4
いってきます、と呼び掛けたところで誰が返事をしてくれるわけでもなく、それでも実家で暮らしていたときの癖が抜けない。面白いもんだ、と唇で小さく笑いながら扉の鍵を閉めるとエレベーターへ向かっていく。
七月に入った。もっと暑くなるなんて信じられない。冷蔵庫でキンキンに冷やしたペットボトルの水を、道中を歩き駅に向かう時点で三分の一飲んでしまった。後悔。給料日までピンチなのに。駅と併設されているセブンイレブンに入る。買うのはコンビニオリジナルのペットボトルの飲料水、あとおにぎりをふたつ。大食いな方ではないのでこれで足りるのは助かるが、やはり、社食を食べているのを見ながらこれを食べているのはなんだかひもじい。でも先月は少し値段の張ったブラウスを買ってしまったし、あれで出社した日にはやる気がみなぎるに違いないと思うようにしている。我慢、我慢。
改札を通り、電車は時刻表通りにはなかなか来てくれないので二、三本前の電車に乗ることにしている。今日みたいにちゃっかり早めに着いてしまうと、とても暇になってしまうから困る。どうしたものか、と都会に向かう電車を眺めながら奇跡的にぽっかり空いている座席に座る。ここから三十分かあ、昨日も夜更かししてしまったので乗り過ごさないか心配だ。
二十分も早く着いてしまった。今週の掃除・整頓当番の二人がオフィス内をいそいそと動いている。気まずいな、忙しそうな中ボーッとしてるの、申し訳ないな。まあ、当の本人たちはそこまで思っていないのだろうけど。複雑な気持ちを抱きながら自分の席に向かうと、藤川さんが既に席についていた。藤川さんも電車組なのだが、藤川さんが乗ってくる線はそんなにダイヤが狂うこともない筈だ。どうしてだろう。それに、机に向かって何をするでもなく、キーボードを見つめている。おかしい。
「……だめだったの」
こちらから声をかける前に、ゆっくりこちらにオフィスチェアを回し、斜め下を見たまま、開口一番そう言って、悔しそうな、悲しそうな表情を浮かべる。……神崎さんのことか。オフィスチェアに腰を下ろし机の下に荷物を置いてから、訊いてみる。
「どうされたんですか」
「……振られちゃった。だめだった、私じゃ」
目に溜められた涙は頬を伝うことはなく、長く本数の多い睫毛たちの間で停滞している。下を向いているからか、照明の関係か、光が当たってキラキラ輝いている。こんなとき、どういう言葉をかければいいのか、わからない。おそるおそる、口を開く。とにかく、気を紛らわせてあげよう。
「どんな風に告白したんですか」
「うん……仕事の後、昨日、仕事終わって、玄関で待ってたの、会社の」
「はい」
「それで、ちょっと良いかな、時間空いてる、って訊いたんだけど」
「うん」
「着いてきてくれて、タリーズで話したの」
「うん」
ぽつりぽつり、丁寧に話してくれているのだけど、動揺が隠せないのだろう、言葉が足りなかったり順序がおかしかったりするが、なんとなくわかる。きっと告白のときも、こうやって慎重に伝えていたのだろうな。でも、どうして。すると、藤川さんは少し言い淀んでから、弱々しい声で、
「……『嬉しい』って。でも、『気になる人がいるんだ』って。『好きかどうか分からないけど』って……」
「それ……ずるくないですか。もう……迷ってる時点で好きじゃないですか。どうしてはっきり言わないのかなあ……」
「多分、直接的に言って、傷付けないように言ってくれたんだよ。そう思ってる。……やっぱり神崎さんは優しいな」
「それ、優しさって言うんですかね」
「わからないけれど……私は、そう思うことにしたんだ」
そうやって、ぱっ、と上げられた顔は眉尻を下げて、切なそうに笑っていた。睫毛に溜められていた涙は、ぱたぱた、と辺りに飛び散って私の手の甲を濡らした。こんなに美しくて、優しい人なのに。
「あそこのカフェラテ、もう飲めないなあ。好きだったのにな」




