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Le Dernier Cadeau-4

 その日から毎日、私は父のそばで過ごした。

 父は言葉をほとんど発することがなかったけれど、私はずっと父に話し続けた。

 東京で生活していたとき、こうやって父に毎日語りかけている自分を想像したことなど一度もなかった。

家族や人のことを思いやることさえできていなかったと思う。

 パンの花と瓶は父の枕元に、パリの香りを運んだ。

 父は枯れないバラの花に囲まれながら、眠ったり起きたりしながら、確実に毎日を生きていた。しかし、その一方で父がそんなに永くないことは、誰の目から見ても明らかだった。口から物を食べることもなければ、父が立ち上がって歩くこともないことは、その様子から簡単に察しがついた。

 それでも父は毎日きちんとその瞳を開け、誰かが来るとその声に応じてにこやかに笑ったり時に指先や体を動かしたりすることもあったほどだった。

 数時間起きてはまた眠って、というのを繰り返す父だったが、不思議なことに太陽が昇る朝になると必ず目を覚ました。そして、夜になると昼間よりも深い眠りについているようだった。

 また、明日ね。と翌朝父の目が覚めますようにと毎晩祈ってから父と同じ病室で、簡易ベッドの上で眠った。

 人生の中で父と二人きりでこんなにも長く一緒にいたことなんてあっただろうか。

 私はふと、眠る前にそんなことを考えた。

 父の呼吸の音が、静かな病室に流れていた。

「お父さん、私ね」

 夜二十三時過ぎ、私は寝静まった父にそっと話しかけた。

「お父さんの娘でいること、本当に誇りに思っているからね。生んでくれて、育ててくれて、ありがとう」

 なぜ、そんな言葉がふいに私の口から出たのかは、正直分からない。私は父にそう言ってからベッドに潜り込んだ。父と二人きりの病室で私は、父との思い出の中に浸りながら眠った。

 パリから運んできたパンは母と食べてしまったけれど、パンの香りのするバラの花だけは、まだしっかりとそこで咲いていた。父と私が毎日交わした言葉をきちんと書きとめておくかのように、花は身動きもせずそこに咲いていた。

 父の見舞いに最初に来てからちょうど一週間が過ぎようとしていた。

 この一週間の間、私はずっと父の病室に寝泊りしていた。母を少し休ませてあげたかった気持ちと、父と二人で過ごす時間を大切にしたいと思う気持ちから、自分からそうしたいと言ったのだ。その間、母は毎朝十時前に病室にやってきて、夜の八時過ぎに家に帰る生活をしていた。

 今日もついさっき、母がお父さん、香里、お休みと言って、病室を出て行ったばかりだ。でも明日からは、私の代わりに母がまた、この病室で父と一緒に眠ることになる。

 私の帰国の日は、二日後にせまっていた。

 十日間の休みはあっという間に過ぎ去ろうとしていた。

そして、私は、その事実を父に言い出せないでいた。

それを口にするのが怖かった。

もしかすると、これが本当に父との最後のお別れになってしまうかもしれない、という恐怖につぶされそうだった。本当に今晩が父と二人で過ごす最後の夜になるのかもしれないと思うと、それだけで胸が苦しくなり、言葉が出てこなくなるのだった。

結局、私は父が起きている間に、そのことを言い出せなかった。

言い出せなかった自分の頼りなさと、勇気のなさを思うと、少しくやしくなった。

その代わりに、いつもと同じように父が眠りについたすぐあとで、私は父の手をいつもよりも強く、ぎゅっと握りしめた。父が痛いと感じるほどの、渾身の力を込めた。

すると驚いたことに、父はその手で私の手をきちんと握り返してくれたのだった。

父の手は、あたたかく、そしてゆっくり、やわらかく、私の手を握った。

手から父のあたたかい体温が伝わってきた。

父がゆっくりと深い息をするのを見届けながら、私は言葉をかみしめながら、話し始めた。

「お父さん、私、明日は泊まれないんだ。明後日にはパリに帰らないといけないの」

 父のやさしいぬくもりが、私に台詞をうながした。

 やっとの想いで父にそう言うと、父は、一文字づつ、ゆっくりと私にこう言った。

「か、お、り。わかって、いたよ。パリでも、がんば、り、な、さい」

 その言葉は病床の父が本当にそう言ったのだろうかと思うほど、力強い父親の声で、私の耳のうしろにしっかりと刻み込まれた。

 日本語のひらがな、カタカナの一文字一文字が、私の脳みその奥の方まで響き渡るような感じだった。

「うん」

私は大きく頷いた。

「お父さんもがんばってね」

 どうしてそんな言葉が出たのかは自分でも分からなかったが、私は父にそう言った。

 そして、そんな娘の台詞に、父はわかっているよ、と笑顔でゆっくりとまぶたを閉じた。

 父が静かに眠りにつくまで、私はその手を離さずに、ずっと握り締めたままだった。

 バラの花が、父をおだやかに見守っていることを私はその目で確認してから、ベッドに入った。

 そしてこの日が本当に、私と父が最後に一緒に過ごした夜になった。


 父が亡くなったのは、私がパリへ戻ってから二週間ほどたったある月曜日の朝だった。

 母から電話が鳴ったとき、あ、お父さんが天に召されたのだ、と私の野生の勘がそう言っていた。母がどれだけつらくて悲しい想いで電話をしてきたのかと思うと、それだけで胸が痛くなった。

 月曜日の朝七時に携帯電話が鳴った。

「香里。お父さん、空の向こうに飛んで行ったから、もうすぐパリに着くかもしれない」

 母の第一声はそんな言葉だった。

 精一杯の元気と愛情を感じる言葉に、私は今にも泣きそうな声をかみ殺して、かろうじて返事をした。

「わかった。迎えに行くね」

 父は今頃、パリの街中で迷子になっているかもしれないのだ。

 迎えに行かなければと思い、夢中で窓を開けた。確かに今、私は、セーヌ川沿いの十六区。静かな住宅街のアパートで私は暮らしている。父はどこへ向かっているのだろうか。

 パリの街は広い。

 迷子にならなければいいけれど、とカーテンを大きく広げた。

 青い空が目の前に広がっていた。

 太陽がきらきらと川を照らして、やわらかな日差しが部屋に入りこむ。

「お父さん、いらっしゃい」

 ふうっと入り込んできた風に、ふと、話しかける。

「あの瓶と同じ香りがするでしょ?」

 風がやさしく、寝室からキッチンへ吹きぬけた。

 大きく深呼吸をしてから、私は早速帰国するための準備をはじめた。

 できれば今晩のフライトで帰りたい。

風のようにやってきた父を連れて帰るのだ。日本へ。

そして、父をきちんと見送らなくてはならないのだ。今度は本当に空の向こうに。

 荷造りをしているとき、ふと、入れ忘れたものがあることに気がついた。それは、母の誕生日にと思って買い置きしておいたブランド物のスカーフだった。

「そういえば」

 ふとカレンダーを見ると、母の誕生日がつい三日前に過ぎていたことを思い出した。

 土曜日の夕方、母とスカイプで話をしたとき、母が言っていた。

看護師さんや看護婦さんたちが、父と母の似顔絵とメッセージを入れた大きな額縁を作ってくれて、サプライズの贈り物をしてくれたそうだ。そしてみんなでハッピーバースデーの歌を歌って、記念撮影をしたそうだ。

母は、父と一緒に誕生日が過ごせたことを心から喜んでいた。母は電話で、今年は病院でお父さんとしんみり過ごすのかなぁと思ってたんやけど、こうやってみんなにお祝いしてもらえて、ホンマに嬉しいわぁ、と笑いながら話していたのだ。

 母が笑顔でいること。笑っている姿を見るために、父はこれまで懸命に生きてきたのだ。毎日父のことを心配しながら、看病している母に、きっと精一杯のお礼をしようとしていたのだろう。

 父は母の誕生日を一緒に祝うために、これまでの毎日を、頑張って生きてきたのだ。

 そして、母の笑顔を見届けてから、空の向こうへ旅立って行ったのだった。

 だから父は今朝、亡くなったのだ。

「お父さん・・・」

 風に、私は話しかけた。

 そしてまた、空き瓶に父と思われるその空気を詰めて、スーツケースにしまいこんだ。

 今度はこの風を母に届けなくてはならなかった。

 私はあわてて航空券を購入するために、パソコンを開いた。

 幸いなことに、オフシーズンだったので航空券はすぐに購入できそうだった。

三度目の帰国を果たすべく、私はパソコンに自分のクレジットカード番号を夢中で打ち込んだ。

 パリの香りがする父を、母へ届けるために。


<完>

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