押し殺してでも」
彼女は公爵令嬢だ。
必死に働いて日々の糧を得ている平民と違い、豪華絢爛で優雅な生活を送っている。その代償として、彼女は生まれながらに多くの責務を抱えている。
ゆえに、親が決めた政略結婚を断るということも許されない。
その事実に思い至った俺は衝撃を受けていた。
悪役令嬢のリディアは、王子の婚約者という地位を守るために、あの手この手でヒロインに行き過ぎた嫌がらせをおこなっていた。
そこに愛と呼べる感情はなく、ただ身分に固執する醜い女性だと、そう思っていた。
だけど、もしかしたら彼女は、家のために自分の感情を押し殺してまで、自らに課せられた責務を全うしようとしていただけ、なのかもしれない。
……というか、第一王子を王太子殿下にするために望んでもいない婚約をさせられて、あげくはその王子がヒロインとの恋に落ちて自分との婚約を破棄しようとする。
そりゃ、悪事を働きたくなるのも当然……なのでは?
いや、そこで王子本人ではなく、ヒロインに嫌がらせをするのは間違っているので、彼女の性格が歪んでいることに間違いはないのだが……
もしかして、俺にあれこれイジワルをするのもストレスのはけ口だったのかもな。
いつか自分が望まぬ結婚をさせられる。そんな運命を知ってしまったら、普通の中学生ならグレたっておかしくはない。周囲にイジワルをするくらいは可愛いモノだろう。
しかし……困った。
お嬢様が王子をヒロインに奪われるのは二人の間に愛が足りないからだと思っていた。だが、そもそも二人の間には愛なんて存在していない可能性がある。
お嬢様は公爵令嬢の責務として、婚約者の地位を守ろうとしていただけで、王子は本当に好きになった相手と結ばれようとしただけ。
だとすれば王子とお嬢様が破局するのは必然だし、そうなるとお嬢様がヒロインに嫌がらせをする未来から逃れられない。自分のためではなく、家のためだから。
「……お嬢様。私では、お嬢様の婚約をどうにかすることはできません」
俺が慰めを放棄したのだと思ったのだろう。リディアお嬢様がピクリと身を震わせる。だから俺は彼女がなにか口にするより早く「ですが――」と続けた。
「お嬢様の重責を半分預かることくらいは可能ですよ」
「わたくしの重責を……?」
「ええ。私は貴方の執事、側にいると誓いましたから」
彼女が俺にイジワルをしていたのは、将来の不安から来るストレスのはけ口だった。
要するに俺に甘えていた。
そう考えると、途端に彼女が可愛く見えてくる。
「……シオン、本当ですか? 私の重責、本当に半分背負ってくれるのですか?」
「無論です。お嬢様の愚痴ならいつでも聞きますし、マッサージだって、他の遊びだって、いくらでも付き合います。責務だけ果たして、後は好きに生きれば良いじゃありませんか」
人生は結婚だけじゃない。
政略結婚をしつつ、社交界で自由に振る舞うことだって出来る。それに俺なら、前世の知識を生かして新しい遊びを考案することも出来るだろう。
「だから、これからは一人で抱え込まないでください――って、お嬢様!?」
俺はぎょっとする。
戸惑った顔をしていた彼女の瞳から、ハラハラと涙がこぼれ落ちたからだ。
「……ご、ごめんなさい。いままで、わたくしが一人で負うべき責務だと思ってて、誰かにそんな風に言ってもらうのは初めてで、だから、凄く、凄く嬉しくて……っ」
あぁ、この子はこんな重責をずっと一人で背負ってたんだ。
それを一人で抱えて、だからあんな風に心を歪めてしまった。
それが原作で触れられていた伏線の正体。
原作で伏せられたままのはずだ。こんな事実を原作で明かしたら、ヒロインの方が悪役になってしまう。少なくとも、プレイヤーが得られたざまぁの爽快感は消えるだろう。
だけど、俺にとっては知りたかった彼女の秘密だ。
リディアは見た目が可愛いだけの悪女じゃなかった。本当は健気で一所懸命、ただやり方が分からなくて、道を間違ってしまっただけの女の子。
だから――
「お嬢様。大丈夫ですよ。私が、ずっと貴方の側にいます」
「……ありがとう、シオン」
この愛らしくも不器用な女の子を必ず破滅から救おうと誓った。
その日を境にお嬢様はイジワルをしなくなり、素直に俺を頼る機会が増えていった。
同時に、罰という名目ではなく、ストレートに俺のマッサージを求めるようになる。美意識が高いのかなんなのか、マッサージの要求もどんどん増えていった。
たとえば――
「シオン、今日は手や肩だけじゃなくて、足も揉んでください」
「足……ですか?」
大丈夫なのかとクラリッサを見るが彼女はやはりなにも言わない。お嬢様もそれを当然といった様子で、ベッドサイドに座ってドレスのスカートをたくし上げた。
彼女の透けるように白いふくらはぎ、そして太ももが露わになっていく。
正直に言って刺激が強い――が、俺も未熟とはいえ執事として修行した身。煩悩を頭の片隅に押しやって、そのふくらはぎをふにふにとマッサージする。
お嬢様がピクリと身を震わせて小さな声を上げた。
痛かっただろうかとお嬢様の顔を見上げる。
だけど、続けなさいという無言の視線が返ってきた。俺は頷き、両足のふくらはぎを揉みほぐしていく。なんというか……すべすべでいつまでも触っていたくなる。
「ふふ、良い感じです。シオンはマッサージが上手なんですね」
「お褒めにあずかり光栄です」
ふくらはぎから少しずつ上へと揉む位置を上げてゆき、膝関節の裏辺りを揉みほぐす。そうして揉むことに集中していた俺は、お嬢様の表情が変わったことに気付かなかった。
「……シオン、どうしてそのようにマッサージが上手なのですか? もしかして、わたくし以外にも、このようなマッサージをしたことがあるのですか?」
無言で顔を上げると、お嬢様の目が笑っていなかった……って、え? なんでこんな唐突に闇堕ちしたみたいになってるんだ? 俺がなにかしたのか?
「……シオン、答えられないのですか?」
「いえ、えっと……姉に良くしていました」
「姉……それは義理の姉とか、ですか?」
「いいえ、実の姉ですよ。姉はとても優秀で、私はよく勉強を教えてもらっていたんです。その見返りにマッサージをさせられていた、という訳です」
「……そうですか」
ハイライトの消えていた瞳に光が戻った。
よく分からないが許されたらしい。
「ねぇ、シオン。わたくしにマッサージをするのは嫌じゃないですか?」
「まさか、そのようなことはありませんよ」
「……本当に?」
「ええ、本当です。むしろ、私がお嬢様に触れて良いのかと不安になることはありますが」
「安心しました。あ、シオンがわたくしに触れるのはまったく問題ありません。だから、もう少し上の方も揉んでくださいね」
問題ないらしい。どう考えても問題しかないのだが。
というか、足を揉んでいるだけなのにお嬢様の反応が妙に色っぽい。ぶっちゃけ、イケナイことをしている気になってくる。
俺は煩悩を押し殺しながら、無心でお嬢様の太ももを揉みほぐしていった。
――とまあ、そんな感じだったのが最初の頃。
次第にお嬢様の要求はエスカレートして、アロマオイルを手足に塗り込んでマッサージして欲しいとか、背中にもアロマオイルを塗り込んでマッサージして欲しいとか。
あげくは「わたくしがシオンにマッサージをしてあげます」とか。
なにやらだんだん過激というか、チョット妖しい方向に彼女のお願いが傾いていった。
もちろん、さすがにそれはまずいと、俺が実際に応じたのはアロマで手足をマッサージするまでである。お嬢様が服を脱ごうとしたときは全力でお止めした。
というか、アロマだけでも、お嬢様が嬌声をあげて理性を保つのが大変だったが……
いったんその話は置いといて、それと同時進行でお嬢様の勉強にも付き添った。
イジワルがなりをひそめ、代わりに可愛いわがままを言うようになったお嬢様だけど、勉強に関しては絶対に泣き言を言わない。
彼女は真面目に勉強を続けている。
健気で一生懸命な彼女に応えたくて、俺もついつい元の世界の知識を教えてしまう。どのような知識がお嬢様のためになるか試しているうちに、俺は魔術の発動に至った。
この世界には魔力素子がない。もしくは希薄のようで、大気中の魔力素子を構成に流し込んで起動するという工程が不可能だった。
そこで体内で生成された魔力のみで魔術を発動するように構成を書き換えた。その結果、小規模な魔術なら発動するようになったのだ。
で、驚くべきなのはここからだ。
俺がお嬢様の護身術の相手をしているときのことだ。
俺がこっそり魔術を使って身体能力を強化していると、お嬢様がそれに気付いたのだ。それも身体能力の向上という結果からではなく、魔術の構成を展開した空間の揺らぎに、だ。
つまりお嬢様は魔力の動きを把握できるということで――興味本位で教えてみたら、お嬢様はあっという間に初歩的な魔術を使えるようになってしまった。
「お嬢様、その魔術を使えるのは私達だけの秘密ですよ?」
「ふふっ、シオンとわたくしだけの秘密、ですね」
花のように笑う。
彼女は年相応に無邪気な可愛さを見せるようになった。
そんな感じで日々は進み、お嬢様の執事になってから一年が過ぎた。
そんなある日の夜、クラリッサが俺の部屋を訪ねてきた。
「お嬢様が私をお呼び、ですか?」
こんな時間に? と首を傾げる。
既に夕食は終わり、そろそろ就寝時間である。お嬢様の部屋に呼び出されること自体は珍しくないが、こんな時間に呼び出されるのは初めてだ。
なにかの間違いではと聞き返すが、クラリッサはもう一度同じことを口にした。
「シオンさん、貴方にいまから寝室に来て欲しいとのことです」
もしかして、またマッサージの要望だろうか?
最近、それはいくらなんでもダメなんじゃないかと思うようなお願いされることがあって、断るのに苦労している。このあいだなんて、お風呂で背中を流せと言われて全力で逃げた。
今回もそうだ。
夜に寝室に呼び出すなんて、わりと問題だと思う。
「……私が出向いて構わないのですか?」
「それがお嬢様のお望みですから」
貴族令嬢であることを考えると完全にアウトな気がするのだが、クラリッサは側仕え筆頭という位置づけだ。そんな彼女の言葉には重みがある。
彼女が良いと言うのなら、それがまかり通るということだ。
「かしこまりました。ではいまからうかがいます」
「はい。それと……私は同行いたしません。貴方が一人で向かうことになりますが……くれぐれも、自分がなぜお嬢様の執事に選ばれたのか、その理由を忘れないように」
「も、もちろんです」
お嬢様に不埒なことをするなという意味だろう。だが俺は、彼女が異性との醜聞が原因で破滅するという未来を知っている。そんな原因を自ら作るわけにはいかない。
とまぁそんなわけで、俺はお嬢様の部屋へとやってきたのだが――
「お、お嬢様、その恰好は一体?」
「これはネグリジェといって、最近貴族令嬢の間で流行している寝間着です」
「そ、そうですか。とてもお似合いですよ」
いや、もちろんネグリジェは知っている。
この世界で見るのは初めてだが、元の世界では普通に存在する寝間着だ。
だが問題なのはそこじゃない。
問題なのは、どうして十五歳の美少女が、寝室に執事と二人っきりの状況で、下着が透けるような薄手のネグリジェを身に着けているのか、ということである。
「……シオン、あなたは言いましたね。わたくしの重荷を半分背負ってくれる、と。あの言葉に嘘偽りはありませんか?」
「はい、それはもちろんです」
俺が胸に手を当てて臣下の礼を取ると、リディアお嬢様は顔を真っ赤に染めた。
「では、――わ、わた、わたくしの……」
「はい」
「わたくしの愛人になりなさい!」
「はい。……はい?」
え? いま、愛人になれと言われた気がするんだが……気のせいかな? いや、気のせいだよな。公爵家のお嬢様が執事を愛人にしようとするはずがない。
「申し訳ありませんが、聞き取れなかったのでもう一度言ってくださいますか?」
「なぁっ!? わ、わたくしにもう一度言えというのですか!?」
お嬢様が泣きそうな顔をする。
この反応は……いや、でも、まさか……
「お嬢様、お願いします。もう一度だけ、お聞かせください」
「~~~っ」
お嬢様は耳まで真っ赤に染めて、それから――
「わ、わたくしの愛人になりなさいと言ったのです。二度も言わせないでください……ばか」
と、上目遣いで睨みつけてきた。
可愛すぎる……が、え? マジで? どういうこと?
「あ、あの、大変申し訳ないのですが、愛人とはどういう意味でしょうか?」
「そこから説明しろというのですか!? 分かってて聞いているでしょう!」
お嬢様が涙目になった。どうやら、聞き間違いでも意味の取り違いでもないらしい……………………って、いやいや、ないらしい、じゃねぇよ。
リディアお嬢様は将来、男との不貞を疑われて破滅する。なのに、俺がお嬢様の不貞の相手になってどうするんだよ。確実に俺とお嬢様が破滅しちゃうだろ。
「えっと……その、さすがにそれはまずいと思うのですが」
「私の重荷を半分背負ってくれると言いましたよね?」
「――うぐっ」
「シオンは、わたくしに嘘を吐いたのですか?」
「い、いや、そんなことはないのですが……えっと、そう。お嬢様は将来、王子の婚約者となられるお方。そのような不義理を働くわけにはまいりません」
「そのような綺麗事は聞きたくありませんっ!」
身も蓋もねぇ。
もし許されるのなら、俺だってお嬢様と恋仲になりたいと思っている。恋仲じゃなくて愛人だったとしても、それでもかまわないと思うくらい、俺はこの一年でお嬢様に惹かれている。
だけど、お嬢様は王子と婚約する予定だし、他の男との噂は破滅フラグとなる。それを知っていて、彼女の愛人になる、なんて言えるはずがない。
そもそも貴族社会――というか、この世界において令嬢の浮気は許されない。基本的に男が家を継ぎ、女性はその家に嫁いで跡継ぎを産むことを求められるからだ。
つまり女性の浮気は、産まれた子供が当主の血を引いているのか? という問題に及ぶ。ゆえに男性の浮気は見逃されても、女性の浮気は見逃されない。
これが、悪役令嬢のリディアがつまらないデマで破滅した原因である。
だから、彼女が愛人を作るなんて許されない……って、ちょっと待て。原作のリディアお嬢様はたしか、子供は天使が運んでくると信じるくらいの乙女だった。
もしかして、愛人の意味をちゃんと理解してないんじゃないか?
「お嬢様、大変ぶしつけな質問ですが、愛人がなにをするかご存じですか?」
「シ、シオン、またそんなことを聞いて、分かってて聞いているでしょう!?」
「いえ、すれ違いを起こさないよう、念のためにどうかお願いします」
「……わ、分かりました。耳を寄せなさい」
言われた通りに耳を寄せる。
リディアお嬢様が俺の耳に唇を寄せ――
「シオンがわたくしの愛人になったら、えっと……その、ですね? シオンとわたくしが一緒のベッドに寝て、それからわたくしが――」
お嬢様が俺の耳に唇を寄せ、少し照れたような囁き声で囁く。
その内容は誤解のしようのない性行為について。年下のお嬢様が耳元でエッチなことを口にする、そのシチュエーションは物凄い破壊力だった。
「……どうですか? ちゃんと理解しているでしょう?」
「え、ええ、そうですね」
この世界では結婚も出来る年齢とはいえ、元の世界ならまだ中学三年生。原作ゲームでは無知だったのに、まさかあんなに具体的なイメージを持ってるとは思わなかった。
というか、意外と積極的というか……おませさんだ。
「ですがお嬢様、そこまで分かっているのなら分かるでしょう? お嬢様の立場で、万が一子供が出来たりしたらどうするのですか?」
「もうっ。わたくしを馬鹿にしているのですか? 子供は愛し合った二人が心から望んで初めて、天使様が運んできてくださるのです。そのような心配は必要ありません」
……あ、あれ?
こっちでも原作通り、子供の作り方を知らないのか? でも、あそこまで具体的な性行為について知ってるのに、なんで子供の作り方を知らないんだ?
意味が分からない……というか、どうやって説得すれば良いんだ?
いや、説得もなにも、クラリッサにも散々釘を刺されたじゃないか。
あれってたぶん、このことを予想してたってことだろ。ここでお嬢様の言葉に流されたら、ゲーム開始を待たずに。クラリッサに破滅させられる。
俺は咳払いを一つ、正面からお嬢様の手を握った。
「お嬢様。お嬢様はまだ幼くていらっしゃいます。婚約の話を聞かされて自暴自棄になるのは分かりますが、そのような不貞を働くわけにはまいりません」
「自暴自棄などではありません。わたくしは――」
その先を言わせるわけにはいかない。
俺は人差し指でお嬢様の唇を押さえて首を横に振った。
「なぜ、ですか?」
「私がお嬢様を心から大切に思っているからです」
「……わたくしのことを?」
不安げに問い掛けてくる。
俺は彼女の目を見て、しっかりと頷き返した。
「お嬢様の重荷を半分背負うという言葉に嘘偽りはございません。愛人になることが本当にお嬢様の幸せに繋がるのなら、私は喜んで愛人になります」
「本当、ですか?」
「はい。ですが、お嬢様の愛人になることが本当にお嬢様のためになるのか、私にはその判断が出来ません。ですからどうか、考える時間をください」
「……分かりました、今日のところは我慢します」
お嬢様の了承を得て、俺は部屋を退出した。
ひとまずは切り抜けた。
だけど、出来たのはわずかな時間稼ぎだけだ。このあいだになんとか対策を――最悪はクラリッサに相談して、お嬢様を諭してもらおう。
なんて考えていたのだが……翌朝、俺はクラリッサに呼び出しを受けた、逃げたい。
いや、まぁ……そうだよな。
クラリッサにあれだけ釘を刺されていたんだ。手を出さなかったとはいえ、条件次第では愛人になるようなことも言っちゃったし、かなり調子の良いこともいってしまった。
クラリッサの耳に入っていれば、彼女の不況を買っている可能性は高い。
いや、でも、実は他の件という可能性も……
「シオンくん、どうして呼ばれたか分かっているますね?」
「リディアお嬢様の件、でしょうか?」
「ええ、そうです」
「昨夜の件、でしょうか?」
「ええ。なにか、言いたいことはありますか?」
半眼で睨まれてしまう。
もう、どこにも逃げ場は残っていなかった。
「……えっと……その、お嬢様はなんと?」
「貴方を愛人にしたいと誘ったら逃げられた、と」
「うぐっ」
言い訳の余地すら残っていなかった。
「……調子に乗ってすみませんでした。どうやって断るのが角が立たないかと必死に考えた結果、ちょっと中途半端になってしまったんです」
「はい? あなたはなにを言っているのですか?」
「え、ですから、断り方が中途半端だった、という話では?」
「違います。なぜ断ったのか、という話です」
「……え?」
「え? ではありません。自分の立場を考えるようにと念を押したではありませんか」
なにを言われているのか理解できない。言われた言葉をなんど反芻しても、それが示している答えは一つしか思い浮かばなかった。
「ええっと……それではまるで、お嬢様の申し出を断ったことを責められているようですが」
「聞こえるもなにも、その通りです」
お、おかしいな。俺が変なのか?
貴族令嬢、それも将来王妃となるはずの公爵令嬢に愛人(執事)を容認するとか、どう考えても首が物理的に飛ぶ案件のはずなんだが……?
「えっと……その、つかぬことを聞きますが、愛人というのは、その……プラトニックな関係のことを言っているのでしょうか?」
「男女の営みを含むに決まっているではありませんか」
「で、ですか……」
いや、やっぱりおかしいって。
おかしいよな? え、おかしくない??
「たしかにお嬢様はまだ十五歳ですから、一方的に貴方がおもちゃ――いえ、ペットになるようなこともあるかもしれませんが、そこは諦めてください。覚悟の上でしょう?」
言い直した方が酷い。
というか、そんな覚悟はした覚えないよ……
いや、執事になるときに覚悟がどうとか言われて頷いたけど……え、これのこと? そんなの、完全に予想外なんだけど。
「質問を重ねて申し訳ありませんが、大変混乱をしておりまして。私にお教えいただきたいのですが……その、万が一にも子供が出来たら大変なのでは?」
なにを聞いているのやらであるが、俺も混乱しているので許して欲しい。
「なにを心配しているかと思えば、そのような心配は必要ありません」
「もしや、完璧な避妊方法が……?」
「避妊? あなたの言う避妊がなにか分かりませんが、子供は愛し合った二人が心から望んで初めて天使が授けてくださるのですよ?」
「……ん? んんんっ?」
クラリッサまでなにを言っちゃってるんだ?
もしかして、リディアお嬢様が天使とか信じてたのは、クラリッサが原因なのか?
「恐れ入りますが、それは子供用のおとぎ話では?」
「なにを言っているのですか、事実ですよ。男女が愛し合ってから十ヶ月ほど経った頃、男のもとに舞い降りた天使が赤子を授けてくださるのです。見たことありませんか?」
「……ないです。というか、クラリッサさんはあるんですか?」
「もちろん、何度かあります」
「あるの!?」
「むしろ、貴方はどうしてないんですか?」
「え、いや、その……あはは」
やばい。これは本当に、この世界では常識っぽい。
そっか……赤ちゃんは天使が運んでくるんだ。……運んでくるんだ?
予想もしていなかった事実である。
でも、子作りに性行為は必要なんだよな? 受精卵を天使が一度持ち帰って、何処かで育てて運んでくるんだろうか……?
詳細を想像したら物凄くシュールだ。
ここは異世界だからと言えばそれまでだけど、原作ゲームでは乙女なリディアの誤解という設定だったから、原作ゲームの世界でも、子供の作り方は元の世界と同じだったはずだ。
ということは、この世界はゲームと違う設定になっているってことか?
……あれ? ちょっと待てよ。
さっきクラリッサが、子供は男性の元に運ばれてくるって言ったよな?
と言うことは……まさかっ!
「あの、一つ聞きたいのですが、女性が愛人を持つことは、わりと良くある話ですか?」
「……まあ、そうですね。大きな声では言えませんが、珍しくはありませんね」
「では、男性が愛人を持つのはどうですか?」
「それも無くはないですが、女性よりは少ないですね。跡継ぎの問題がありますから」
――やっぱりだ!
原作ゲームにおける貴族社会の設定では男の浮気には緩く、女の浮気には厳しかった。女の浮気の場合、跡継ぎが当主の血を引いているかという問題に発展するからだ。
だがこの世界、子供は男性の元に届けられる。
ということはつまり、男性が子供を産むのと同じことで、女性が浮気をしても跡継ぎが本当に当主の血を引いているのかという心配をする必要がない。
ゆえに、この世界では女性が浮気するよりも、男性が浮気をする方が問題になりやすい。元の世界と比べて、価値観がひっくり返っている――というわけだ。
原作ゲームと同じで家を継ぐのは男性のようなので、必ずしも逆転世界というわけではないかもしれないが、価値観はだいぶ変わっている。
乙女ゲームの世界は世界でも、男女の価値観が逆転した乙女ゲームの世界といえるだろう。
つまり、俺がこの世界に来たとき貞操の危機を迎えたのも偶然じゃない。この世界では、女性よりも男性の方が貞操観念が強いというわけだ。
なので、お嬢様が俺にマッサージを所望していたのも、元の世界でたとえれば、貴族のボンボンが、不純な理由でメイドにマッサージをお願いするような感覚、と。
……あぁぁぁあぁぁっ、やらかした。
お嬢様にマッサージをするのは嫌じゃないかと問われて、嫌じゃない、むしろ自分で構わないのかといった趣旨の答えを返してしまっている。
それどころか、責務さえ果たしたら、後は好きに生きれば良いと言った。それは彼女にとって、政略結婚を果たせば、後は男遊びでもなんでもすれば良いと言われたも同然だ。
で、俺は見事に、いくらでも遊びに付き合うと言ってしまった。
やらかしてる、思いっきりやらかしてるよ俺。
……って、あれ? ちょっと待てよ。
「クラリッサさん。ようするに私は、お嬢様の愛人になることを望まれているのですね?」
「はい、その通りです」
おぉぉぉ……っ。
ということは、ということは、だ!
家庭教師という地位を使って、お嬢様を自分好みの女の子に育てて、あんなことやこんなこともし放題。将来は王子との婚約も破棄になるわけだし、俺の完全勝利じゃね?
「ただし、決して愛人だと言うことがバレないようにしなくてはいけませんよ」
「……え?」
浮かれていた俺に、クラリッサが冷や水を浴びせた。
「ええっと……どういう意味でしょう? お嬢様が愛人を持つことは問題ないのですよね?」
「ある程度は、という話です。ある程度は目こぼしがあるというだけで、決して推奨された行為ではありません。特に王家にバレるのは好ましくありません」
「で、ですよねぇ」
うん、冷静に考えてみたら当然だ。
元の世界よりは、女性の浮気に緩くなっていると言うだけで、すべてが逆転しているわけじゃない。王太子殿下――ゆくゆくは国王の奥さんが浮気なんて、外聞が悪すぎる。
……って、あれ?
もしかしなくても、俺が愛人になったらお嬢様が破滅する原因になるのでは?
そう、だよな。
元の世界では、一方的に男に抱きつかれただけで破滅したのだ。いくら貞操観念が逆転しているとは言え、実際に愛人がいるなんてことが発覚したら……うん、破滅するね。
クラリッサはバレなければ問題ないという認識のようだが、リディアお嬢様が闇堕ちした後は、お嬢様を破滅させるために様々な者が動きだす。
隠し通すのは非常に難しいだろう。
「す、すみません、やはり私は、お嬢様の愛人になるのを辞退したいと思うのですが」
「今更そんなことを言って――消されたいのですか?」
「……イエ、マサカ、ソンナ」
うん、思いっきり事前に確認されたもんな。
いまにして思えば、お嬢様と顔合わせするまで家名すら教えてもらえなかったのもそれが理由だろう。俺が断ったとき、リディアお嬢様の醜聞にならないようにしたのだ。
そこまで対策を徹底している以上、ここで拒絶したら本当に口封じされる。
つまり、愛人になるのを断って俺だけ口封じに消されるか、愛人になった末に、そのことが王子にバレて、お嬢様共々破滅させられるかの二つに一つ……?
え、待って、どっちにしても俺の人生詰んでるよ、どうしてこうなった!?
お読みいただきありがとうございます。
いかがだったでしょう? 今作は中編として書きましたが、一応は長編候補の一つとなっています。なお、短編や中編はいくつも投稿していて、来週には別の中編を投稿予定。
両方長編化することもあれば、どっちも長編化しない場合もあります。
また、来週に新作長編も投稿します。
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